第10話 記憶喪失の妹
ゼルダンが学園に駆け込んできたのは、もうすぐ冬休みも迫った土曜日の朝だった。
寮監からの呼び出しに、首をひねりながらゼルダンの待つ応接室へ向かう。
一体何の用だろうか。
ライを引き取ってくれたディルロイの遺言から、成人するまで面倒を見てくれている現公爵バルデロイは、ライに興味がない。
どれくらい興味がないかと言うとバルデロイがしたことは、ライをフィッツベルグ領から王都へ連れてきて、自分の娘と妻に紹介しただけだった。
本当にそれだけだった。
「わからないことは聞いてくれ、困ったら頼りなさい」といった社交辞令の言葉すらなかった。
だから、バルデロイがわざわざ学園の寮にいるライに接触して来るのは考えられない。
バルデロイの妻ケイシーヌに紹介された時も「あらそう」で終わった。
だからケイシーヌの用事でゼルダンが来るとも思えない。
だとすれば、娘か……とライは眉を寄せる。
バルデロイとケイシーヌの娘シェルリンは、要注意人物だ。
初対面であるのに、ライに「王子様」と呼びかけた。
ライが側妃から生まれた不吉な第一王子であることは、誰にも知られていないはずだった。
ライと引き取ってくれたディルロイと王だけだと聞いている。
今保護者代わりになっているバルデロイすら知らないことだ。
だがシェルリンは、目と目が合った時に何かに気が付いたようだった。
そして出てきた言葉が「王子様」だ。
ライは自分の顔が整っていることを知っていた。
曲がりなりにも王族の血筋なのだから当然だ。
だから無邪気に言われたのなら、本人が後から言い訳していたように王子様みたいという意味だろう何も気にしなかった。
けれどあの反応は……何か知っている風だった。
本当に何か知っているのか、何か知っていたらどうしたいか確かめなければならないと思った。
その情報をどこから得、言いふらす気があるのかどうか、あまり想像できなかったが脅される可能性もある。
とにかく接触を図ろうと、熱で寝込んだシェルリンのお見舞いに行った。
その翌週は図書館で会ったので、そのあと一緒にカフェに行って話し込んだ。
何度か会っても、シェルリンから王子について聞かれることも、聞き出そうとするそぶりもなかった。
だから最近は、もう警戒しなくてもいいかなと思っていたんだが……。
応接室につき、中に入る。
扉が閉まるや否や、ゼルダンが挨拶をして用件を述べた。
「シェルリンお嬢様とお約束なのですが、体調不良のため延期したいと」
やはり用件はシェルリンだった。
シェルリンと約束をした覚えはない。
それなのにわざわざ学園までやってきて、告げるということは暗殺されたか、それとも誘拐か……。人に知られたくない事情が発生したということだ。
とにかく、わざわざここまで来たということは屋敷に帰ってきてほしいということだろうな。
「そうですか。では予定はキャンセルして、見舞いに行きましょう」
「ありがとうございます。シェルリンお嬢様も喜びます」
あたりだったらしい。
ゼルダンと一緒に学園を出る。
馬車が動き始めてからゼルダンに問う。
「それで、何がありました?」
「お嬢様が記憶を無くされました」
「は?」
予想外の返答に素で返事をしてしまう。
暗殺されたか誘拐だろうと思っていた。
それで身の安全が確かめられるまで公爵邸で過ごすよう言われるのだと思っていた。
それが記憶喪失?
「頭を打ったとかそういうことが?」
「いえ、いつも通りの朝でした。朝お嬢様をおこしに行った侍女を見て、お嬢様がおっしゃられたのです『貴女は誰?』と」
それから公爵邸は大騒ぎだったそうだ。
普段世話をしている侍女の名前がわからない、執事として長年仕えているゼルダンの名前もわからない。
自分の名前も何もかも覚えていないと。
「医者には?」
「見せました。異常はないようです。あと部屋にこれが……」
ゼルダンから一枚の紙を受け取る。
――シェルリン、貴女は誰にも愛されない。
それでも決して恨んではダメよ。
なんだ、これ。
誰がこんなことを、何のために?
