絶望の夜、希望の朝
こちらは、短編『記憶喪失の私ですが、どうやら皇弟殿下の最愛のようです』の前日譚になります。
ルシルが見つかったとの報せを受けたレナードは、取る物も取り敢えず部屋へと駆けつけた。
報告をしたマイナールへ彼女の容態を尋ねたが、会えばわかると言ったきり彼は口をつぐみ、詳細を語ることはなかった。
すでに部屋の中にはアンナがおり、精神を安定させる効果があるお香が焚かれている。
これは、レナードが疲れている時によくアンナが使用するものだ。
ルシルはベッドで眠っていた。
両手が胸の前で重ねられており、レナードが贈った髪飾りが添えられている。
レナードはルシルを起こさないよう静かに近づくと、傍らに用意されていた椅子に腰を下ろす。
部屋に入ったのはレナードだけで、マイナールは外の扉の前に立っていた。
「ルシルの容態は、どうだ?」
「…………」
後ろに控えているアンナへ尋ねるが、返事はない。
「アンナ、容態はどうなんだ?」
問いかけが聞こえなかったのかと、声に多少苛立ちが交じる。
「ルシルは……眠っております」
「それは見ればわかる。それで、怪我などはしておらぬのだな?」
「……怪我はしておりません。静かに眠っているだけです。ただ……目覚めることはありません」
「それは、どういう意味だ?」
レナードは、眉間に皺を寄せる。
幼き頃より自分に仕える初老の侍女だが、なぜか今日は一層老け込んで見えた。
「言葉通りの意味です、レナード殿下。ルシルは二度と目覚めることはございません。ダンテ医官によりますと、毒を飲んだのではないかとの……」
「!?」
いつも以上に淡々とした口調でアンナの報告は続いていたが、レナードの耳に届くことはなかった。
頭の中は真っ白で、喉はカラカラに渇き、自然と体は震えていた。
レナードはルシルの顔を覗き込む。
普段より肌の血色が良く見えるのは、薄く化粧が施されているからだった。
おそらく、アンナの手によるものだろう。
胸の上に置かれているルシルの手に触れると、ひどく冷たい。
まるで氷をさわっているようだった。
「……しばらく、一人にしてくれ」
「かしこまりました」
アンナは一礼し、部屋を出ていく。
扉が閉まる音が聞こえると、レナードは肩の力を抜いた。
◇
どれくらい時が過ぎたのか、わからない。
レナードは椅子に座ったまま、ルシルの顔をただ眺めていた。
時折、手を握ったり、頭を撫でたり、頬をさわったり、弱点である首筋をスーッとしたりと、ルシルが嫌がることをいろいろとやってみた。
もしかしたら、怒って目覚めてくれるかもしれない。
また、半眼でねめつけるように自分を見てくれるかもしれない。
そんな淡い期待もあった。
「……どうして」
頬を一筋の涙が流れる。
心が麻痺しているのだろうか、泣き叫ぶことはない。
驚くほど冷静な自分は目の前の事実から目を背け、現実逃避をしているのだとレナードは思った。
空が白んできて、少しずつ明るくなってきた。
夜明けだ。
今日も山積みの仕事が待っているが、気力が湧かず、何をする気にもなれない。
ルシルがいるから、これまで頑張ってこれた。
彼女のいないこの世界に、何の意味も意義も見出せない。
何もかも放り出し、このままずっと傍にいたい。
しかし、レナードはそれが許される立場ではなかった。
もし、いま責任を放り出せば、「しっかり、ご自身のお務めを果たしてください!」とあの世からルシルが現れ、情けないレナードを叱責してくれるかもしれない。
(たとえ幽霊であろうとも、また会えるものなら、もう一度会いたい……)
レナードの、悲痛な心の叫びだった。
◇
ルシルは、出会った時から変わった娘だった。
他の令嬢とは違い、皇子殿下であるレナードに対し堂々と意見を述べてくる姿は新鮮だった。
「皇族ともあろう御方が、我が儘放題。民の上に立つ者として、恥ずかしくはないのですか?」
自分とそう年端も変わらない少女から投げかけられた、辛辣な言葉。
なんと不敬で生意気な女だと思った。
レナードは少女から言われたことが悔しくて、見返したくて、これまでの自分の態度を改める。
積極的に勉学に励むようにもなった。
成績が上がる度に少女へ自慢しに行くと、「素晴らしいです!」「殿下は、やればできるお方なんですよ!」と手放しで褒めてくれる。
「よくできました!」と頭を撫でられた時は、「子供扱いするな!」と反発したが、悪い気はしなかった。
ただ、少女を見返したい。認めさせたい。
……それだけだったはずなのに、その気持ちが変化したのはいつからなのか。
レナードは裏から手をまわし、少女を自分付の侍女に抜擢する。
主従の関係になってからも、時には褒めたり、時には叱られたりと、少女は何も変わらなかった。
気づくと、レナードはルシルを目で追っている。
姿が見えないと、つい探してしまう。
いつしか、共に人生を歩んでいきたいと願うようになっていた。
レナードが成人した十五歳の夜、十七歳のルシルへ想いを告げた。
彼は真剣に気持ちを伝えたのに、「ご冗談を……」と本気で取り合ってくれなかった彼女に腹を立て、抱きしめて無理やりキスをした。
これで少しは異性として意識してもらえる……そう思っていたら、彼女は突然侍女を辞めてしまう。
その後も諦めきれず、レナードは文官となったルシルと関わりを持ち続け、何度も求婚したが、ことごとく断られ続けた。
その陰で、ルシルに対し嫌がらせ行為をする者に対して、レナードは断固たる態度を貫く。
度が過ぎる行為を働いた者には、それ相応の対価を支払わせたこともある。
