第三話 荒野の魔導士
「バルコニーから飛び降りる人影が見えて、もしや思ったら案の定か。ここを出ていくつもりかね」
木の陰からランプを携えた、小柄な白髭の老爺が現れる。
「カルバン先生……」
「お嬢さんが目を覚ました時から、なんとなくこうなるような気はしていたよ」
苦笑交じりに、老医師がひとりごちる。
コーデリアは注意深く、彼の周辺を窺った。
見る限り、カルバン医師は一人だ。
他の者が周囲に潜んでいる気配もない。
「そう警戒せんでも、わし以外の者はおらんよ。止めるつもりもない。渡すものがあるだけだ」
差し出された革の鞄を、コーデリアはおそるおそる中を確かめた。
「使うといい。服は昔、エリクが着ていたものだ」
中には男物の旅装束や靴、地図、銀貨の詰まった袋が入っている。
困惑するコーデリアに、老医師は続けて灰色の外套の下に隠すように背負っていた、一振りの長剣を取り出した。
「その剣、どうして」
なくしたと思っていた剣に、少女は目を見開く。
「お嬢さんを連れてきた男が、一緒に届けてくれた。とっさに隠しておいて、正解だったようだな。しかし感心するよ。お嬢さんはこんなに重いものを、いつも片手で振り回しているのか。少し背負っただけで、わしはすっかり肩が凝ってしまった」
冗談めかして笑う老医師から、コーデリアは震える手で剣を受け取った。
鞘と柄に腕を回し、ぎゅっと胸に抱きしめる。
今や形見となってしまった、父親の剣。
もう二度と、戻ってこないと思っていた――
「……ありがとうございます、先生」
「礼など言わんでいい。わしがしてやれるのは、これが精一杯だ。今すぐこの地を出て、二度と戻って来てはいかんよ」
老医師は自分が羽織っていた外套を脱ぐと、少女の肩にかぶせた。
「目や髪が赤かろうと、孤児だろうと、お嬢さんは領民のために命をかけ、魔獣を討伐してくれた。だが恩知らず極まりないが、わしも自分と家族の命が惜しい。これ以上は匿ってやることはできない……すまない」
「謝らないでください、先生。帝国に突き出されず、ここまで手を尽くしてもらえただけで充分です」
コーデリアが本心からそう言うと、カルバン医師は顔を上げた。
「気をつけなさい。町の中心部にはまだ、帝国兵たちがうろつておる」
押し殺した声で、少女の手にそっとランプの持ち手を握らせる。
コーデリアは目を丸くする。
ランプの中に入っているのは火のついた蝋燭ではなく、白く発光する小さな石。
その独特の白い光に、少女は見覚えがあった。
「この光石、まさか……」
光石とはその名の通り、自ら発光する石だ。
蝋燭の炎とは違い、水や風でその光が消えることはなく、半永久的に光り続ける。
その性質と希少さから、所有が許されるのは一部の貴族や富豪、そして魔獣を討伐する高位の騎士くらいだといわれている。
「そう、伯爵が使っていたものだよ。帝国兵に没収される前に、こっそり回収しておいたんだ」
そう言って、カルバン医師はいたずらっぽい笑みを小さく浮かべた。
コーデリアはじわりと目の奥が熱くなる。
老医師の背後にそびえる山々に、真っ赤な夕陽が沈んでゆくのが見えた。
「頼るあてがないなら、南に行くといい。かの地は他の領地と比べ、帝国の支配が及びにくい。諸外国との交易が盛んな土地だ、異国に亡命もしやすかろう。お嬢さんほどの胆力と剣の腕があれば、傭兵や用心棒をして生きてゆける」
老医師の皺に埋もれた目尻に、うっすらと涙が溜まっている。
思えばこうして自分と――この真っ赤な双眸と正面から目を合わせてくれたのは、家族を除けばカルバン医師と、兄弟子のエリクだけだった。
「達者で暮らしなさい。お嬢さんはまだ若い。復讐など考えず、死んだ者たちの分まで生きねばならんよ」
