第13話 暗中模索ですわ!
朝目覚めてシェルリンは、ベッドの上でぼーっと昨日のことを思い返す。
――私の名前はシェルリン。公爵令嬢で、侍女のベルとベラ、アンジーが私の世話をしてくれる。執事のゼルダンは私の予定やこの家のことを取り仕切ってくれる。まだ会っていないがお父さんは外務大臣で、すっごいカッコいいお兄さんがいて、今日から一緒にこの春入学するモンクレージュ学園で困らないように勉強することになってる。
うん、昨日のことはしっかり思い出せる。
それから、それから……と記憶を手繰り寄せているシェルリンは恥ずかしくて足をバタバタした。
お風呂! お風呂まで一人で入れないとは思わなかった。
恥ずかしくて泡のお湯の中にブクブクと潜っていたら、「溺れた!」と大騒ぎになった。
本当に今までこんな暮らしをしていたんだろうか、今までの自分はどんな風にお風呂に入っていたのだろうか、とシェルリンはまじまじと考えたほどだ。
一晩眠ってみても、昨日以前の記憶はなかった。
昨日と同じように侍女たちが来て、恥ずかしがるシェルリンに配慮してくれながら、身支度をして、広い食堂でライと二人、食事をとる。
昨日はちんぷんかんぷんだった料理長の説明が今日は分かる。
「味の濃厚なマルセ鶏の卵を使っています。マルセ鶏の黄身はふっくらしていて、割っただけでわかるほどです。シェルリンお嬢様にもその美味しさをわかっていただきたく、二種類作ってみました」
そう言って、料理長指示した方のオムレツから食べる。
どんな風に違うのだろうかと思ってゆっくり味わって食べる。
そしてもう一つの方のオムレツも。
切り分けて、ゆっくりと口に運ぶ。
ん!
口に入れ、ひと噛み、ふた噛みすれば卵の味がふわぁと口の中に広がる。
濃い! 卵の味が、濃い!
「こちらの方が卵の味が良く感じられました。卵一つでこれほど味が変わるのですね」
そう言うと、昨日「美味しかった」と言ったらがっかりしたような顔をした料理長の顔がパッと明るくなった。
もしかしたら彼は、美味しいの一言だけでなく、自分の作った料理について語り合いたいのかもしれないとシェルリンは思った。
こだわって作ってくれてるんだもん。しっかり味わって食べないとね。
食事の後はライと一緒に魔術を勉強する。
明日の朝にはライは学園へ戻らなくてはならない。
週末にはこちらに来るとはいえ、それまでにできることを教えていきたいのだそうだ。
これも、モンクレージュ学園に入学したときに困らないため、記憶喪失であることを隠すため。
「シェルリン、最初はちょっと痛いかもしれない」
今はライと魔術の勉強……の前段階。
自分の中にある魔力を認識するためライが魔力を流すと言った。
痛いと聞いてドキドキ鳴る鼓動の音。
いつもよりちょっぴり呼吸も速くなる。
ライにはシェルリンが緊張していることが分かったようで、シェルリンの気持ちの準備ができるまで待ってくれている。
準備が出来たら手を握ってと言って差し出されたライの右手をじっと見つめた。
頑張れシェルリン。ただ手をつなぐだけよ。
ふーっと息を吐き出して、ライの手におずおずと手を載せた。
載せた手をライがぎゅっと握って、いくよと言う。
その瞬間、ライの手からポカポカとした気持ちのいい何かがスッと入ってきた。
シェルリンの内側からも同じように温かい何かがあふれ出す。
あぁ、これが魔力なんだ。気持ちがいい。
あふれ出したシェルリンの魔力もライの魔力もよくわからなくなって、ただ一つの魔力となってシェルリンを包み込む。
温かいお湯の中でぷかぷかと浮かんでいるみたい。
いや、柔らかいお布団に包まれているようなそんな感じかな。
ライの手が離れても、シェルリンは魔力に包まれていた。
「シェルリン?」
「魔力って温かくて気持ちがいい」
怖かった気持ちがほっこりした魔力に溶けて、なんだか気も抜けてふにゃふにゃと答える。
「温かくて気持ちがってどういう……まぁ、いいや。それでシェルリン、魔力は分かった?」
「はい!」
気を取り直して張り切って答えた。
試してみようとライが紙に模様をかき、魔力を込めるよう促す。
掌に載せた紙に魔力を注ぐ。
ライがしたように掌からそっと。
その瞬間、掌にあった紙がふわりと浮かび上がり、隣のライの掌へと飛んで行った。
「よし、完璧だ。それは私の所に飛ばせるようになっているから魔力を込めたら、私がどこにいても飛んでいくよ」
「すごいです!」
