雛がかえるとき
俺たちが電車に乗ってすぐのこと。
「夏にこのトンネルを通ると天使が現れて、願いを叶えてくれるらしいよ」
と彼女は声を弾ませた。
「へぇ」
「興味ない?」
「ない」
「えー!」
「俺は君がいるだけで十分だよ」
彼女は口角を上げたが、目蓋は無理して震えていた。付き合ったばかりの頃は、こう言うとうれしそうだったのに。
「今日のデート、残念だったな」
耐えかねた俺は話題を変えた。
「どうして? 私は楽しかったよ」
「でも花火大会、中止になったじゃん」
「屋台のたこ焼きも焼き鳥もおいしかったよ。花火は来年行けばいいじゃん」
「それも、そうだな……」
このときの俺は、彼女の気持ちも未来の絶望も露知らず相づちを打っていた。
◯
2年後の8月。
俺は入院中の病院から抜け出した足で、駅に向かっていた。
激しい雨が俺を襲った。目線が地面のほうへ下がっていく。全身雨にぬれ、悪寒が走った。
引き返したほうがいいのだろうか。だって、あれはうわさでしかない。確実でないのに、わざわざこんなぬれてまで行くべきなのか……。ばかやろう。そうじゃない。端から諦めるな。
俺は前を向いた。
今戻れば、次いつ外に出られるかわからない。俺は危険人物として閉じ込められるかもしれない。今だ。今しか、ないんだ。
雨の冷たさも雷の音も遠く感じてきて、体の震えが大きくなればなるほど心は炎のように熱くなっていった。
ぬれた体を引きずりながら駅に到着した。切符売場を見つけると、「○○駅まで」とあえぐように発する。滴がまつ毛に落ちて視界がゆがんだ。
「何名様ですか」
駅員の質問に、俺は人差し指を立てて見せた。脱走者ゆえ、なるべく声を出したくなかった。
「10時発になります。料金は――」
俺は震える手をポケットに突っ込み、複数枚の硬貨を静かに並べていった。
駅員の前に出した金は入院してから今日まで隠し持っていたものだった。医者や看護師の目を盗んで隠してきた、大事な大事な金たち。病室の清潔で無味無臭の香りがついた金たち。俺が体温を与えると同じ熱で返してくれる金たち。彼らに勝手な仲間意識さえ抱いていた。それが切符という紙切れに変わる。じつに淡々と、音もなく。
俺は「ありがとう」と笑ってみた。反応なし。ちらりと見ると、駅員は鋭い表情を浮かべ、こちらを怪しんでいるみたいだった。不快。盗みとるように切符を受けとり、電車に逃げ込んだ。
車内の自販機でジュースを買い、指定席に腰を下ろす。通路を挟んだ横の席ではスーツ姿の男がタブレットを眺めている。
俺も携帯があればよかったのだが、実家に帰る時間と金までは確保できなかった。改めて今回の脱走は無計画にもほどがある。
それでも俺は、あのうわさを確かめたい。
電車は、いよいよトンネルに入る。耳は圧迫感を覚え、肺も苦しく、骨の奥で疼く心臓が騒がしい。
俺は目を閉じ、祈った。
お願いします。彼女のいるところに連れていってください。
◯
目を覚ますとまぶしかった。トンネルを抜けたようだ。
外は、俺の知る風景とは違っていた。
空と海の世界だった。
窓に近寄ろうとして、足が動かないことに気がつく。花火の形をした花が床を埋め尽くし、俺の足に絡みついていた。周囲に羽根が落ちているのも気になった。通路を挟んだ席を見たがサラリーマンの姿はなく、誰の声も聞こえない。
もう一度、窓のほうに目を向ける。
俺の背後に白い何かがうっすら見えた。
「羽根?」
瞬間、肩甲骨に違和感を覚えた。羽根が突如、動き出したのだ。足に絡みついた花が引きちぎられ、体は宙に浮いた。だが俺は背中に生えた羽根を制御できなくて、網棚、椅子、天井、窓へと衝突し、最後は気絶するように電車の扉前で倒れた。
息を整える間もなく電車も止まり、扉が開かれる。
大きくて白い羽根を持つ天使が立っていた。顔は見えないが彼女だと直感した。
「……久しぶり」
天使は俺を無視して羽ばたき、俺も飛び立った。天使と日光が重なり目がくらむ。
天使を追いかける途中、近くで熱を感じた。花火が上がっていた。
「うわさは本当だったんだ」
俺は、彼女と花火が見られなかったことを悔やんでいた。
いや生前から彼女を、彼女との時間を大切にするべきだった。それに気づいたのは昨年、彼女が事故にあったとわかってから。普段なら駅まで送るのに、あの日は送らなかった。なぜだったか思い出せないまま、彼女のいない時間が増えていった。
彼女の後を追おうとした俺を親が入院させ、今日まで生きてきた。けど、それも限界だ。
天使に追いつく寸前、俺の背中が熱を覚えた。花火が羽根にあたり、燃え移ったらしい。
俺はバランスを崩し、ひとり落下する。その風で火はさらに大きくなって炎となり、息が詰まった。
きっと、これでいい。君と花火を見ることができた。それだけで十分。せめて君には線香花火みたく、きれいに映ればいいな。
俺は薄く目を開ける。
天使は落ちる俺を追いかけながら涙を流していた。
俺が泣かせてしまったな。
――あの日も君は泣いていた。
『雛くんが私の笑顔を見たいように、私も雛くんの笑う顔が見たいんだよ。怖がらず、ちゃんと見て』
彼女は、そう言った。
俺は困惑し、動揺し、彼女を駅まで送ることができなかったのだ。
そして今、再び泣かせてしまった。
羽根の燃える音が耳を打つ。後悔を胸に深く突き刺すように。
○
再び目を覚ますと、見慣れた白い天井があった。病院だ。でも、入院していた病院とは異なるようだ。
看護師が俺に気づいた。
「お名前、言えますか」
「……長居雛」
「長居さん、どこか痛むところはありますか」
――怖がらず、ちゃんと見て。
脳内に響く彼女の言葉に応えるように、俺は看護師を見つめた。
「背中が痛いです」
「横を向けますか? 失礼します。……火傷かな。先生呼んできますね」
「すみません」
「大丈夫ですよ」
看護師は目を細めて笑った後、病室を出ていった。
視線を外に移すと、雲ひとつない青空が広がっている。
君は、こっちにいないんだよな。追いかけて、それでもこちらに戻ってきたということは生きていくしかないんだな。君のいない、この世界で。
見るよ。しっかり、ちゃんと、この目で。そうやって生きていくうち、君がいなくても平気になるだろう。
「先生がきたら、脱走のこと言おう。担当医と看護師と家族に謝って、治療に専念して、それから……」
ポツポツと声を漏らしながら目を閉じる。涙が静かに流れた。
全部わかってはいるけど、今はまだ無理そうだよ。