少女は反論しかけた言葉を飲み込み、代わりにぎこちない笑顔を浮かべる。
「……先生も、どうかお元気で」
カルバン医師に背を向け、コーデリアは薄闇の中を駆け出す。
背後からかすかに、低くしわがれた声が聞こえた。
「神よ。どうかあの娘に、あなたの大いなる慈悲と恩寵を。彼女の旅路に幸運を授けたまえ」
真摯な声音で紡がれた祈りに、胸の奥がずきんと疼く。
しかし間髪入れず少女の脳裏に浮かんだのは、最後に見た姉の姿だ。
この帝国で誰より敬虔な「聖女」だったはずの姉。
そんな姉の姿を見て育ったコーデリアもまた、敬虔であろうと努力してきた。
赤眼赤髪の自分が、姉の足を引っ張ることがあってはならない。
その一心で神殿に通い、聖典を習い、戒律を守り、神々への祈りを欠かすことはなかった。
たとえ邪神と同じ色の髪や瞳でも、自分は決して「異端者」になど堕ちない。
聖なる神々への信仰を、身をもって証明すべく、コーデリアは幼い頃から父のもとで剣を学び、十三歳という若さで魔獣の討伐隊に加わった。
しかし、いくら身を粉にして戦い続けても。
神が自分の願いを叶えることなどないのだと、コーデリアは思い知った。
忌み子に、神の恩寵などなかった。
それどころか、すべてを神に捧げた「聖女」の姉すら見放した。
コーデリアは骨が軋むほど固く拳を握りしめる。
(あんな形で見捨てるなら――最初から姉さまを、聖女になど選ばなければよかったのに!)
ふつふつと全身の血が沸くが、対照的に頭の中はひどく冴えてゆく。
少女は母が遺した言葉を胸に、町はずれの森へと向かった。
『あなたはこれから、多くの裏切りにあうでしょう。どうか復讐など考えず、名も過去も捨てて、平穏に生きてほしいけれど、それは叶わないかもしれない。コーデリア。もしもこの先、あなたが絶望した時……誰にも頼れず、全てを信じられなくなった時は』
息絶える寸前、母はコーデリアの手を握り、血を吐きながら言い聞かせた。
『その時は、荒野の魔導士を訪ねなさい。きっと、あなたの力になってくれるはず』
魔導士。
それは魔に導かれて人の道から外れ、人の世に魔と厄災をもたらす邪神の僕だ。
この帝国で、最も罪深く危険な異端者。
中でも荒野の魔導士は、ここ東の地で「復讐の魔導士」という伝承が根強く残る。
復讐を司る邪神に仕え、数多の魔獣を従え、千年以上の時を生きた魔導士。
そして契約を交わした者の魂を対価に、その者が望む復讐を成就させる。
荒野の魔導士は、聖なる結界で守られた伯爵領の外側、多くの魔獣が跋扈する荒野の城で暮らしていると言い伝えられている。
コーデリアは森の猟師小屋で服を着替え、腰のベルトに長剣を差した。
手足に巻かれた包帯をほどけば、無数の傷はすでに塞がりかけており、赤い血の跡だけが表面に残っていた。
ランプの小さな光を頼りに、少女は暗い森を駆け抜ける。
その間に日が沈み、月がのぼり始めた。
奥へ、奥へと走るにつれて小径は途切れ、獣道さえ覆うように草木が生い茂る。
少女は荒れ果てた獣道を、何時間も、足を止めることなく走り続けた。
夜の闇が一段と、深さを増した頃。
コーデリアの行く手を阻むように、森が封鎖されていた。
古く錆びた大きな鎖が、等間隔で木々の間に張らている。
鎖にぶら下がる木札は雨風にさらされ朽ちかけていたが、ランプで照らせばかろうじて文字が確認できた。
『この先は呪われし地。何人たりとも一切の立ち入りを禁ず』
コーデリアは表情を変えず、胸ほどの高さで張り巡らされた鎖をくぐった。
奥へ進めば進むほど進路は険しく、獣道すら途絶え、闇は濃さを増してゆく。
人の手が入らない森は、野放図に生い茂る草木に遮られて月明かりすら届かない。
