8 明るく死にたい
夏美
義母がまた病気になりました。連絡を受けて、わたしは家族を置いて1人、飛行機に乗った。昔、みんなで四日市にいた頃同じようなことがあって、その時は子供たちが小さかった。太一なんてまだ話せなかったし。あの時は希望がありました。
生き残るために義母は闘っていた。
今回は、穏やかな気持ちで死を待っているようです。闘ってはいません。最初はそう思っていました。
「延命は希望しません。ただ、できるだけ痛みを軽くしてほしいんです。」
お医者さんとの相談の席にも義母はわたしを伴ってくれました。
「先生、できるだけ明るく死にたいんです。」
確かにそう言いました。先生とわたしは一瞬何か聞き間違ったかと思った。
「周りの人が見ていて、死ぬのは怖いなとか悲しいなとか、ゼロにはできないですけど、ああ、死ぬのなんてたいしたことないな、怖くないなって少しでも思ってもらいたいんです。だから、がりがりに痩せたり髪の毛が抜けたりする前に……」
「する前に?」
「人間らしく死にたい。できますか?」
そう言って笑った。忘れられません。その顔が。
きっとお見舞いに来ていた人たちは知らなかったと思う。義母はわたしだけに舞台裏を見せてくれた。やっぱり義母は闘っていました。お見舞いに来る人たちに苦痛を見せないために、精一杯がんばっていた。
そして、みんなが帰ると大抵はゆっくりしていました。静かに休んでいた。
いろいろな人が会いに来ました。
たくさんの人と会っておしゃべりすると疲れるので、午前中は申し訳ないけど断って、午後の時間に話す。夕方までには帰ってもらいます。
何回かラッキーも来た。義母を車いすにのせて中庭に連れて行きました。ラッキーは義母の顔を見ると、ぴったりとそばにくっついて帰る時間が来るまで離れませんでした。
帰る時間になって、大地さんかすみれさんが行こうというと、ほえたりしません。
じっと見つめ合って、それから、きびすを返して帰っていく。
ああ、ラッキーと義母は似ているなと思いました。とても我慢強いんです。
夏休みになって子供たちが帰ってくると、義母は特に孫のために『明るく死ぬ』様子を見せてくれました。
それでも、10代の敏感な時期です。いつものあの子たちのような元気さは見られなかった。普段の生活でも、しょんぼりしているわけではなく、ただ、はしゃがない。
あの夏は2人ともあまり笑わなかった気がします。
そして、清ちゃんが帰ってきた。
清ちゃんだけは、本当にいつも同じだった。病気が分かって、2人で相談して、子供たち残してわたしが先にこちらへ来るときにも、落ち着いていました。
この人はいつも、ことお義母さんのことになると、殻を閉じて心を見せません。
子供の頃からずっと一緒にいるわたしに対しても、見せません。誰にも。
大切に思っていないわけでも、もちろん、嫌ってるわけでもない。
だけど、実の母親がこれから死んでいくというときに、全く動揺しないというのもどうなのだろうと思います。
だけど、わたしとは違うんです。主人は。
何度も本人に言われて、わからないなりに少しはわかったのかもしれない。
悲しみを素直に出せない人というのも、世の中にはいます。
そして、主人と義母には事情がある。
わたしはそれだけに、悲しみを表せない清ちゃんのことが心配でした。
このまま泣けずに見送ってしまうのではないかと。2人が永遠に別れてしまうのではないかと。
お互いに想い合ってるはずなのに、わたしはそれぞれと時を一緒に過ごしていて感じている。2人ともお互いを想っています。それなのに、2人にはずっと不思議な距離がある。最後の最後までぐっと近寄らない何かがあります。
その何かがあるままで、透明な壁のようなもの。
2人が離れてしまっていいのか、ずっと気に病んでいました。
気に病んでいたけれど、ずっと若い頃に、まだ主人と結婚していなかった頃に、わたしは彼の心に立ち入ろうとして、拒絶されたことがある。
わたしと主人は全然違うと言われた。だから、わたしに彼の気持ちはわからないんだって。あのとき、好きな人のために何もできない自分がとても悲しかった。
そんなぶつかりあいをそれからも何度もしてきた。ぶつかり合いながらお互いを前よりはわかっているのだと思います。だけれど、根本的には2人のためにわたしは何もできないのです。今でも。ただ、そばにいるだけ。主人がそばにいられないときには、主人の代わりに義母のそばにいます。
義母が死に向かう時に、その日が近づけば近づくほどに、わたしは半分あきらめていて、半分のわたしがまだ焦っている。
このままでいいのだろうか?
