第39話 目を見開く
「うっさいなぁ。大丈夫? どこが大丈夫なん? これがここの日常や! いつも騎士が守ってくれる人は考え方が違うなぁ! 分かっとらんやろ。あんたたちが命令したから騎士は動いてくれたんや。そうでなきゃ、俺らを守る人なんかどこにもおらん!」
あの日……叩きつけられ、色が飛び散った塀を見て、マクスウェルははっと心が動いた。
マクスウェルには絵を描くときだけ見える景色がある。
鳥の羽の美しさ、木々が日の光を反射して煌めく様子。
それらは、絵を描くときにならないとマクスウェルの目には入らない。
いや、違う。
目には映っている。けれど、絵を描くその時までマクスウェルはそれをそれと知覚していないのだ。
トーマが刷毛を叩きつけて走っていった時、マクスウェルは絵を描いている時に感じる見えていなかった世界を感じた。
彼らが苦境に立たされていることは知っている。
彼らは助けを必要とする子供で、こんなところで暮らしていれば彼らの心に一つや二つ……いや、たくさんの傷がついているだろうことも想像がつく。
でも、それは助けを必要とする子供だ、傷ついている子供だという言葉が頭にあるだけで、心を伴って実感してはいなかった。
彼らがどう叫んでいるのか、どう涙を流していたのか……何も感じてはいなかった。
トーマが塀に叩きつけた色を見る。
その色から、彼の痛みなのか悲しみなのか怒りなのかわからないぐちゃぐちゃとした叫びを感じて、マクスウェルはしばし呆然とした。
トーマを追ってシェルリンが駆けだす。
マクスウェルも動こうと足を踏み出して、躊躇った。
トーマにかける言葉が見つからない。
彼の叫びに気づく前なら、「ちゃんと授業を聞け。それがお前たちの将来を分けるぞ」と言えた。
だが、今となっては上っ面だけで理解したつもりになってそんな助言をしていた自分が恥ずかしかった。
マクスウェルが一瞬ためらった隙に、正門脇から土煙があがった。
「こちらへ!」
まだ外にいた子供も自分も皆が騎士に促されて建物内へ急ぐ。
走りながら振り返った先で、シェルリンが尚もトーマを追っていた。
なんでかわからないが、その姿が輝いて見えた。
「トーマ大丈夫かな」
建物内に入って、少し落ち着きを取り戻した子供がつぶやく。
「シェルリンさんも……騎士を連れて来ていらっしゃらないから」
ナターシャも呟いた。
その言葉にみんなハッとする。
それぞれが連れてきた騎士は、基本己が仕える家の者を守る。
複数連れてきている家の者は正門脇と建物内の警護に分かれた。
シェルリンたちが向かった方向には誰も向かっていない。
寄せ集めの騎士だったからこそ起きたことだった。
窓から外を見る。
門の方は苦戦しているようで、何人かの騎士が地に倒れているのが見える。
建物内の騎士も分担し、何人か表の方の加勢に加わった。
ここに残されているのは、最低限の人数であろう。
それでも一人くらいシェルリンたちの方へ向かわせた方がいいと判断し、騎士に声をかけた。
突然建物の外と中が騒がしくなった。
騎士との会話は途切れ、自然と窓の方を注視する。
建物内にいる子供も同じ出張授業のグループメンバーも皆が外を見ていた。
窓に近づき外を見る。
大きな球体を見た。よく見たらその中に正門脇から流れ込んでいた人々が捕まっている。
騎士たちは何がどうなったのかわからないというように、剣を上に向けたまま、ただただその宙を浮く球を見ていた。
空から何かが別の方向へ飛んでいく。
皆がぐるりと飛んで行った方向を見た。
そこにはまだ捕まっていない侵入者たちがいた。
侵入者たちまで飛んでいった何かが突然ぼわんと球状に膨れ上がり、五人の男を捕まえた。
なんだこれ?
皆考えることは同じだったようで、自分も隣にいる子供たちも、騎士もあの球体が飛んできた方角に顔を向けた。
男子学生が一人宙に浮いている。
彼もまた光って見えた。
両手を上に向けると、掌の上でシュンシュンと光の輪が回り始めた。
それを二つの球体に向けて放てば、いつの間にか球体は消え、侵入者たちは光の縄でくくられていた。
すーっと男子学生が空から一直線にこちらに降りてくる。
鍵がかかった扉をいとも簡単に開け、何食わぬ顔で「シェルリンはいないな」とつぶやいた。
あまりの強さに半信半疑だったが、確かに自分と同じ学生服を着ている。
つまり、モンクレージュ学園の生徒だ。
「あぁ、外の人を縛っている縄は1時間くらいで溶けるから、必要なら今のうちに縛りなおした方がいいよ」
騎士も苦戦していたくらい多くの侵入者をあっという間にたった一人で片づけてしまった彼が、騎士に向かって言う。
それだけ言って、去ろうとする彼にナターシャが声をかけた。
「ライさん、シェルリンさんは裏手ですわ」
「ありがとう。君は?」
「ナターシャ・サルディバッハと申します」
「あぁ、もうすぐ君のお兄さんも来るよ」
彼がいなくなると再び空気が動き出した。
ぼんやりしていた騎士たちはきびきびと動き始め、子供たちはしゃべりだす。
「ナターシャさん、あの男子学生を知っているのですか?」
「えぇ。多分ですけれど……兄の友人ライ・フィッツベルグさんですわ。兄が言っていましたの。この学園で俺より強いのは、彼だけだと」
その後、裏手からライと呼ばれる男子学生がシェルリンを抱えて飛んでいくのが見え、トーマも無事に戻ってきた。
聞けば、シェルリンが庇ってくれた、突然できた薄い膜のようなもので守られたと言っている。
どんな原理なのかは全くわからないけれど、突然助けに来た彼が守ったのだろうと思った。
「シェルリンさんが騎士を連れていないのも納得ですわ。緊急時にあんなにお強い方が真っ先に飛んでくるのですもの」
ナターシャがふふと笑った時、孤児院の扉がバーンと開いた。
「ナターシャ! 大丈夫か!!」
騎士団長の息子という肩書で何かと有名なブルーノ・サルディバッハが赤い髪を揺らして立っていた。
トーマが刷毛で塀を叩きつけた時から、今日はずっと心が動きっぱなしだ。
無性に筆を握りたくてたまらない。
あぁ、そうだ。
子供たちが知るべきなのは、文字でも制度でも、将来の職に直結するような役に立つ技術でもなんでもなくて、これかもしれない。
マクスウェルの心にその気づきがストンと落ちてきた。
もしも子供たちが絶望しているなら、希望が見える目にすればいい。
絶望で心を閉じて目を閉じれば、どんなに美しい風景だってただの木、ただの草原になり果てる。
絵を描くときのようによく目を開いて、心を開いて、見て、感じなければならないのだ。きっと。