荒廃した森はやがて、鬱蒼と針葉樹が生い茂る原生林の様相を呈しはじめる。
更に奥地を目指し、少女は休むことなく、足場すらおぼつかない中を走り続ける。
原生林は崖で行き止まりとなった。
ランプの光をかざし、下を見れば、鋭く切り立った岩肌をまとう断崖が広がっている。
少女はにわかに立ち止まった。
今までの魔獣討伐で、この崖から先は足を踏み入れたことがない。
父からも、固く立ち入りを禁じられてきた。
この先には、数多の魔獣が潜む荒野がある。
ひとたび足を踏み入れれば、歴戦の討伐者すら生きて帰ることはない「呪われし地」。
「……」
少女は息を深く吸って吐くと、魔獣の返り血と額の汗を袖でぬぐった。
鞄を左手に抱えると、樅の大木よりはるかに高くそびえる崖を、山羊のように駆け下りた。
そうして原生林の下に広がる荒野――
伯爵領の最東端、聖なる結界の向こう側に広がる未踏の禁足地に足を踏み入れた。
その瞬間、コーデリアは周囲の空気ががらりと一変するのを肌で感じた。
嗅覚を逆撫でするような、腐臭をおびた獣のにおいが、どこからともなく漂ってくる。
剥き出しの岩や赤土、鬱蒼とした茂みが、複雑に入り組む未開の地。
コーデリアは無感情に、目の前に広がる荒野を眺める。
すると前方で無数の赤い瞳が、彼女を待ち伏せるように光った。
目を凝らせば、赤い瞳と異形の姿形を持つ獣たちの姿が、闇に浮かび上がる。
彼女の三倍近い体躯をもつ双頭の獅子が、ぬっと歩み出た。
茂みの奥からは、無数の目玉が全身に開いた大猿や、木の幹のような胴をもつ巨大な一つ目の蛇が、少女を窺っている。
「……邪魔だ」
コーデリアはかすれた声で吐き捨てた。
魔獣たちに向かって歩みを止めることなく、距離を詰めてゆく。
双頭の獅子が岩場を飛び越え、少女に飛びかかった。
異形の獣が目前に迫っても尚、コーデリアは歩きながら剣を鞘から抜く。
抜くと同時に、横薙ぎにふるった。
銀色の剣筋が、闇の中で一瞬の軌跡を描く。
『グ……ギギッ……』
二つの口元からくぐもった鳴き声が漏れた、次の瞬間。
獅子の双頭が首からずり落ち、鈍い音を立てて地面に転がった。
おびただしい血を噴きながら、首を失った胴体がどさりと崩れ落ちる。
間髪入れず真横の茂みから、巨大な一つ目の黒蛇が這い出した。
少女はその場を動かず、自分を目がけて鎌首をもたげる蛇へ、剣を振り下ろす。
大蛇の鼻先は真っ二つに裂け、のたうち回る巨体が木々をなぎ倒した。
コーデリアは折れた幹を足場に、大蛇の頭に跳び移ると、脳天へ刃を突き立てる。
巨大な一つ目に剣先が沈むと、真っ黒な巨体は地面に沈んだ。
それきり糸が切れたように、動かなくなる。
コーデリアは大蛇の屍から飛び降ると、荒野の奥を目指し、淡々と駆けてゆく。
すると茂みの奥から遠巻きに様子を窺っていた魔獣たちが、一斉に少女へと襲いかかった。
コーデリアは剣を握り直すと地面を蹴り、魔獣の群れに向かって突進する。
「どけええぇっ!」
魔獣たちの咆吼を裂くように、少女の怒号がこだました。
行き場のない怒りをぶつけるように、次々と立ちはだかる魔獣を何度も斬り裂く。
四肢を裂き、首を落とし、心臓を突く。
おびただしい返り血を浴びながら、コーデリアは立ち止まることなく、荒野を突き進んだ。
剣をふるう最中、不意にコーデリアの視界がにじんで歪む。
気付けば少女の頬には、幾筋もの涙がつたっていた。
(何を泣いているの、今さら……)
今さら涙を流すのか。
両親を失い、目の前で姉が焼かれても泣かなかったくせに、今さら――
「は……ははっ!」
乾いた笑いが喉から漏れる。
「あはははははは!」
喉を絞るような哄笑は、ほどなくして嗚咽に変わった。
