第12話 お兄様がいるから大丈夫ですわ!
部屋で再びノートを読んでいたら、ライからお茶に誘われた。
ライはシェルリンの兄で、既に一緒に昼食をとった後だけど、まだシェルリンとしては知らない男の人という気持ちの方が強い。
何話していいかわからないし、行きたくないなぁ。
けれど、今後のことを話したいと言われれば行かないわけにはいかず、とぼとぼとアンジーについていく。
応接室に入ると、兄のライがすでにいた。
ライは、なにやら小難しそうな顔で書類をパラパラとめくっていたが、シェルリンに気が付くと、やぁと笑顔を向けた。
この人、本当にかっこよすぎないかしら?
本当の兄のはずなのに記憶がないせいで全然慣れない。
ライの笑顔にたじろぎながら、「妹なのにたじろいでいたら変よ、しっかりしろ私!」と自分を励ます。
「実はね、シェルリン」
紅茶が運ばれ、それに口をつけたところでライが話し始めた。
「春になったら、シェルリンはモンクレージュ学園に行く予定なんだよ」
「学園?」
「そう、15歳になったら貴族はみんなそこの学園に通うんだ。私も今年の春から通っている」
ざわざわと心の中に不安が広がっていく。
私、自分の名前も知らなかったほどなのに、学園なんて……と思ったところでハッとした。
部屋にあった大量のノートは、あれはもしかして学園に入学するための勉強だったのではないだろうか。
さっきまでの何かわからない漫然とした不安が、今度はそんなの絶対に無理だ! という確信に変わり、シェルリンの顔を青ざめさせた。
「まだ混乱しているのに、こんな話をして悪いとは思う。けれど、あまり時間もないからね。先に話した方がいいと思ったんだ」
顔色の悪いシェルリンを見て、ライがそう付け加える。
申し訳なさそうな顔をしているもののライから「記憶が無くなった君が学園に通うのは難しいだろうから、一年位留年してもいいよ」なんて言葉は出てこなかった。
仕方なく、シェルリンが口を開く。
「あの、私。さっきの昼食の時は、直前にマナーを教えてもらって、過去のノートを読んでいたからできたんです。それがなかったら食事のマナーなんてわかりませんでした。だから、貴族ばかりの学園なんて……無理、だと、思いますぅ」
自分のことなのに、何一つわからないから、自分の発言に自信がなくて最後まではっきり話すことができなかった。
学園のことも、貴族のことも、シェルリン自身のことも、あのノートに書いてあるだろう勉強のことも何もかもわからない。
何もかもわからないから、どう生きて行けばいいかもわからない。
考えれば考えるほど不安になり、ぎゅっと掌を握りしめた。
「よし、わかった」
向かいに座っていたライがシェルリンの横に来て、握りしめた手を優しく包んだ。
「一緒に思い出していこう。いや違うか、一緒に学びなおそう。マナーは直前に聞いたからといって、すぐに身に着くようなものではない。それでもシェルリンはちゃんとできていたから、きっと体が覚えているんだろう」
「でも、私に出来るでしょうか」
「幸い、学園はもうすぐ冬休みだ。休みになったら私もこの家に帰ってくるから、私も手伝える。私が休みに入るまでは、ノートでも読んでゆっくり過ごしたらいい。それでも無理だと思ったら、その時になって考えよう」
ライが大丈夫だよと笑うので、不安がふっと軽くなる。
そうよ、何もする前から弱気になってもいい事なんかない。
うん、まずは頑張ってみよう。
「わかりました。頑張ってみます」
まだ少し残っている不安を振り払うように、笑って答える。
ライが少し目を丸くした。
頑張ると言うのは、予想外だったのだろうか?
「ライ、兄様?」
返事のないライを不思議に思って、首をかしげる。
あれ? そもそも呼び方はライ兄様でよかっただろうか。
貴族だからと丁寧に呼びかけてみたんだけれど、違った?