彼をわたしの側へひっぱりたい。もっと、最後なんだから遠慮しないでお義母さんにぶつかってほしい、そう思います。自分が自分の母にしてきたように。
「お義母さん、せいちゃん空港着いたって。うちに寄らずにそのまま一回病院来るって言ってました。」
わたしがそう言うと、義母はまっすぐにわたしを見つめました。
「なっちゃん。」
「はい。」
「お願いがあるの、聞いてくれる?」
「なんですか?」
「清一が来たら、大事な話があるの、2人にしてくれないかな?」
義母は真面目な顔をしていた。
「あ、はい。」
「それとね……、申し訳ないんだけど、病室の外で、わたしたちが話している間に間違っても誰も入って来ないように、見張っててくれないかな?お医者さんとか看護婦さんとかも出直してもらってほしい。」
「え?」
わたしはちょっと驚いて、義母の顔を見ました。なんとなくわかりました。
なんとなく……。お義母さんは、本当にとても、2人にとって大事な話をしたいのだってことが。
「わかりました。」
「ごめんね。変なこと頼んで。」
そして、主人が来て、わたしは入れ違いにそっと外へ出ると、廊下の椅子に座った。
どのぐらい経ったでしょうか?そんなに長い時間ではなかったと思います。
主人が病室から出てきて、わたしを見つけて言いました。
「こんなとこにいたの?」
「せいちゃん……」
「どうしたの?お腹でも痛いの?」
いつもの主人でした。主人でしたけど、目が少し赤かった。
ああ、この人きっと、やっと泣けたんだと思った。
やっと、お義母さんの前で……。
「お話、済んだ?」
「え?」
「お義母さんが、せいちゃんと大事な話があるって……」
「ああ……。うん。済んだ。」
少しだけ笑った。すっきりとした顔をしていました。
なんとなくわかった。わたしが心配していたこと。このまま2人が離れてしまっていいのかと心配していたこと。それが、もう、心配しないでもいいのかもしれない。
よかった。心からそう思った。よかった。
「なつ……、あのさ」
「なに?」
「少し寄り道してから帰っても平気?子供達。」
「ああ、大丈夫だと思うけど……」
「お父さんとお母さん、ちょっと遅くなると思うから、先にみんなでご飯食べててね。」
千夏に連絡を入れてから、車に乗る。せいちゃんが運転しました。
運転しながら主人はしばらく話しません。
怒ってるわけでも、悲しいわけでもない。それはわかっていた。だから、ただ窓の外を流れる景色を見ていました。空がだんだん夕闇に変わっていくのを。
「太一が誰に似ているのかわかったよ。」
夫の声に彼のほうを見る。運転中の横顔。
「太一が?」
あの子が生まれてからずっとわたしたち夫婦の間で疑問だった。あの子、せいちゃんにもわたしにもなんか似てなくて。
「僕のお父さん。」
「え?似てないよ。」
お義父さんの顔を思い浮かべた。似てないよ。
「死んでしまったほうの僕のお父さん。」
初め、何を言われたのか分からなかった。知らなかったんです。この人にはまだ秘密があったのか。一緒にいて、妻としてそばにいて、長く近くにいて、知らなかった。
それも、こんなおっきな秘密。
仰天しました。
「ごめん。僕の本当のお父さんは中條拓也じゃないんだ。君に話せてなかったんだけど。」
「死んでしまった人って……」
「母さんの一番目のご主人」
そうだったんだ。
義母の顔が浮かんで、そして、穏やかで優しい義父の顔が浮かんだ。
義父はあるとき、義母と別れてしまった。離婚の理由を詳しくは知りませんでした。
義父はそんなに不実な人には見えないのに、義母がいるのに浮気をして外に子供を作っていた。義母はそれでも義父を憎んでいるようには見えず、今でもたまに折に触れて顔を合わします。お互いに親しみを持っているのが伝わる。
別れた後も、本当に大人のカップルだなと思っていた。
本当は、こんなにいろいろな複雑な事情があったんだ。義母と義父の間には。
「ごめん。怒った?」
「いや、怒ったというか……。びっくりした。」
「君に僕の本当の父親が父さんじゃないというのが、父さんに悪い気がしてどうしても言えなかったんだ。」
「うん。」
「父さんは血のつながらない僕を大切にしてくれた人だから、どうしてもね、認めたくなかったんだよ。僕にもう一人父親がいるってことを。」
それを聞いて泣けた。
どうして、人はときどきこんなに温かいのでしょうか。お義父さんの温かくて深い愛情に打たれました。わたしはいつも主人のそばでお義父さんが彼に接するのを、それこそ子供の頃から見てきましたから。実の親子じゃないなんて信じられないくらい、いつも義父は主人に対して温かかった。
「どうして教える気になったの?」
「もしかしたら、今日、会ったかもしれない。その人の幽霊に。」
「ええっ?」
びっくりして涙が引いた。主人が楽しそうに笑う。
「そしたらさ、太一そっくりだったんだよ。謎が解けた。太一はおじいさんに似てたんだな。」
「そうなの?」
「うん。」
「どんな人だったんだろうね。」
「優しそうな人だったよ。ちょっと見ただけだったけど。」
「そうか……。あなたも太一も優しいものね。」
夜景が見える眺めのいい道を主人は運転していました。わたしはきれいな景色を見ながら思った。
わたしはごく普通に育ってきた。平凡な女です。せいちゃんとは小学生の頃からの幼馴染で、彼はずっと隣にいた。最初は幼馴染、次に恋人、そして夫として。
ずっと隣にいたのだけれど、わたしたちってどうしてこんなに違うのだろう?
