漏れそうだったから女子トイレ入ったら詰んだ
放課後、突然の便意に襲われた俺は絶望の淵にいた。
教室棟の各階のトイレ全てが使用中か故障中だったからだ。俺が言えたことでは無いが、お前ら家に帰ってトイレしろよ!と思いながら一縷の望みを掛けて実習棟までやってきた。
正直、腹は限界に近い。もしここが駄目だった場合、明日から俺には辛く厳しい学生生活が待ち受けているだろう。祈りながらやってきた男子トイレに故障中の張り紙が貼ってあった時は学校の設備担当に慰謝料請求しようと心に決めた。
もう全てを諦めて括約筋を解放しようかと思った時、俺は見つけてしまった。いや、その存在はかなり前から知っていた。だがそれを使ったが最期、人として超えてはいけない一線超える確信が俺にはあった。
女子トイレ。それは文字通り女性が使うためのトイレ。何度頭の中の辞書を開いても男性が使用する方法は書かれてはいない。
しかし、女子トイレを使用する事と漏らしてしまう事を天秤にかけて、俺は女子トイレに入ることを決意した。断じてやましい気持ちはない。というよりそんな事を考える余裕はない。
俺は周りに人が居ないことを確認すると、そっと女子トイレのドアに近づき中の気配を確認する。その光景を誰かが目撃したら間違いなく110番されただろう。
中に人の気配は感じない。俺は躊躇しながらゆっくりドアを開けた。
(まだギリギリ中に女子がいても、間違えたで済ませられるはずだ。)
そう自分に言い聞かせ慎重に顔だけ中に入る。中にはもちろん誰もいなかった。個室にいる可能性も考慮して念を入れて予防線をはる。
「設備点検作業に入ります。誰もいらっしゃいませんか?」
正直、事前告知もなく中に入っていきなりこんな事を言う非常識な点検業者はいないだろうが俺の将来にも関わる案件だ。反応がないことを確認して腹を抑えながら覚悟を決めて中に突入した。
女子トイレに入ったのは初めてだったが、感想を言っている暇はない。2歩3歩と中を進み、洗面台を超えた時にこちらに近付く足跡と人の気配を感じた。
放課後の実習棟に近寄る者は少数の文化部くらいだが、ここは文化部が使うフロアではないし内心誰も来ない確信もあって突入したが、神は俺を見放したようだ。トイレではない可能性もあるが兎に角隠れなければいけない。俺は1番奥の個室に入ると鍵を閉めて息を殺し、通り過ぎることを祈った。
「さっさと入れよ!檜山」
「スカしてんじゃねーぞ!」
「痛いっ…引っ張らないで下さい」
ドアが開くと同時に怒鳴り声とか細い声が聞こえ、あまりの出来事に便意が引くのを感じた。しかし、それは勘違いですぐに腹が痛み出した。もう本当の本当に限界に近いが、トイレをすれば存在がバレてしまう。ただの利用者ならまだ何とかなっただろうがこの感じはバレたが最期、口封じのために詰め寄ってくるに違いない。俺に出来ることは個室にいる事がバレることなく、こいつらが出て行くのを待つしかない。流れる冷や汗を拭うこともせず、外へと神経を尖らせた。
「お前、いちいち癇に障るんだよ。頼むから学校来んなよ」
「…私は」
「口答えしてんじゃねーよ!」
「このトイレ、霊が出るっていわく付きで誰も来ねえんだよ。覚悟しろよ!」
「…やっやめて…うっ…」
かなりヤバい現場に想像出来る中で1番ヤバい状況が重なっている。とてもじゃないが直ぐに出ていくとは思えない。俺は覚悟を決めて行動を開始する。それにいい事を聞いた。俺は出来る限りのくぐもった裏声を低速再生しているような感じで途切れ途切れに声を出した。
「ダッ…レカ…イルノォ?」
「え!!!?」
成功した。あとは畳み掛けて追い出すだけだ。俺は個室ドアを不規則に叩きながら追い打ちをかける。