突然呼び方が気になりだして、「黙って待っていたらよかったのに、なんで呼び掛けたんだ、私のばか」とシェルリンの心の中がせわしなくなる。
でも、やっぱりおにいちゃんと呼ぶのは違うと思うし、まだ知らない人という気持ちが強くて呼び捨てなんかできない。
どうすれば……と考えているうちに、ライがほほ笑みながら「一緒に頑張ろうね」と言った。
「あとできるなら記憶がないことは、隠した方がいいかな」
そう言いながら、私の手からライの手が離れていく。
ライは、何かを考えるように顎に手を当てた。
「なんでですか?」
「うーん、世の中には悪い人もいてね、記憶がないことをいいことに自分に都合がいいように嘘をつく人もいるからかな」
「そうなのですか?」
わざわざそんな嘘をつく人なんているのかな? と思いながら、ライに問いかけると、ライは苦笑し、そして少し真面目な顔になっていった。
「会ったこともない男が、私たちは結婚の約束をしていました、なんて言い出すかもしれないよ」
僕らは愛し合っていたんだよと言う知らない男性が、抱擁してくる。
傍から見れば愛し合う二人に見えるかもしれない。
けれど、シェルリンは想像したらゾッとした。
記憶のないシェルリンには、本当にその男性が言う通り二人が愛し合っていたかなんてわからない。
かつて愛した人ならば、一生懸命理解しようと思うだろう。記憶を戻したいと思うだろう。
記憶を戻すためと言われれば、手を繋いだり、デートに行ったりするかもしれない。
それが本当に愛し合った人ならば、まだいい。でも、それが全部嘘だったら?
想像上のことなのに、怖くなって腕をさする。
そんなことにならない為にも、記憶喪失であることを伏せるというライの案はいい案に思えた。
少し遅れて、同意を示すためにコクコクと頷く。
「あの、私にはその……こ、恋人といいますか、そういう人はいたのでしょうか」
記憶を失っているとはいえ、自分の恋人のことを聞くと言うのはなんだか恥ずかしい。
もじもじしながらやっと聞いたというのに、ライは間髪入れずに答えた。
「いなかったよ」
「そ、そうなのですか。では、そういうことを言ってきた男性は嘘をついているとすぐわかりますね!」
恋人がいないことになんだかちょっぴりがっかりしつつ、がっかりしていることを気づかれるのも恥ずかしいので、ことさら元気に言った。
それでも恥ずかしくて、シェルリンは紅茶に手を伸ばす。
ライも紅茶を手に取り、しばらく二人でただただ紅茶を飲んだ。
「父様がシェルリンはまだやらんと言ってね。シェルリンをあんまり人目に触れる場に連れて行っていないんだ。だからシェルリンは恋人の前に知り合いも少ないかな」
ライがぽつりと言った。
「ふっふふ。そうなんですか? ふっふっふふ」
ライの言葉に心に占める不安がちょっぴり軽くなって、笑いが漏れた。
シェルリンには少し気になっていることがあった。
それは最初はちょっとした疑問だったけれど、時間が経つにつれ、考えれば考えるほどに、じわじわと心を覆いつくしていた。
シェルリンが気になっていたことは、親にまだ会えていないこと。
それどころか誰も両親がいつ帰ってくるか話さなかった。
執事のゼルダンも兄であるライとも、会ったら記憶が戻るかもと言われて、すぐに会ったのに、誰も両親と会いましょうと言わなかった。
最初に気が付いたときに聞けばよかったのだが、誰もが口に出さないことに気が付いてからは言い出しにくくなっていた。
仕事をしているのかもしれない、今遠くから駆け付けているところかもしれない……といろいろと想像した。
けれど誰も両親の話を持ち出さないのは、きっとよくない理由だから。
そうやって考えているうちに、おそらく両親にとってシェルリンは要らない子だったのだと思うようになっていた。
でも……「シェルリンはまだやらん」かぁ。
良かった。少なくとも父親からは嫌われていない、それどころかとても大切にされていたみたいだ。
心に広がった不安が軽くなる。
本当はシェルリンの想像通り、両親にとってシェルリンは要らない子で、ライが嘘をついている可能性もある。
そうじゃないかと思っている自分もいる。
でも、ライの言葉を信じたい気持ちの方が強かった。
それに、もしもライが嘘をついているのならライはとてもやさしい人なんだろうとシェルリンは思った。
だからライの言葉が嘘じゃないかと思っても、やっぱり不安は減ったままだった。
何も覚えていないけれど、大丈夫。
ライ兄様がいるからきっと大丈夫。