混乱する中ゼルダンが口を開いた。
「お嬢様の筆跡です」
「は? では自分で? どうやって……」
そこまで考えて気が付いた。
自分で記憶を消したことが分かっているのなら、ライがこうして公爵邸に行っている意味は何なのかと。
暗殺や誘拐を防ぐための保護ではないなら、一体……。
驚きで少し外れかかった余所行きの仮面をつけなおし、ゼルダンの話に耳を傾ける。
「ライ様、お嬢様に会っていただけませんか。ライ様ならお嬢様も覚えていらっしゃるかもしれません。お願いいたします」
「それはかまわないけれど、数えるくらいしか会っていない私なんてわからないのでは?」
「いえ、ライ様が来られてからお嬢様は変わられました。ピンと張りつめた糸が少し緩んだようでした。ライ様が来られてからの期間で考えると使用人や家庭教師のほかで一番会っているのは、ライ様です。どうか会ってください」
ライはシェルリンに会った時のことを思い出す。
バルデロイに連れられて初めて挨拶をした日、シェルリンは挨拶を終えて早々部屋に引きこもった。
シェルリンを見舞いに行った日は、家庭教師との授業があるからと少しの間会話しただけ。
シェルリンとカフェに行った日は、ちゃんと話す時間があったが、話したのは当たり障りのないことだ。
図書館で二度ほど偶然会ったこともあった。
だがその時は、挨拶くらいしかしていないと思う。
たった五回。
それが使用人と家庭教師を除けば、シェルリンが一番会っている回数?
流石に公爵たちものぞいてだよな。
「公爵は?」
「フィッツベルグ家の恥にならぬようどうにかせよと」
「もしかして、会っていない?」
「お嬢様が最後にバルデロイ様に会われたのは、ライ様が来られた日でございます」
ゼルダンの言葉に愕然とする。
ディルロイに頼まれて仕方なく面倒を見ているから、ライに興味がないのは当たり前だと思っていた。
何と実の娘にも興味がなかったのか。
前公爵ディルロイは、ライが政争の種になる第一王子だからとそれはもう厳しかった。
王子だとバレたらどうなるのか、その時すり寄ってくる奴らがどんなことを考えているか。今第一王子と認知されているユリウスと争うことになったら王国はどうなるか。身を隠す術、いざとなった時の逃げる先、国内外の政治情勢や護身術などたくさんのことを教えてくれた。
まぁそれはライが「俺が第一王子だ」などと言い出したら、王国が混乱するのは目に見えているので、それを防ぐために厳しくせざる得なかったのだろう。
ライがある程度魔術を使えるようになるまで、髪色を変えることもできなかったので、人目につかぬところに建てられた家で時折来るディルロイと年老いた乳母、そしてライの三人で暮らしていた。
ディルロイからしたら仕方なしだが、関りはあった。
今話を聞いたシェルリンとバルデロイの関係よりはずっと。
ゼルダンから話を聞き終えた頃、馬車が屋敷に着いた。
ゼルダンについてまっすぐシェルリンの部屋に向かう。
ノックをして、中へ入るとベッドの上でノートを読んでいたシェルリンがびくりと震えた。
「ごめんなさい。貴方もわからないわ」
不安そうな顔で首を振る。
ゼルダンからシェルリンの状況を聞いていたからだろうか、ベッドサイドに座り、シェルリンの手を取った。
「そうか。なに、いつかひょっこり記憶が戻ってくるかもしれないんだ。そんな顔しなくていい。私はライ。シェルリン、君の……兄だよ」
「お兄様?」
「あぁそうだ。何かあったらなんでも兄様に相談しなさい」
部屋を出て、ゼルダンが何か言いたそうにこちらを向く。
「ライ様……。ライ様は兄ではありませんが」
「叔父という方が混乱すると思ってね。それに、あと半年でシェルリンは入学だ。兄と妹という設定の方がフォローできる」
ゼルダンの顔に生気が戻る。
前公爵は具体的な指示は出さなかったというから、ゼルダンは今後シェルリンをどう扱ってよいか悩んでいたことだろう。
「ライ様! ありがとうございます!」
「礼は良いよ。とにかく時間がない。シェルリンのことを教えてほしい。シェルリンをよく知る侍女からも話を聞きたい。あとで私の部屋に呼んでくれないかな」
「かしこまりました」
ゼルダンは使用人を集めるために踵を返した。
ライも自室に向けて足を速めながら、ふっと一息ついた。
シェルリンの状況には同情するが、これでシェルリンの監視がしやすくなった。
使用人たちに聞けば、少しは分かるだろうか。
シェルリンが何を考えて「王子様」と言ったのかと。




