素直になれない、なりたくない。
侯爵家の娘である私には、寝る前の日課がある。時計で時間を確認した私は、上着を羽織ってから自室のバルコニーに出た。
私はこの国の王太子の婚約者候補だ。候補と付いているものの、私一人だけしかいないので、実質婚約者な状態がしばらく続いている。でも私は王太子の婚約者ではない。実質婚約者と正式な婚約者は似て非なるものだ。何度だって主張しよう。私は王太子の婚約者ではない。
私の日課について話を戻そう。王太子の婚約者候補である私の元には、毎夜箒に乗った空からの来訪者がやってくる。私がバルコニーに出てしばし待つと、件の来訪者が姿を現した。
癖のある灰色の髪と切れ長の瞳が印象的な整った顔立ちの青年が、古びた竹箒に跨り空を飛んでいる。現実味の薄いおとぎ話のような美しい光景に、私は見惚れずにはいられなかった。
そういえば以前、なぜ箒なのかと彼に訊いたことがある。そういうものだからと彼には返された。私は未だに納得がいかない。
上空を飛んでいた彼は、バルコニーにいる私を目指して高度を下げてきた。私の目線に合わせた位置で箒が止まる。
箒に乗ってやって来た彼と逢って話すこと。これが私の寝る前の日課だ。年頃の令嬢なら、本当はこんなことするべきではないのだろうけど。
「こんばんは、クロア」
「こんばんは、レコ」
私はクロアリーゼだからクロア。彼はレコナズールだからレコ。私達はお互いを愛称で呼びあっている。
満月を背にして何も言わないレコに、私は真顔で言い放った。
「レコ、月が汚いですね」
「なぜ君はそういつも遠回しに遠回しに、嫌いだと言うんだい?」
彼が言う通り、私は毎夜訪れる彼に悪態をついてばかりだ。それでもレコは毎夜私に逢いにくる。
「私のことが嫌いなら、嫌いだとはっきり言ってしまえばいい。はっきり一思いに振られれば、私はきっぱり君を諦めるさ」
「……私はレコのことがき、きら……きら……」
はっきりと言葉にはできなかった。
ふわふわと箒に乗って宙に浮いたままで、レコは勝ち誇った笑みを浮かべた。私の内心などお見通しと言いたげだ。
「君のことだから、本心でなくてもその一言だけはどうしても言えなかった。その悪態も何もかも、本心でないのは分かっている」
分かっているくせに、レコは私にあんなことを訊いてきたらしい。
「分かっているなら、どうしてなのか言ってみてください」
「私の愛を試しているのだろう? 私の愛が悪態程度で揺らぐ愛ではないと、君は知りたいのさ」
「その通りです。どんなに悪態をついても、貴方は必ず毎日逢いに来ます。その事実が私を安心させてくれるんです。貴方が私を好きなのだと、心から実感できるんです」
レコが私の本心を分かっているのは、本当のことだった。そして私には長年疑問に思っていることがある。
「ずっと疑問でした。なぜそこまで好きでいてくれるんですか?」
「君は覚えていないだろうが、私は君に命を救われたことがある」
うん、覚えていない。
「私は貴方に何をしたんですか?」
「君が思い出さないように、詳細を話さないのが君の父上との約束だ。私も君に思い出してほしくない。一つだけ言えるのは、君のあの行動こそが無償の愛だった。だから私は君に恋をし、無償の愛を捧げたいと願うようになった」
「貴方が私を好きな理由は、分からないけど分かりました」
詳細が気になるのは確かだ。でも二人が揃って思い出さないように取り計らうぐらいなのだから、思い出さない方が良いことなのだろう。
「私は愛を試すような人間です。貴方はそれを分かった上で、ずっと好きでいてくれたということですか?」
「君からの愛の試練なら、どんなものだって私は喜んで受け入れるさ」
そう言われても私はレコを信じきれずにいる。私は話題を変えるために、言うべきだったことをレコに伝えることにした。
「もうそろそろ、この逢瀬は止めるべきではありませんか? 私は王太子の婚約者候補ということになっているんですから」
今まで言わずじまいになっていたことだ。王太子の婚約者候補でも、それ以外の何かであっても、夜の秘密の逢瀬は年頃の令嬢なら避けるべきことだった。なし崩し的に今まで続いてしまっていただけで。
「安心したまえ! この毎夜の秘密の逢瀬は父上公認だ!」
なんかレコがドヤってきた。
「え、嘘でしょ!? 殿下!?」
「おっと殿下呼びとは。夜に訪ねて来たら王太子扱いしないと宣言したのは、君ではなかったかな?」
「驚き過ぎて出てしまいました」
衝撃的過ぎて思わず、殿下と呼んでしまっていた。
