第11話 ここはどこ、私は誰? ですわ!
朝、知らない人が起こしに来た。
「貴女、誰?」
そう言ったら、起こしに来た女性は驚いた顔をした。二言三言話して、心の底から知らないのだとわかってもらうと、彼女は机の上に置かれた紙を認めて顔を青ざめさせ、その紙を持って出て行った。
すぐに顔の似た二人が入ってきた。
とにかくお召替えをと言われて、二人の女の人が私を着替えさせようとする。
「や」
後ろに後ずさった。
女性たちが困った顔をしているけれど、着替えを人に見られるなんて恥ずかしい。
私は、誰なの? なんでこんなお姫様のように他の人にお世話をしてもらっているの?
「自分で、着替え、できます」
シンプルなワンピースを手渡され、自分で着る。
でもどうしても後ろのホックが止められない。
前言撤回。自分で服も着られないらしい。
「あの、すみません……」
そう声をかけただけで、何を言いたいかわかったようで、さっと後ろのホックを止めてくれた。
「髪を整えさせていただいてもよろしいですか」
「お願いします」
着替えの手伝いを嫌がったからか、今度は先に聞いてくれた。
この女の人が誰なのかはわからないが、どうやらすごくいい人らしいのは分かった。
最初に起こしに来てくれた女の人が戻ってくる。
「あの……お名前聞いてもいいですか」
「私の名前はアンジーです。シェルリンお嬢様の侍女を務めております」
「シェルリンお嬢様?」
「えぇ、お嬢様のお名前でございます」
「わ、わたし?」
アンジーと名乗る侍女は優しく微笑みながら、名前を教えてくれる。
後ろで紅茶を準備してくれているのが双子の一人ベルで、髪を結ってくれているのがベラだという。
え? つまり、私シェルリンのお世話に三人もついているってこと?
「お嬢様、執事のゼルダンを呼んでもよろしいでしょうか。彼も長い間フィッツベルグ公爵家に勤めております。もしかしたらお嬢様も覚えておられるかもしれませんし、今後のことも考えなければなりません」
「会います」
そうしてきた執事を見たけれど、ちっとも誰だかわからなかった。
泣きそうになる気持ちをこらえていると、ゼルダンが「何とかなります、大丈夫ですよ」と言った。
「お嬢様のノートを読んではいかがでしょう。自分の記した字を見れば何かわかるかもしれません。今日のご朝食は部屋で食べられるよう手配しておきますね。ゆっくりお休みください」
帰り際に言ったゼルダンの言葉を聞いて、アンジーがノートを出してくれる。
その本棚に手渡されたノートと同じようなノートがずらりと並んでいた。
「もしかして……ノートってこれ全部?」
「えぇ、シェルリンお嬢様はその日習ったことや疑問点、疑問について調べたことなどいろんなことをノートに記されていましたから」
「勉強家ですね……も、もしかして私は、その、今までに勉強したことを再び覚えなおさなければならないのでは……」
ノートの多さにビクつきながら、アンジーに問う。
ノートが本当に多い。これ、本当にすべて勉強に関することなの⁉
む、無理。記憶を失う前のシェルリンと今のシェルリンでは頭の出来まで違うのだろうか。
シェルリンは自分がこれだけの量の勉強をこなせるとは、まったく思えなかった。
「どうでしょうね。今ゼルダンが公爵様に連絡を取っているはずです。今後のことはそちらで結論が出てから悩みましょう。だから、お嬢様は前はどんなことをしていたのかなと気楽にノートを読めばいいのです」
「公爵様」
「えぇ、シェルリンお嬢様のお父様ですよ」
「公爵様がお父様」
アンジーの言葉を操り人形みたいに復唱する。
そう言えば、さっき執事のゼルダンを紹介してくれるときも、フィッツベルグ公爵家に長く仕えていると言っていた。
「私、貴族なの?」
「はい。 フィッツベルグ公爵家はすごいんですよ。フィッツベルグ公爵家当主であり、シェルリンお嬢様のお父様、バルデロイ様は外務大臣をされていてこのロイアルマ王国の外交を一手に引き受けてらっしゃるし、フィッツベルグ公爵領も王国一の広さなんです」
アンジーが教えてくれたことには、今は亡き前公爵ディルロイもその前の公爵も代々外務大臣をしていたようで、フィッツベルグ公爵家は領地広いだけでなく中央でも影響力があるのだそうだ。
記憶がないシェルリンには、それがどれほどの権力なのかはわからない。
けれど、とんでもなく凄いお貴族様だぞということだけは理解した。
その家の娘がわたし?