何度でも飛ばして練習した方がいいというので、ライがこの家にいる間はいつでも、寮に帰ったら夜に飛ばすことになった。
体調を気にしてくれているのか、シェルリンの心情を気にしてくれているのか、学園に入学するまで余り時間は残っていないはずだが、魔力を自分で動かせることがわかったら部屋で休憩することになった。
シェルリンには全く記憶がない。
だから、どうして急に記憶がすっぽり無くなってしまったかはわからない。
考えつくのは、頭を打ったり、何かシェルリンが想像できないようなやっかいな病にかかったことくらいだったけれど、自分の頭を触ってみても痛くはないし、体も元気そうだった。
そして、誰もそのことについて触れないのでシェルリンから聞くのは勇気が必要だった。
部屋に戻ってベッドの上に座っても、手持ち無沙汰で退屈だ。
多分、考えなければならないことはたくさんあったのだろうけれど、何もかもわからなすぎて何を考えていいかもわからなかった。
窓から外を見たり、ベッドの上でゴロゴロしたりした後、最終的にシェルリンがいきついたのは、自分のノートを読むこと。
本棚の一番端のノートを引き抜き、ベッドに戻ってページを開く。
いろんなことが書かれていた。
法律のこと、もてなし方、隣国の文化のことまで。
ページをめくるごとにいろんな種類の知識が次々と書きつけられていた。
あるページで手が止まった。
そこにはこんなことが書いてあった。
【マルセ鶏の卵】
産地:マルセリア領
殻は薄桃色で小ぶり。
割ってみると、黄身はふっくらと白身から盛り上がっている。黄身は一般的な卵と比べると大きく、濃厚な味わい。
今日食べた美味しい卵だとシェルリンは思った。
今日は料理長の説明を聞いて味わっただけだが、以前は生の卵を割って中まで見たようだった。
料理の勉強でもしていたのだろうか。
再びページをめくりはじめると、ソースやそのソースに使われているワインの説明も書かれていた。
けれど、マルセ鶏の時と違って、味やワインの説明だけでなく、そのワインが作られた地方、そしてその地を治める貴族についても書かれていた。
記憶を失う前のシェルリンが何を思ってここまで調べていたかはわからない。
何でも調べなきゃ気が済まない性質とか?
不思議に思いながら、再びページをめくりはじめた。
しばらく経って侍女が来たことで、シェルリンは昼になったのだと気づいた。
再びライと昼食をとり、食後はライに初級魔法を見せてもらいながら、中庭を散歩する。
ちょろちょろと水を出すライに教えてもらってやってみると、シェルリンも一度でできるようになった。
よかった。本当にちゃんと体が覚えてた。
そして再び部屋でノートを読みながら体を休め、ライと一緒に夕食を食べる。
週末にはまた会えるというのに、明日からはここで一人でご飯を食べるのかと思うと寂しくなってきた。
翌朝、学園に向かうライを玄関で見送る。
パタリと扉が閉まると、大丈夫だと思えていた気持ちが急激にしぼんでいった。
自分のことは何もわからない。
貴族のこともわからない。
この家のこともわからない。
親のことは全くわからない。
侍女や執事たちとどのように過ごしていたのかもわからない。
どんな町に住んでいて、そこにどんな人たちが生きているのかもわからない。
過去のことは分からない、未来のこともわからない。
わからない、わからない、わからない。
シェルリンは前も後ろも見えぬ濃い霧の中にただ一人おいていかれたような気持になった。
どちらに進めばよいのかと途方に暮れる。
「シェルリンお嬢様、お部屋に戻られますか?」
アンジーの声に、はっと現実に意識が引き戻された。
アンジーの顔を見て思う。
この人はアンジー、私の侍女。知っている。
ベルとベラも私の侍女。知っている。
執事はゼルダン。知っている。
兄はライ。知っている。
とりあえず名前を知る人が四人はいた。
アンジーと一緒に部屋に戻った。
ノートがぎっしり詰まった本棚を見てまた思う。
未来も一つ知っている。
霧の中に四人の人間とぼんやりと学校っぽい建物が建った。
大丈夫、大丈夫。
ほとんどわからないなら、きっと簡単。
わかるところから手をつければいい。
まだ名前が分かるだけのみんなのことをもっとよく知って、部屋にあるノートを読もう。
以前のシェルリンが勉強したことを学びなおそう。
そうやって少しずつ霧を晴らしていったら、いい。
「大丈夫、大丈夫」
一人になった部屋でそう呟いて、シェルリンは再びノートを開いた。