レコことレコナズール、この青年はこの国の王太子だ。この国の王家は貴重な魔力持ちの家系であり、今レコが箒に乗って宙に浮いていられるのも魔法の賜物だ。
私がそんなレコの婚約者候補止まりなのは、私がレコとの婚約を嫌がっているからだった。王家から無理やり婚約を結ぶこともできただろう。でもレコはそれを良しとしなかった。
「いや、それで、陛下は何考えているんですか!?」
「この箒を私にくれたのが、何よりもの証拠だ。この箒は大変由緒ある箒で、父上も祖父上もそのまたご先祖も、思い人を口説く際に使ったものなのだ!」
「いや本当に王家は何やっているんですか!?」
レコを見る私の目が半目になってしまったのは、仕方ないことだと思う。
「王家には秘密の家訓があるのだ。女性の心一つ射止められないで何が国王だとね」
広く知られていないだけで、王家はそういう伝統らしい。私の目は半目になったままだ。普段ならレコはそろそろ帰路につく時間にもかかわらず、今日のレコにそんな気配は全く無かった。
「後ろに乗らないかい?」
返事をする前に、私は問答無用で箒の後ろに乗せられていた。諦めた私は渋々レコの腰に手を回した。私が掴まったのを合図に、レコは箒を夜の空へと向ける。
「私のことが好きだから、婚約を嫌がっているのだろう? それは分かっても、なぜそうなるのかが私には分からない」
「だって信じられないから」
顔を見られていないから、つい本音を言ってしまった。
「私は侯爵家の出であっても、秀でていることは何もありません。貴方が私を好きでいる今が奇跡のようなものです。男性は中々手に入らないものほど、欲しくなるのでしょう? 婚約してしまえば、貴方は私のことなんてどうでも良くなります」
こんなことをレコに話したのは初めてだ。私の話を静かに聞き終わったレコは、とんでもないことを言い出した。
「いっそ王宮までこのまま君を連れて帰ってしまおうか」
「ちょっと何言っているんですか!?」
「冗談さ。今までの我慢が水の泡になってしまう」
全く冗談には聞こえなかったけど、冗談だったことにしておこう。
「薄着の君はいつだって目の毒だった。何度君を攫いたくなったことか。でも私は君を攫うことはしなかった。嫌がる君と無理やり婚約を結ぼうとしなかった。どんなに忙しくても、毎夜必ず君に会いに来た。私の君への愛の証明にはならないかい?」
確かにレコはこれ以上ないぐらいに、私のことを大事にしてくれていた。あとさっきのは絶対冗談ではなかった。
「私は家柄しか取り柄が無い私が嫌いです」
「君自身が嫌いな部分も含めて、私は君が好きなのだ。クロア、あの時からずっと私は君を愛している」
優しく言い含めるようなレコの声音に、心が大きく揺さぶられる。
「私は先程一つだけ嘘をついた。はっきり面と向かって嫌いだと言われても、きっと私は君を諦められない。嫌いでも何でも構わないと、権力で無理やり君を自分のものにしていただろう。クロアに振られると、私は闇落ちしかねないことを覚えておいてほしい」
揺さぶられていた心が少し落ち着いた。うん? レコの闇落ち? 何があってもレコを闇落ちさせてはいけない気がする。私が妙な危機感に襲われる中、レコは私の核心を突いてきた。
「私のことが好きだから、不安になるのだろう? でも先の不安ばかり気にして、今の幸せを手放すのは本末転倒ではないのかい?」
何も言い返せなかった。気付けば私はレコを背中から抱きしめていた。
「貴方の愛は全て私だけにください」
「それは約束できない。私は国王として国を愛さねばならない」
「ならレコとしての愛情は全て私にください」
「約束する」
「跡取りは必ずどうにかするので、側室は作らないでください。愛妾はもっと嫌です」
「約束する」
「私より先に死なないでください」
「善処する」
「やっぱり駄目です。私が先に死んだら、貴方は後妻を取るかもしれません。だから私より先に死んでください」
「善処する」
「私が先に死にそうになったら、殺してもいいですか?」
「善処したいところだが、それは駄目だ。子供は必ずなのだろう? 残された子が悲しむことになる。国も混乱に陥ってしまう」
「それなら貴方を残して死んでもいいと思えるぐらい、私を幸せにしてください」
「約束する」
思いつくことは全て言い切った。広くて安心する手放したくないこの背中は、私以外の誰のものにもなってほしくない。私は狂おしいぐらいにレコに恋していた。
「クロア、私と婚約してくれないか?」
今まで何度も聞いた、レコのその言葉。私は返事の代わりに、レコを抱きしめる腕にぎゅっと力を込めた。
箒に乗って見る今夜の満月は、いつもよりずっときれいだった。