え、え、え、え、無理だよ!
何が無理かはわからない。でも何となくそんなすごい貴族の娘としてやっていけるわけがないというのは分かる。
呆然としているうちに、食事が部屋に運ばれた。
料理長自ら料理の横に立ち、料理の説明をしてくれる。
えっとマルセ鶏のローストサラダ、ドレッシングは隣の領の早摘みの何とかオレンジとどこかの国から仕入れたオリーブオイルと……。
最初はふむふむと聞いていたが、とんでもなく詳しい料理の説明に途中から、毎食こんなことをするのだろうかとげんなりした。
ようやく説明が終わったので、「ありがとう」とお礼を言って、食べ始める。
料理長に見られながら食べるのが、少し居心地悪い。
「美味しかったです」
食べ終わって、作ってくれた料理長にそう告げると、料理長は少しショックを受けた顔をした。
なんで!? 美味しいって言ったらダメなの?
食事が終わり、ノートを開くとマナーについていろいろと書かれていた。
丸っこくて、時折揺れた文字は、まるで小さな子が書いたみたいだ。
ベッドの上で読んでみる。
「えっと。どれどれ。立っている時も、座っている時も空から糸で釣られたように、背中はピンとまっすぐ。お腹に力を入れて、顎は少し引く」
ベッドにあるいくつものクッションに体を預けて、リラックスした姿でノートを読んでいたシェルリンは、クッションから背を引き離して、ノートに書かれていたように糸で釣られたようにまっすぐ座ってみた。
ノートにはあとから追記したのだろう。
隙間に「右と左の肩の骨を中央へと寄せて、胸を開く!!」とかなどと書かれていた。
そのアドバイスにも従って、胸を開くとなんだかしっくり来た。
ノートを読みながら、ノートに書かれた姿勢をキープしているとゼルダンが医者を連れてきた。
医者はあれこれ魔導具を使ったり、私に質問したりした後、「問題はありません。体はいたって健康です」と言った。
その後、ゼルダンはまた一人の男の人を連れてきた。
ホワイトブロンドの髪に、琥珀色の目をした彼はとてもカッコいいと思った。
部屋にいる皆がシェルリンを見つめる。
けれど、残念ながらその男の人も誰かは分からなかった。
男の人はライと名乗った。シェルリンの兄だそうだ。
すごい。自分の事なのに信じられない。
何だろうこの家族は、お父様は外務大臣で、お兄様は絶世の美男子で、領地は王国一で……。
侍女も執事もお兄様もみんな優しくて。
きっとシェルリンはすごく幸せ者だったんだろうな。そんな幸せな記憶がないなんて、ちょっと残念だ。
昼食の前にアンジーが「食事のマナーは覚えておられますか?」と聞いてきた。
ノートを見ながら姿勢を正す姿を見て、覚えていないのでは? と思ったらしい。
聞いてくれてよかった。マナーなんか全然わからない。
それからアンジーが口頭で説明してくれている間、ベルとベラがたくさんあるノートから食事のマナーについて書かれた個所を見つけてきてくれた。
お皿やカトラリーの絵とその名称と共に、一番端のフォークに矢印がついていた。
矢印には少し幼い文字で「外側から使う!」と書かれている。
ノートをぺらりとめくれば、ナプキンの使い方、優雅なグラスの持ち方などちょっと線ががたついた絵と共に詳しく書かれている。
なんだか小さかった頃のシェルリンが、こうして指摘されてはノートに書き起こし、次の食事でまた指摘されては、ノートに書く様子が目に浮かんだ。
ノートには、何度も「優雅に」と出てくる。
幼い子供が背伸びして優雅にグラスに注がれた水を飲む様子を想像したら微笑ましくなった。
昼食の準備ができたと聞き、食堂へ行くと、びっくりするくらい長いテーブルに二席だけ食事の用意がされていた。
カトラリーがずらりと並ぶ。
あぁ、よかった。先にノートを見ておいて。
席に座るころ、ライもやってきた。
今はお昼で仕事があるから仕方ないのだろうが、こんな大きな食堂にライと二人だけ。少し物寂しい気がする。
朝と同じように料理長が横に立ち、長い説明を始め、そのあと食事が始まった。
先ほどノートを見ていたからか、体が覚えていたからか、ライから「食事のマナーは忘れていないようだな」と言われた。よし!




