第37話 大事件やんけ!前編
「うっさいなぁ。大丈夫? どこが大丈夫なん? これがここの日常や! いつも騎士が守ってくれる人は考え方が違うなぁ! 分かっとらんやろ。あんたたちが命令したから騎士は動いてくれたんや。そうでなきゃ、俺らを守る人なんかどこにもおらん!」
刷毛を塀に叩きつけて、叫んだ。
トーマはこの出張授業が大嫌いだった。
初めて貴族の学生たちが、孤児院に来た時からずっと。
彼らが教えようとしたのは、文字の書き方。
まるで、勉強したらこの地獄から抜け出せるとでも思っているようだった。
確かに、勉強したら普通はよりよい将来が開けているんだろう。普通は。
けれど、ここは普通じゃない。
東の孤児院と聞いただけで、普通の人たちは逃げていく。
文字が書けたからなんやとトーマは思う。
東の孤児院のガキってことは変わらんやんか。
孤児院内でも年長のトーマは、かつて文字の読み書きができる孤児がいたことを知っていた。
年は離れていたが、彼とトーマは仲が良かった。
東の孤児院の子供にとって傭兵や娼婦になれるのはラッキーで、その日必要なものを奪って生きるごろつきや路上で何の希望もなく命が終わるまでただ息を吸って吐くだけの存在になるか、やばいものを売り買いしている組織に寄生するか、もしくは売られるか、死ぬかが大体の子供たちの未来だった。
そんな将来しか待っていない東の孤児院で、文字の読み書きができるその子供は金持ちに買われた。
トーマもその当時いた子供たちも皆、「流石だ」「頭がいいと違うな」とそう思った。その時は。けれど一か月後、彼は路地で殺されていた。
いいように使われ、身代わりにさせられ、やってもない悪事の責任をとって死んだとトーマは風の噂で聞いた。
トーマは思った。
金持ちも貧乏人も悪いことする奴はする。
そんで、俺らみたいなんはまっとうな人からは逃げられ、悪い奴らからは替えのきく……どう使ってもええ道具やて思われる。
だから文字を覚えよーが、何しよーが、何もかわらへん、と。
だから出張授業中いつもトーマは心の中で悪態をついていた。
こんな授業受けたって、何にもならへんわ。
お前らが良いことしたわっていう気分になるだけや。
つまりお前らが良いことしている気分になるための道具か、今の俺らは。
そんな風に思っていたから、孤児院の外で事件が起こった時、当たり前のように「大丈夫」と言う貴族の学生たちが本当に腹立たしかった。
どこが大丈夫なん? と強い言葉を吐いて、逃げる。
どれだけ学生たちに悪態をついていても、彼らがやることを馬鹿らしいと感じていても、トーマが学生たちに勝てるものなんて何一つなかった。
逃げるしかない自分が情けない。
走って逃げた孤児院の裏で何かにぶつかった。
それが何なのか知覚する前に大きくて分厚い手がトーマの顔の下半分を覆うと同時に、トーマの足が地面からぐわっと浮く。
大きな男に顔を掴まれて、持ち上げられているのだとわかったのは男が声を発してからだった。
「薄汚れたガキが一人。元気がよさそうだ。孤児院の奴らはどうしてもいいんだろ?」
でかい図体の男がニヤリと笑う。一目でこれは関わってはいけない奴らだとわかった。
ここ東の孤児院がある地域は治安が悪い。
そのようにこの地区以外に住む人は言う。それは正しい。
けれど、中に住む人たちは知っている。
大抵は、ここ以外に行き場のない弱きものであることを。
だが、絶対に関わってはいけないタイプの人がいるのも事実。
積極的に組織的に犯罪に手を染めているグループ、人を殺めること、傷をつけることに何とも思っていない人、この世を恨んで壊したい人……これは関わってはいけないタイプの人たちだ。
ここにいる男たちは、おそらく後者。
孤児院にいる仲間たちに危険を知らせようにも、口は手でふさがれていて少しの声も出すことができない。
逃げ出すことも、危険を知らせることもできずに、「なんでここにこんな奴らが」とそんな疑問ばかりがトーマの頭の中でぐるぐる回る。
「あぁ。貴族たちは厄介だから金がもらえれば解放だが、他は好きにしろ。あともう一人。こっちはなかなかいい値が付きそうだ」
「きゃぁ!」
仲間の声が聞こえて、遅れて他にも男たちがいることにトーマは気がついた。
声の方を振り向けば、大丈夫、大丈夫と言っていた貴族の女が捕まっている。
確か、シェルリンと呼ばれていた学生だ。
男たちはシェルリンがモンクレージュ学園の学生とは気がついていないらしい。
きっと一人だけ、学生服を着ていなかったからだろう。
男たちは地面に転がされたシェルリンを後ろ手で縛る。
「確かに、なかなかいい顔してんじゃねーか。なぁ、売っ払うまえに……」
一人の男が、シェルリンの顔を無理やり持ち上げながら言った。
「私は貴族よ!」それさえいえば、きっとシェルリンは解放されるのに、彼女は一向にしゃべらない。
なんでもいいから叫べや。そうしたら騎士がお貴族様を守りにくるやろーが。
口をふさがれているわけでもないのに、ただ黙っているシェルリンに馬鹿かと心の中で悪態をつく。
そんなことを考えている間に、トーマも後ろ手を縛られ、猿ぐつわをかまされた。
シェルリンの横に自由の利かなくなった体をドスンと落とされる。
ちらりと横目でシェルリンの方を見やれば、その顔には恐怖しかなかった。
さっき孤児院の外の声におびえていた小さな子供たちと同じように。
「助けて!」とも「私は貴族よ!」とも叫ばなかったのは、恐怖で動けなくなっていたからか。
「やめろ。値が下がる。それより先に仕事だ」
最初にシェルリンを捕まえた男が静かに答える。
「へい、へい」と言いながらシェルリンの顔から手が離れた。
男はガタガタと震えるシェルリンに、楽しそうに猿ぐつわをかまし、トーマたちからは見えないところにいるらしい仲間に声をかけた。
もう一度ちらりとシェルリンを見やる。
体はまだ震え、目元がうるんでいる。
「はぁ、これだから温室育ちは……」そうトーマがため息が出そうになった時、パチンという音と共に背中に痛みが走った。




