第5話 忘れますわ!
再び家庭教師たちと勉強の日々が始まり、シェルリンはゆっくり考える時間が無くなった。
それでも以前のシェルリンとはちょっと違うようで、出された課題はきちんとするが、授業と授業の合間など少しでも時間が空くと、紅茶を飲んでくつろぐようになった。
どうやら前世のシェルリンは少し面倒くさがりだったようだ。
アンジーたちは最初休むシェルリンに驚いていたが、もっと完璧に! と意気込んでいるシェルリンや家庭教師たちと違って、今までが頑張りすぎだと思っていたらしい。
シェルリンが休憩するようになったとわかるや否や、すぐに紅茶を出せるように準備するなど積極的に休憩をとらせるようになった。
断罪回避のための案はまだ思いついていない。
熱が下がってからもう四日。
考えれば考えるほど、もう何もかも忘れてしまいたい気持ちが強くなる。
でも、全部忘れるってどうやって……。
それに、忘れてしまったらゲームのシェルリンのように断罪されるのではないだろうか。
「お嬢様、ライ様がお戻りになられました」
断罪回避についてあれこれ悩んでいるとアンジーがライの帰宅を告げる。
あれ? ライは寮生活ではなかったの?
今日は確かに土曜日で、学園の授業はない。
だけど、土曜日も日曜日も寮で過ごすとゼルダンは言っていたはずだが……。
急いで出迎えに行こうと思ったら、既に彼の方が部屋に来てくれていた。
入室の許可を出せば、大きな花束を抱えたライが部屋に入ってきた。
「シェルリン様、お加減はいかがですか?」
「ライ叔父様、ご心配おかけしました。もうすっかり大丈夫です」
ベルがライから花束を受け取り、花器を探しに行く。
その後ライとは、当たり障りのないことを二言三言話しただけで、次の授業の時間になってしまった。
せっかく来てくれたというのに心苦しいが、家庭教師の予定を話すと「急に来たのは自分だから」とライはすぐに寮へと帰っていった。
本当にシェルリンの見舞いの為だけに来たらしい。
さすが攻略対象。女の子に優しい。
ライが帰り、家庭教師が入れ替わり立ち替わりやってきて、ようやく一日が終わる。
マーゼラの刺繍の課題をやりながら考えるのは、やはり断罪回避についてだ。
あれから考えても考えても良い案が見つからない。
ゲームの知識を使ってヒロインのように好感度を上げようとしても、好感度が上がったのはゲームの言葉を言ったからだと、ヒロインの立場を奪ったのだと気に病むだろうし、木登りの練習なんてする暇ない。
ヒロインや攻略対象者を無視しようにも、絶対周りになんか言われるだろう。
それに今までメインの攻略対象者たちのことばかり考えていたが、このゲームには他にもたくさんのサブ攻略対象者がいる。
学園の周りを警護している騎士や、先生、果てには街のおしゃれカフェの店員まで。
学園に通い始めたらきっと家庭教師の授業頻度は落ちるだろうけれど、授業がない分多くの課題が出されるだろうことは想像に難くない。
学園の授業でも課題は出されるだろう。
学園の授業、家庭教師の授業、それぞれで出される課題をこなしつつ、全攻略対象者の動向に目を光らせておくなんて無理だ。絶対に、無理。
大体今の勉強スケジュールでも死にそうなのに、乙女ゲームに振り回されて、あれこれしていたら過労で死んでしまう。
今世のシェルリンはとても頑張り屋だ。でも前世のシェルリンはきっととてもめんどくさがり。
前世を思い出した今のシェルリンは、そんな二人の性格が混ざり合っているようで、やれと言われたことは頑張ってこなすけれど、自発的に自分を高めようという気持ちは全くなかった。
「だって、私もう十分頑張っていると思うんだよ」
というわけで、毎日頑張りすぎて疲れ切っているシェルリンの中では、ダメだダメだと思いつつ、面倒なこと全て、忘れるという案に傾きつつあった。
前世など思い出したから、あれこれ気に病まねばならなくなったのだからもう全部忘れてしまおうというわけだ。
もちろん本気ではない。
フィッツベルグ公爵家の令嬢が記憶喪失なんて、とんだ醜聞だ。
流石に父バルデロイもどう思うか……。
だから、本気で忘れてしまおうと思っているわけではない。でも、現実逃避くらいいいでしょう?
刺繍がひと段落したので、ベッドにもぐりこむ。
シェルリンのベッドサイドには今、ピンク色のチューリップの花が飾ってある。
今日ライが持ってきた花束をベルが活けてくれた。
「元気が出るんじゃないかと思って」
ライがそう言って持ってきたチューリップを見ながら、シェルリンは緩んだ口をムニムニと揉む。
「チューリップは私が好きな花だからよ」
それだけじゃないのは分かっているけれど、ライは攻略対象者だ。
まだ、どう接したらよいかわからない。
以前考えていたように好感度を上げた方がいいのかとも思うし、それとものちに断罪されるのなら関わらない方がその時自分が傷つかずに済むとも思う。
またちらりとチューリップを見る。
「ふふ。綺麗」
やっぱり心が温かくなってしまう。
でもそれも仕方ないのかもしれない。
だって、シェルリンが病気を気にかけてもらったのは初めてだったのだから。
シェルリンはまだ悪役令嬢ではないし、ライは攻略対象者なんだから、優しいのは当たり前と心を引き締めた時、シェルリンは気が付いてしまった。
「私、私……なんてこと」
もう一度ピンクのチューリップを見る。
あぁ。素直に綺麗と、嬉しいと喜べたらよかったのに。
シェルリンの望みはただ一つ。
モンクレージュ学園で幼い頃に遊んだ幼馴染たちに会うこと。
来年の入学だけを楽しみにずっと頑張ってきた。
けれど入学してゲームのシナリオ通りに進めば、彼らとは友好な関係が築かれることはないし、もしもシナリオ回避することができたとしてももうシェルリンは嬉しくない。
彼らがシェルリンに親切にしてくれた時、楽しくて笑いあった時、シェルリンは心の底から喜べないからだ。
ありがとうと言いながら、ともに笑いながら「さすが攻略対象者」という言葉がちらりと脳裏をかすめるだろう。
今ライに対してそう思ったように。
なんでゲームのことなんて思い出してしまったのかしら。
知らなければ、今もフィッツベルグ公爵家として恥ずかしくない令嬢維持のため、頑張っているだけだった。
こんなに思い悩む必要はなかった。
オディエットの言葉を思い出す。
――自分のことをよく見て、よく感じて。頭で考えてはだめよ。きっと幸せなら自然と笑っているはずだわ
「それなら、自然と泣いている私は今、不幸ということでしょうか」
シェルリンがあふれ出た涙をぬぐいつつ、つぶやく。
この記憶がある限り、断罪を回避してもしなくても私が幸せになれることはないだろう。
「やっぱり全部忘れなくちゃ」
ただの現実逃避だった考えを現実にしようと決めた瞬間だった。