「イ…ルノネッ!アケテアケテアケテアケテッ!!」
「「ぎゃああああ!!!!」」
上手くいった。喜びで括約筋が緩まないうちに俺は達成感に震えながら急いでズボンに手を掛ける。もう1秒の猶予もない。半ば無理矢理ズボンを下ろすと流れる様な動きで便座に座りために溜め込んだ鬱憤を解放するように力を入れた。
「はわわぁぁあ…っやべ」
思わず女子トイレということを忘れて声を出してしまったが仕方ない。どうせ居ないんだからと鼻歌交じりトイレットペーパーを使う。
「フンフンフンフーン」
過ぎてしまえばいい思い出だ。それにいじめまで阻止したのだ。女子トイレに入ったことを褒めて欲しいくらいだ。だが俺の苦難はまだ続いていた。女子トイレに入る事はそんな生易しいものではなかった。
なぜならズボンを上げて個室から出ると女の子が床に座り込んで涙目でこちらを覗き込んでいたからだ。俺はそのまま個室に戻った。俺の高校生活が本日終了し、卒業まで鼻歌快便マンとして生きていくことが確定した。それにもし警察沙汰になれば親を呼ばれ、女子トイレでトイレした経緯を大人の前で発表する羽目になる。呆然と便座に座って死刑判決を待っていると外で物音が聞こえた。
「あの…向井勉くんだよね。私、同じクラスの檜山栞。わかる?」
勿論わかる。しかし、答えることは出来ない。檜山栞は学年順位1位の秀才だ。きっと俺だと分かればその学力を駆使して俺を社会的に抹殺するのだろう。俺が黙っていると彼女がまた口を開く。
「あの…なんで女子トイレにいるの?…と盗撮してたとか?」
「そんな事するか!!あっやべ…」
つい口出してしまった。しかしもうしょうがない。どうせ前に居られたら出て行けないのだ。このままここに他の生徒や教師が現れたらそれこそ終わりだ。覚悟を決めてドアを開けた。
「…とりあえず、外に出て話しませんか?」
「確かにそうだね。」
「あのそれでですね。頼みがあるんですが…」
「ああ、外確認すればいいの?」
「…すみませんが、お願いします」
情けない。こんな情けないことがあるだろうか。彼女の後ろにくっついて外を確認してもらい、誰もいないそうなので外に出ようとすると呼び止められた。
「え、なんですか?」
「その…向井くん手洗ってないよ。」
「すみません、少し待っててください」
情けない。手を洗いながらこの水のように全てが流されてはくれないものかと思った。手を洗い、彼女に従って近くの空き教室に入った。がらんとした教室は夕日でオレンジに染まり青春映画なら告白する様なロケーションだった。しかしここで俺が告白するのは女子トイレに入った経緯だった。
「…という訳で、漏らすよりマシと思って入りました。断じてやましい気持ちはありません。スマホも荷物も確認してもらってかまいません。」
先程のトイレのように全てを吐き出した俺は手荷物を広げて判決を待った。
「トイレのお化けの声は向井くんがやったの?」
「はい、そんな話が聞こえたので乗っかりました。…アケテって感じで、色々限界だったので。」
「…そうなんだ。…そういう事情ならしょうがないね。黙っててあげるからもうしないでね」
「えっ!はい!!もうしません!!ありがとうございます!」
「…それで、ちょっとその…」
「?なにかありましたか??」
俺の誠意が通じたのだろう。安堵していると檜山さんが申し訳なさそうに口を開く、俺は続きを促して次の言葉を待った。
「その…いじめられてるんだ。わたし。多分校門の前で待ち伏せされてる。取り引きって訳じゃないけどトイレの事黙っててあげるから助けてくれない?」