それでも少女が足を、剣を止めることはない。
魔獣を屠りながら、暗く荒れ果てた獣道を走り続ける。
やがて煌々と輝く満月が、頭の真上にのぼる頃。
低木の茂みを抜けると、コーデリアの視界が不意に開けた。
闇夜を背に影のようにそびえる、巨大な城が前方に見える。
「あれが、魔導士の城……?」
空へと吸い込まれるような背の高い尖塔に、その両脇を固める円柱状の側塔。
広大な敷地をぐるりと石積みの城壁が囲んでいる。
造りこそ古いが、辺境伯である父の居城より、遥かに巨大な城だった。
(知らなかった。こんな大きな城が、レグルス家の他にあったなんて……)
しばらく歩けば、少女は黒々とした城の門前にたどりついた。
人の気配はなく、閉ざされた門や窓には灯りすら見当たらない。
まるで廃城のように暗く、夜闇に浮かび上がる古城を、コーデリアはこわごわと見上げる。
灯りの一つもついていない――本当にこの城に、魔導士がいるのだろうか。
そんな不安が胸に湧いた、その時。
ヒュッと風を切る音が、コーデリアの耳をかすめた。
何かが飛んできたのに気付き、少女はその場を飛び退く。
それは夜闇に紛れるように黒く、コウモリのような翼を背に持つ魔獣だった。
猿のような体に、顔の半分を覆う太い嘴。
手足から伸びる鉤爪は、槍のように長く鋭い。
振り下ろされた鉤爪を避け、少女は身を翻すと同時に、剣を振り上げた。
「!」
骨に剣がぶつかったのか、ひどく固い手応えとともに、太い首に刃がめり込む。
だが首を斬り落とした瞬間、黒黒とした魔獣の全身が、一瞬で灰色へと変わった。
落下した首も同様に、ゴトンと重く鈍い音を立て、岩のように転がり落ちる。
「なっ」
一体何が起きたのかと、少女はランプで足元を照らし、絶句する。
地面に転がっていたのは生身の魔獣ではなく、まるで石像のように石化した首だった。
「魔獣が、石に……!?」
「ほう、ガーゴイルを斬ったか。見事な腕だ」
何者かの声が門の内側から響き、コーデリアは弾かれたように顔を上げる。
すると巨大な城門が軋んだ音を立て、ひとりでに開きはじめた。
跳ね橋がおり、門の内側が露わになる。
「誰!?」
少女は反射的に、門の奥へと剣を向けた。
注意深く目をこらすと、白い灯火を携えた小さな人影が、闇の中にすうっと浮かび上がる。
「人に名を聞くなら、自分から名乗るのが筋と言いたいところだが……いいだろう小娘。その剣に免じて答えてやろう」
ひどく時代がかかった、傲然とした喋り方だった。
高くも低くもない、男女の区別がつかない、なめらかに響く中低音の声。
「我輩は復讐と幻影の女神の僕。貴様ら人間は、荒野の魔導士などと呼ぶらしいがな」
(女? ううん、違う。この声は、まさか)
コーデリアはさらに目を見開いた。
ランタンを持った小さな人影が、跳ね橋を渡り、こちらに向かって歩いてくる。
「荒野の魔導士? それって、復讐の」
「いかにも」
コーデリアの目は、声の主の全貌をとらえた。
顎の高さで切りそろえた黒髪に、死人のように青白い肌。
全身をすっぽりと覆い隠す、漆黒のローブ。
ランタンの光を反射する瞳の色は、深い紫の色をしていた。
相対する者を射すくめるような、鋭く鮮やかな眼光を放っている。
「我輩は復讐の魔導士。依頼者の魂と引き換えに、復讐を成就へ導く者だ」
どこからか飛んできた大きな烏が、魔導士の左肩にとまった。
(信じられない。魔獣が出没する荒野に棲む烏が、人に慣れて……?)
けれどそれ以上にコーデリアが信じられなかったのは、荒野の魔導士を名乗った目の前の人物が――
「子供……?」
自分よりも明らかに幼い、十二、三歳ほどの少年にしか見えないことだった。