9 タイムマシンはもういらない
清一
意識がなくなったと、お医者さんが家族を呼ぶように言ったと、案の定泣きながらのなつからの電話を受けて千夏と太一連れて飛行機に乗る。
「せいちゃん」
病室に入るとなつがベッドの傍らにいる。顔色が悪い。
「間に合った。ぎりぎり。」
そう言って彼女は僕の袖を引っ張った。
「ね、最後に声をかけてあげて。」
「え、でも……」
「ちゃんと聞こえてるから。ちゃんと。まだ。」
結構な力でぐいぐい引かれた。
いろいろな機器がつけられて眠ったように見える母のそばによる。枕元によって、耳元に口を寄せて、母さんにだけしか聞こえないような小さい声で言った。
「母さん、産んでくれてありがとう。あなたの子で僕は幸せでした。」
届いたのだろうか?わからない。でも、なつに言わせると聞こえているはずで。
そして、それは僕の本心だった。
どうか安らかに。僕に対して悪いことをしたとかいろいろなことはもう、この世に置いていってほしい。
その後、千夏と太一がお別れをした。
そして、ほどなくこと切れました。
本当に、お義母さん、最後の力をふりしぼって待っていてくれたんだとなつが大泣きをして、太一がもらい泣きをする。千夏は涙ぐみ、僕はそんな三人の様子を眺めていました。
「せいちゃん、悲しくないの?」
絶対言われるだろうと思ってた。
「悲しいよ。」
「じゃ、なんで涙が出ないわけ?」
「君がいつも僕の代わりに泣いてくれるから。」
冗談ではない。この人、二人分は軽く泣いてる。いつも。
***
母のお葬式で、僕は改めて母という人を知った気がする。
たくさんの人がお別れに来てくれた。
分かっていた気はしていた。母はたくさんの人に愛されていると。でも、それが形になって目に見えた気がする。お別れに来てくれる人たちの多さと、その面持ち。皆、一様にきちんと母が亡くなったことを悲しんでくれていた。
「あ、君たちは……」
学生服を着た高校生の子達も来てくれた。
「中学生のときには藤田先生に大変お世話になりました。」
そう言ってきっちりと僕に頭を下げた。あの、ばあさんと呼んでいた子、見違えるように礼儀正しくなっていた。母の見込み通りだったのかもしれない。
出棺する前に隙を見つけてオーナーさんをつかまえた。
「差し支えなければ、火葬に付き添っていただけませんか?」
「いや……」
「お願いします。母のために。」
みんなで煙がのぼっていくのを眺めた。少し離れたところにいる高遠さんに声をかける。
「あの……」
「はい。」
「母が昔言ってたんです。まだ、離婚したての頃に。」
高遠さんはぼんやりと僕の話を聞いている。
「タイムマシーンがあったらいいのにと思いながら生きてきたって。」
「……」
「で、この前、夏に帰って来てたときに母に聞いてみたんです。今でもタイムマシーンがあったらって思ってる?って。そしたら……」
「そしたら?」
「人生はやり直しがきかないから、みんな一生懸命生きていくものではないのかな、失敗しないようにってさって言ってました。」
高遠さんがふっと笑った。
「塔子らしいですね。」
「こうも言ってました。柊二君が死んでしまったから、会えた人もいるのよ。だから、失ったばっかりではなかったなって。」
「……」
「高遠さんのおかげで母は最後、幸せだったんだと思います。ありがとうございました。」
「いや、僕は何も……」
そうやって恐縮したあとに、ぽつりと言った。
「さみしくなります。」
そう言って、空にのぼっていく煙を見ている。
いつか僕もなつと別れる日が来る。僕が先かなつが先か分からない。
どんなに長い時間を一緒に過ごしたのだとしても、本当に好きな人と過ごす時間はいつまでも足りないのではないかと思う。
どんなに長く一緒にいられたとしても、失うときはやはりたまらなく苦しいだろう。苦しいだろうけど、でも、人間はそれでも、そんな痛みにだって耐えられるのかもしれない。
母は耐えました。母は耐えて生き抜きました。
僕は母を尊敬します。
この「旅のおわりとはじまり」自体は、そんなに長い物語ではありません。が、僕の幸せな結末まで、わたしの幸せな結末から、ゆきの中のあかり①②③、そして、それ以外の私の書いた別の小説の中に出てくるせいちゃんとなっちゃんのエピソード、塔子さんが亡くなる前の時点でのエピソード、全てとつながって帰結しました。
せいちゃんもなっちゃんも、千夏ちゃんも太一君もまだ生きていくし、物語は絶え間なく未来へ向かって紡がれていくものなのかもしれません。だけど、これはこの「旅のおわりとはじまり」は塔子さんと清一さんの一つの終着点です。
だから、この物語は長いと思った。長かった。
いろいろな人たちの人生が塔子さんの死によって、一つの終着点にたどり着きました。
ここに一旦集結して、そして、またそれぞれの方へ向かって放たれていきます。
憂鬱で悲しい死に臨むとき、やはりそこにおける輝きは、子供達の未来だと思う。
そして、過去の持つ、思い出の持つきらめきではないでしょうか。
ゆきの中のあかり③を書き終わって、それから、はじめに を書いた際に、60代の人の気持ちは分からない。だから、本作「旅のおわりとはじまり」では、塔子さんの心の中には入らないつもりでした。
ですが、本作を書きながら試行錯誤するうちに、するりと彼女の中に入った。
わたしが見た彼女の心がはたして本当にリアルなのか自分でもわかりません。これはフィクション。作り物です。作り物だけど、私はできるだけリアルな物を書きたいのです。あくまで心理的な面についてですが。だから、まだ60代ではない私がこれを書いていいのかどうか悩みました。悩みながら書きました。
至らないかもしれません。ですが、ふざけて書いた物ではありません。
悩みつつも、わたしが書いてきた物語の一つの帰結として、この形の物を残したいと思います。
2020年8月29日
自宅にて
アイスを食べている息子と主人の間より
汪海妹