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◇
「はぁ……はぁ」
森の中に入ってからおおよそ一時間が経過した。ここまで休まず歩きっぱなしにも関わらず、食べられそうなものはひとつも見つかっていない。
それに、相変わらず左肩の痛みは引くこともなく、そのせいか冷や汗が止まらず体力の消耗が激しい。
……安易に森に入ったのは失敗だった。街道で誰かが来るのを待ったほうがよかったんじゃないかと思う。でも、もはや今となっては引き返すことすら容易じゃない。
「――つっ! 痛った……しまった、木の枝で手を切っちゃった」
比較的自由に動かせる右手を酷使しながら移動してきたしわ寄せがきたのだろう、気付かず鋭い枝に手を掛けてしまった拍子に、手のひらに大きな切り傷ができてしまった。
まいった。片手しか動かせないのでろくに止血もできない……状況は悪化するばかりだ。
次々と襲い来る不安、そしてアクシデントの数々。命のタイムリミットが刻々と迫ってきているプレッシャーを、ずしっと全身に感じた。
……これは罰なのかもしれない。兄さんの気持ちも考えずに模擬戦で勝ち続けてしまったこと、神童ともてはやされ、調子に乗ってしまった僕に与えられた罰なんだ。
「――っ、誰かいるの!?」
途方にくれていたところで、近くの茂みがガサガサと揺れた。
人かと思って慌てて視線を音があった所へ向けるけれど……この気配、明らかに人のものじゃない。
低い唸り声、獰猛さを想起させる息遣い。――獣の類いだ。
一瞬で気持ちを切り替え、近くに落ちていた木の枝を拾い、剣に見立てて臨戦態勢をとる。武器としては少々頼りない細さだけど、何も無いよりはましだろう。
「ガァァァゥッ!」
「っ、ウルフ……! 血の匂いに誘われたのか!?」
茂みから飛び出してきたのは、灰色の体毛に鋭い牙と爪を持つ四足獣の魔物、ウルフだ。
確か鼻の利く魔物だったはずなので、僕の血の匂いを嗅ぎつけて、補食しにきたのだろう。
「くっ、おおおっ!」
痛みを堪えながら、飛び掛かってくるウルフを躱しつつ脇腹目掛けて蹴りを叩き込む。
「キャインッ!」
どうやら効いたらしく、情けない鳴き声を上げながら地面を転がっていく。
しかし、行動不能には至らずすぐにむくりと起き上がったが、警戒しているのかすぐに襲いかかってはこない。
「ワォォォーーーーン!」
「っ、まずい」
にらみ合いのなか、ふとウルフが天を仰ぎ咆哮する。
ウルフの遠吠えは仲間への合図だ。今の僕には一匹でも驚異なのに、もし増援を呼ばれたら対処しきれない。そう思い、慌てて前へ出る。
「はっ!」
今度はウルフの頭めがけて蹴りを放つが、ウルフはその場で飛び上がることで蹴りを回避した。さすがにさっきので学習したみたいだけど……想定どおりだよ。
「ふっ、はあっ!」
裂傷でじんじんと痛む右手で握る枝を使い、ウルフの胴体を素早く二回斬りつける。当然ながら、ただの木の枝なので、斬り裂くことはかなわない。しかし、鞭のように枝をしならせながら素早く打ち付けたことによって、多少なりともダメージは与えられたようで、微かにだが灰色の体毛に血が滲んでいるのが確認できた。
よし、ダメージはある。頼むからこれで退いてくれ……!
「グルルルル……!」
「っ!」
唸り声とともにウルフの顔が怒りで歪んだ。僕にかまうと怪我をすると思わせたかったけど、中途半端に与えたダメージが、逆に怒りを買ってしまったようだ。
ウルフは怒りのままに再び僕へと突進してくる。僕は息を大きく吸い込み、痛みを堪えながら迎え撃つ。
「はぁぁぁっ!」
ギリギリで攻撃を躱しながら、先程と同じ要領で枝を打ち付ける。
躱し、隙を見計らいながら攻撃をする。僕にできることはもうそれしかなかった。この単調な動きを何度も繰り返し実践するしかない。どちらかの命が尽きるまで。
――より速く。
――より鋭く。
――より強く。
それだけを考えて、ひたすらに腕を振るう。
どれだけの時間が過ぎただろうか。気が付けば、僕の前にはウルフの死体が転がっていた。
「……え? やった、のか……?」
極限まで集中していたせいか、戦っていたときの記憶がほとんどない。
倒れたウルフをよく見てみると、その身体には鞭で打ち付けたかのような傷痕が見てとれた。
「これを僕が、こんな木の枝でやったのか……?」
苦し紛れに手に取った武器とも呼べない代物だったけど、今この手に握る木の枝は、長年の相棒だったかのように不思議と手に馴染んでいる。
「――っといけない、できるだけ早くここを離れなくちゃ」
奇妙な感覚に戸惑っている場合じゃない。あのウルフが仲間を呼んだ可能性が高いんだ、一匹だけでもあれだけ苦戦したのに、群れで襲われたらひとたまりもない。
そう思い至り、この場を離れようと一歩目を踏み出したその瞬間だった。突然、ぞわりと背筋に冷たいものが走る。
「グルルルル……」
唸り声がする。しかも一ヶ所からじゃない。
「囲まれている!?」
知らぬ間に周囲の至るところから気配が感じられた。……しまった、一足遅かったようだ。
一匹、また一匹と、先程倒したウルフの仲間が茂みから姿を現す。全部で七匹、ぐるりと僕を取り囲み逃げ道を塞いでいた。
「くっ……! 数が多い……!」
仲間がやられて警戒しているのだろう。急に襲いかかってはこないで、じりじりと間合いを詰めてくるウルフたち。
後ろ足に力を込め、今まさに襲いかかってこようかというその時、凄まじい轟音と閃光がウルフたちを襲った。
ウルフのみを狙い打つその閃光に焼かれ、僕の周囲に黒焦げになった死体が七つ転がる。
そして、見知らぬ女の人が空からふわりと僕の前に降りてきたのだった。
「よっ、生きてるか少年」
綺麗な人だ……それが第一印象だった。
丈の短い深緑のローブから伸びるすらっとした手足。
目も眩みそうなほど美しい白銀の長髪、どういうわけか髪の内側は黒に染まっている。まるで昼と夜を表しているようだ。
そして、とりわけ美しく感じたのは、澄んだ空のような綺麗な青の瞳だ。ずっと見ていると吸い込まれてしまいそうになる。
「なんだ少年、あたしに見惚れてるのか? 思春期か?」
「いやっ、べ、別に見惚れてなんか……!」
「ははは、こんなおばさんでよければいくらでも見なよ。ほれほれ」
そう言いながら、銀髪の女の人はくねくねといろいろなポーズをとって、僕にその妖艶な身体を見せつけてくる。
おばさん……と自称するにはあまりに若々しい。どれだけ多く見積もっても、二十代半ばぐらいの見た目だ。
まあ、子供の僕からしたらずっと大人なのは間違いないので、子供を相手にするならそういう言い方をする場合もあるだろうし、深く考えないでおこう。
「あ、その、助けてくれてありがと――――」
とりあえずお礼を……と思って口を開いたのだけど、途端に全身から力が抜けてしまった。もう体力の限界を迎えてしまったらしい。
そのまま、ふっと僕の意識は途絶えてしまうのだった。