取り引きと言われれば断れない。しかし、トイレを漏らしかける様な俺に一体何が出来るというのか。しかし、人の尊厳を殆どあの時失ったのだ。俺に怖いものなどない。
「分かりました。任せて下さい!」
檜山さんを残し、校門前に1人でやってきた俺は聞いていた通り待ち伏せしていた同じクラスの鎖江島さんと切三谷さんと対峙していた。
「ああ?向井だっけ?なんか用?」
「てかコイツ、…やばくない?」
威嚇する鎖江島さんと俺を観察して心底嫌そうな顔で俺を睨む切三谷さん。来る途中どうするか色々と考えようとした。しかし俺はこの方法しか思いつかなかった。だが勝算はある。震える声で俺は彼女達に話しかけた。
「鎖江島さん、切三谷さん、いきなりこんな事話して変に思うかもだけど…俺、実は霊感があるんだ。」
「「…!!」」
明らかに動揺している。トイレの記憶が新しい今なら行けると思った。勿論俺に霊感はない。だが俺には普通なら知りえない女子トイレの情報がある。
「その…言い難いんだけど、このままでは2人はかなり危険だよ」
「はあ、そそんなん信じられるかよ」
「き危険とか意味わかんないし」
俺はさっきスマホに録音しておいた音声を再生する。ボリュームは聞こえるか聞こえないかにしておいた。
「違ったら申し訳ないんだけど、…君たち誰かをいじめてるんじゃない?」
「ななんでそれっ!!」
……ア…ア…ケ……テ
「その子、いじめられてトイレで亡くなったんだって。トイレに閉じ込められた時に火事でさ…」
……アケ……ケテ…
「ななんだよお前っ!」
「ね、ねえ…なんか聞こえない?」
「はあ何言ってんだよ!やめろよ!」
「もしいじめしてるんなら、今すぐやめた方がいい。絶対に後悔する!!」
…テ…アケ……ア…テ
「だから知らねっ…」
「ねえ!!やっぱりなんか聞こえるよ!!」
「はあ、気の所為だって…」
アケテアケテアケテアケテアケテアケテアケテアケテアケテアケテアケテアケテアケテアケテアケテアケテアケテアケテアケテ
「◎△$♪×¥●&%#?!!!!」
悲鳴を上げて逃げ出す2人を見て、そっとスマホの音声を消した。思えば遠くに来たものだ。トイレを探していたら、まさか霊能者になるとは思わなかった。俺は颯爽と檜山さんが待つ教室へ向かう。そこにはもう女子トイレで冷や汗を垂らしていた残念な少年の姿はなかった。
「…という事で檜山さん、多分もういじめは無くなったよ。」
俺は彼女達にやった方法を語り、ドヤ顔で話す。もう俺の中で女子トイレの事は完全に消えていた。
「そうなんだ、実感はないけど…向井くんありがとうございます。」
「いいよ、じゃあこれで!」
ここでごちゃごちゃ話すのはかっこ悪い。立つ鳥跡を濁さずって奴だ。トイレを漏らし掛けた奴が言う事じゃないがと冷静な俺なら考えるが今の俺にそれは無理な話だ。
「あっあの!!」
檜山さんが声を掛ける。夕暮れに染まる教室。それはずっと変わらないが、俺の心持ちは変わっている。遠くで吹奏楽の演奏が聞こえる。それは俺へのファンファーレに違いない。
「なんでしょう?」
振り返って彼女と再び見つめ合う。彼女は耐えられず目を逸らし頬を赤く染めながら小さな声を絞り出した。
「…チャック開いてます」
俺は表情を変えずにチャックを直そうとしたが、勢い良くズボンを下ろした時に壊れてしまっていて、何度か上下に動かし無駄と分かった。俺は彼女を見ながらチャックを上下させ、両手を広げ小さく肩を上げて小首傾げ、無意味である事を伝えると教室をあとにした。
女子トイレ。それは文字通り女性が使うためのトイレ。
俺は帰り道、シャツで壊れたチャックを隠しながら何度もその言葉をリフレインした。