こんなにいろいろ大変なことがあった人、わたしみたいななんの苦労もせずに育ってきた女、ちゃんと役に立ててるのだろうか?
だって、せいちゃんみたいな苦労をしたら、どんな気持ちになるのか、わたしは想像できないし、理解もできないな。
「なつ、ありがとう。」
「ん?なにが?」
「昔も今もそばにいてくれて。」
「え?なに?急に。やだなぁ。」
でも、いいのかもしれない。わたしみたいな女でも。
わたしができるのは、ただ、そばにいるだけ。
それでもいいのかもしれません。よくわかりませんが……。
せいちゃんはお盆休みが終わり、千夏と太一もそれに合わせて三人で香港へ戻っていきました。わたしは義母と静かな毎日を過ごしました。
そして、奇しくも太一に似た人を見ることができました。もちろん幽霊を見たわけではありませんよ。古いアルバムの中の写真を見せてもらった。
義母は、いよいよとなってきたときに、家にあるアルバムを持ってきてほしいとわたしにいいました。ほとんどが最近旅行へ行って撮りためたものだったんですけど、一つ古いアルバムがあった。
「なっちゃん、ちょっとこれ見て。」
義母がいたずらっぽく開いて見せた一枚。
「え?これ?」
せいちゃんが言ってたこと、本当。太一がいると思った。赤ちゃんの頃から育ててる親のわたしが言うのだから、本当です。そっくり。
でも、その写真は古いし、その写真の中で、若い頃の義母と義父と並んで笑っているその男の人は、中学生ではない。大人の男の人です。
「清一の血縁上の父親。わたしの一番目の夫です。」
アルバムをめくっていくと、その他にも何枚か三人で映っている写真が出てくる。
どの写真でも義母は義父の隣ではなくその男の人のすぐ横に寄り添って、そして、まるで太陽のように明るい笑顔で笑っていました。
「三人で仲良かったんですね。」
「拓也さんはね、親友だったから。それこそ、清一となっちゃんみたいに幼馴染だったのよ。」
「へぇ……」
それからちょっとしんみりした顔になった。
「今になったからわかるけど、わたし、拓也さんに本当につらい思いをさせたのよね。ただ、2人には悪いけど……」
「悪いけど?」
義母はいたずらっぽく笑った。
「わたし、三人でいるのが好きだったのかも。それぞれと2人でいるのより。」
「え?」
「贅沢だよね。自分を大切にしてくれる人が同時に2人もいるなんて。」
「はぁ……」
しばらくぽかんとした後に、おかしさがこみあげてくる。2人でくくくと忍び笑いした。
「お義母さん、それは確かに贅沢ですよ。」
その後、ふと思い出す。
「あ、2人だけじゃないですよ。お義母さんには大切にしてくれる男の人が三人いましたよね。」
「え?」
義母はちょっとわたしを見て、それからああと言いました。
「すごいですね。三人も。羨ましいな。」
さすが美女です。わたしの憧れの人。
「なっちゃんは一人か。」
「はぁ、まぁ。」
ちょっと照れる。おかしなもんだ。もう一緒になって長いのに。
「清一がなんかひどいことしたら、わたしの名前を呼びなさい。化けて出てやるから。」
「もう、お義母さん……。」
笑った。笑ってしまった。
「あら、やあね、なっちゃん。わたし本気よ。枕元ぐらいには立てるわよ。きっと。」
ひとしきり笑った。笑いながら思う。
これがきっと義母の『明るい死』。
若い頃から身近な人の死を立て続けに経験して、自らも死のうとした義母。
でも、後半生では、強く明るく生きた。そして、周りの人を励ましてくれた。
死に瀕してまで、義母はわたしやわたし以外の人に力を与えてくれるんです。
ふいに義母は真面目な顔に戻った。
「なっちゃん、清一と結婚してくれてほんとにありがとう。」
「なんですか?お義母さん、急に。」
「あなたがそばにいてくれなかったら、わたしと清一はきっと会えない親子になっていたと思う。生きながら会えない親子に。」
「いや、わたしなんてべつになにも。」
驚いた。恐縮です。お義母さん。
「いいや、違う。これは本当よ。小学生くらいの小さい頃からずっと、なっちゃんは清一のこと支えてくれてるの。」
義母の真面目な目を見る。わたしの好きな人とよく似た目を。
「清一はなっちゃんがいないとだめだったし、これからもだめなのよ。だから、これからもよろしくお願いします。」
心の奥の奥のほうがしんみりと温かくなりました。
生きてきて、こつこつと真面目に平凡に。たいしたことはしていません。わたしは。
でも、こんなふうに好きな人のお義母さんにこんなことを言ってもらえた。
幸せです。今日はとても幸せな日です。
「はい。お義母さん。約束します。これからもわたしはせいちゃんのそばにいます。」
そばにいることしかできない。きっと、わたしは。
それでも、そのことが彼を支えることになるのなら、ちゃんとそばにいます。
約束します。