いつしかレナードは、『コマンダン・ルージュ(赤の司令官)』の二つ名で呼ばれるようになっていた。
◇
重い体に鞭を打ち、レナードはようやく立ち上がった。
これで本当に最後。
ルシルの顔を瞼に焼き付けようと近づいたところで、ふと思い出す。
もう一つだけ、レナードは彼女が嫌がることをやっていなかった。
幼い頃に読んだ西方の物語の中に、長い眠りから目覚めた王女が騎士と幸せになるお話があった。
子供心ながら、そんな簡単に呪いなんか解けるのかと鼻で笑ったが、今は神にもすがりたい気持ちだ。
物語の王女のように、まるで眠っているかような綺麗な顔をしたルシルへ、そっと自分の顔を近づけていく。
初めてキスをした時のように壁側に押さえつけて無理やりすることもなく、静かにゆっくりと唇を重ねた。
長い別れのキスを終えたレナードは、気持ちを奮い立たせ扉へと向かう。
これから、一番の大仕事が待っているのだ。
ルシルの父である軍団長へ、報告をしなければならない。
マイナールやアンナは反対するだろうが、部下を通してではなく、自分が直接伝えるつもりだ。
愛娘の死を知った彼がどのような行動に出るのかは、全く予想がつかない。
(下手をすれば、刃傷沙汰になるかもしれないな……)
その場で暴徒化した軍団長にレナードは殺されるかもしれないが、それならそれでも良いと思えた。
ルシルのいないこの世に、未練など全くない。
ただ、後を追ってきたレナードに、彼女が嫌な顔をするかもしれないが。
フフッと笑みを浮かべながら、レナードが扉に手をかけた時だった。
カチャンと後ろで音がし、レナードが振り返ると、ルシルの手にあったはずの髪飾りが床に落ちている。
(なぜ、落ちた?)
不思議に思いながらも拾い上げ、見つめる。
レナードがルシルへ渡すために、熟練の職人に作らせた特注の髪飾り。
「これ、おまえにやる」と冗談めかして手渡したレナードに、「平民に、こんな分不相応な物を……」と困惑と呆れた表情を浮かべていたルシル。
受け取りを固辞する彼女になんとか押し付けることには成功したが、結局一度も身に着けてはくれなかった。
せめて一緒に埋葬してもらおうとルシルの手に触れると、あれほど氷のように冷たかった手が少し温かいように感じる。
(まさか……)
ルシルの口元に顔を近づけると、かすかに呼吸音が聞こえた。
すぐさま彼女の体を横向きにし、優しく背中をさする。
「マイナールとアンナはいるか!」
背中をさすりながら、大声を張り上げる。
慌てた様子のマイナールとアンナが、すぐに部屋へ入ってきた。
「ルシルが息を吹き返した。マイナールはダンテ医官を連れてきてくれ。アンナは、清潔な布と湯の準備を。布が足りなければ、俺の服でも何でも構わぬ。切り裂いて使え」
「しかし、レナード様……」
「とにかく急げ!」
「「御意!」」
マイナールはほんの少しの間でもレナードの護衛がいなくなることに難色を示したが、レナードが護身用の短剣を目の前に差し出し黙らせた。
レナードとて、皇帝陛下より司令官を拝命した身。
マイナールほどではないが、日頃の鍛錬はしている。
いざとなれば、自分の身くらい自分で守れるのだ。
そうこうしている内に、少し離れた場所にいた部下へ伝令を終えたマイナールが戻ってきた。
時間にして、わずか数十秒のことだった。
部屋に戻ったマイナールは懐から手ぬぐいを出すと、レナードへそっと差し出す。
「レナード殿下、皆がやってくる前に、これで口を拭ってください」
「……なぜだ?」
ルシルの背中をさすりながら、レナードは首をかしげる。
一向に手ぬぐいを受け取らない彼にマイナールは少し困った顔をしたが、逡巡したあとレナードの耳元でそっと囁いた。
「恐れながら、口元に紅が……」
「…………」
レナードは無言で受け取ると口元をゴシゴシ拭い、マイナールへ返却する。
明け方に呼び出されたダンテ医官は、医療道具を持って急いでやってきた。
治療の邪魔にならぬよう、後ろ髪を引かれながらもレナードは自室へ戻る。
短い仮眠を取るため疲れた体をベッドへ横たえると、徹夜明けの疲労感がどっと押し寄せてくるが、レナードの気分は晴れやかだった。
「レナード殿下、本当によろしゅうございましたね……」
レナードが脱いだ服を丁寧に畳んでいるアンナが、心の底からホッとしたような言葉をつぶやく。
あまり感情を面に出さない彼女にしては珍しく、目が少し潤んでいた。
「ああ……そうだな」
レナードはそれに気づかないふりをし、目を閉じた。
◇
生き返ったルシルだが、まだ意識は戻らず眠ったままだ。
レナードはなかなか目を覚まさないルシルにやきもきしつつも、いつか目覚めると信じて粛々と仕事をこなしていた。
いまだ捕まっていない容疑者。
おそらくは、他国の者の仕業だろうとレナードは睨んでいた、
ルシル個人を狙ったものか、それとも帝都内の攪乱か?
国境の検問が強化されているため、まだ国内に潜伏しているであろう容疑者を総力を挙げて捜索していると聞く。
担当外の軍団長も参戦している以上、捕縛される日も近いかもしれない。
ルシルについての報告に、レナードは一つ気になることがあった。
黙って宮殿を抜け出した時に、まるで旅に行くような荷物を持っていたというのだ。
宮殿内の部屋は綺麗に整理整頓がされており、ここに戻るつもりがなかったことを示している。
(俺の前から、姿を消すつもりだったのか?)
レナードは、ふう……と息を吐く。
ルシルが目を覚ましたと報告があったのは、それから二日後のことだった。