5 勇気のいる行い
清一
そして、母は僕に向かってベッドに座ったままの姿勢で、両手を広げてこう、呼びかけた。
「おいで、清一。」
僕はもう、40を越していて、いい大人で、でも、世間一般から見たら、年をとっても母親が死に瀕しているようなときなら、子供に戻ったような気分で、或いは、病にかかった母親をいたわるような気分で、抱きしめあったりする、それはそんなに変なことではないのかもしれない。
普通の親子にとっては……。
でも、僕たちにとっては、僕たち親子にとってはそれは、とても勇気のいる行いだった。
「母さん……」
「死んでしまったらもう二度と、抱きしめることはできないから。」
そう言って母は僕に手を差し伸べたままで泣き出した。
「ごめんなさい。ごめんなさい。」
そして、壊れたロボットみたいに僕に向かって泣きながら謝り続けた。
「母さん、やめて。」
僕は慌てて、母を抱きしめた。母の宙に浮いていた手が、僕の体にしがみついた。
そして、僕の中の深いところにある古い扉が、軋みながら、開いた。
それは、大昔、なつと一緒に開けたことのある扉。
火がついたように泣いている男の子、鬼のように冷酷にママと言って寄ってくる男の子の手を振り払う若い頃の母。
その顔が初めて見えた。
その顔は、怒ってるのではなく、苦しく悲しそうだった。
「清一君、こっちいらっしゃい。」
おばあちゃんが、後ろから僕を抱きあげて抱っこしてくれる。
「よしよしよし」
僕の泣き声がだんだん小さくなる。
ここで終わりだった。前までは。
「清一」
おばあちゃんに抱きついてる僕の後ろから呼びかける声がする。
振り返ると、若い頃の母が笑いながら立っている。
「ごめんね。おいで。」
おばあちゃんが僕を母に渡した。
僕は母の柔らかくて温かい胸に抱かれた。
抱きしめられた状態で子供の僕が周りを見渡す。祖母がいてなぜか大人のなつもいて、父がいる。そして、もう1人……。
驚いた。
最初は太一がいると思った。
でも、その若い男の人は太一より年上で、父より頭一つ分くらい背が高い。
それは僕と同じくらいの背丈。
みんな、優しい顔で笑っていた。
体の感覚が戻ってきた。それこそ、水道の蛇口が壊れたみたいに、僕は泣いていた。そして、僕にしがみついたまま母も泣いていた。
子供に戻って泣くなんてよく使う言い方だけど、それは幼少時に僕のような経験をしたものにとっては生易しい行為ではない。深い海の底に沈みこんで戻ってきたみたい。深く息をすって吐いた。
「母さん、そんなに泣かないで。体に悪いよ。」
すすり泣く母の体を抱きながら、母はいつのまにこんなに小さくなったのだろうとぼんやりと思った。
「母さん、たしかに母さんは僕に普通のお母さんがくれるようなものをくれなかったかもしれない。でもね、普通のお母さんじゃあげられないようなものを母さんは僕にくれたよ。」
僕が体を離して、母の顔を覗き込むと母は僕を見た。
「本当にひどいつらい経験をしても、もう一度立ち直って生きる様子を見せてくれた。」
その姿は僕にたくさんの勇気を与えた。
「あのとき、どうしても、もう一度誰かを愛するのが怖かったの。また、失うんじゃないかと思えて……」
「うん。」
「ごめんなさい。あなたまで死ぬんじゃないかと、本当に怖かったの。」
「もう、いいよ。大丈夫だから。」
昔、母に傷つけられて、でも、僕が壊れてしまわないようにそれこそ命がけで祖母と父が守ってくれた。祖母が亡くなってしまった後には僕にはなつがいた。母にされたことばかりに執着していた僕は、母以外の人の思いに気が付いた。みんなは僕を支えて生かそうとしていた。僕は愛されていた。
下ばかり見ていた僕は上を見上げるようになった。
そして、母に向かい始めた。
一度壊れてしまったものは元には戻らない。戻らないのだけれど、少しずつ努力してそれでも僕は母とそれなりに分かり合えたのだと思う。
そして、最後の最後にお互いを抱きしめあえた。
昔、心療内科のお医者さんに言われたことがある。お母さんと向かい合いなさいと。でも、もしそれが無理なら、しょうがないと言われてた。
世の中には一生、母親と向き合えない人もいるのだと思う。そのまま、別れてしまう人も。
僕は母と僕が向き合うというのは、僕の心の奥底に封印された僕の憎しみを母に向けて放つことなのだとずっと思ってた。
でも、今日初めてわかった。
僕は母を憎んではいなかった。憎んだことなどなかった。
拒絶されてただ、悲しかっただけ。でも、親を憎むことなど僕にはできなかった。
ただずっと子供の頃から、母が愛していると思える証のようなものを必死に探していたのだと思う。どんな些細なものでも、偽物のようなものでもよかった。それが欲しかった。
母が僕を愛していると思える証が。
随分遅れてしまったけど、それが今日ちゃんと届いた気がする。
病室についている洗面所で顔を洗った。鏡に映る僕は、いつもの僕だった。少しだけ目が赤い。安心した。めちゃくちゃな顔で外に出られない。
「母さんも顔を拭いたら。」
タオルを絞って持って行ってあげた。
顔を拭き終わると、母は疲れてしまったのだろうか、ベッドに体を預けた。
「ねぇ、母さん。」
「なあに?」
「もしかして、僕の死んでしまったお父さんって、太一に似てるの?」
母は驚いて僕を見た。
「なんで?」
「太一に顔が似ていて、僕と同じぐらいの背丈。父さんより高い。」
「……」
「そうなの?」
「そうだけど、どうしてそんなこと言うの?」
僕は笑った。
「さっき、不思議な夢みたいなのを見て、その中にいた。その人。」
「嘘?」
「母さんの夢にも出てきたんでしょ?」
しばらく顔を見合わせたあとに、どちらともなくふふふと笑った。
「いやあねぇ、こんなときになって出てくるなんて。」
「幽霊みたいなものだったのかな?」
「どうなんだろ?でも、幽霊だったとしても、悪い幽霊じゃないわよ。」
「そうだね。」
母の幸せそうな笑顔を見た。
「どんな人だったの?」
「え?」
母はしばらくそうだねぇと言って考えた。
「ぱっと見た感じはね、平凡な普通の人なの。」
「うん。」
「でもね、すごく深い愛情を持っている人。人のことをよく見ていて、一番必要なときに必要な愛情をくれる。」
僕はぼんやりとその顔を見た。母の顔を。
「本当に好きだったんだね。その人のこと。」
初めて母が僕の本当の父について語るのを見た。
「亡くなったとき、辛かった?」
「とてもね。とても辛かったよ。」
母は遠くを見つめた。その横顔を僕は見つめた。
「でもね、変なの。」
「なにが?」
「柊二君が死んでしまったから、会えた人もいるのよ。だからどうだってわけじゃないけど……」
「けど?」
「失ったばっかりではなかったな。」
そう言ってこっちを見て笑った。いい笑顔だった。
母は、幸せだったのだと思います。不幸なことはたくさんあったけど、だけど、幸せなこともあったのだと思います。
「今でも、タイムマシーンがほしい?」
すると母はきょとんと子供のような顔に戻った。
「やあねぇ、難しい質問。」
「昔は欲しかったんだよね?」
「う~ん。」
母の答えを僕と一緒に待っている人がいる、そんな気がふとした。
僕のそばで気配を消して、静かにただ黙ってその答えを待つ人がいる。
「人生はやっぱりやり直しがきかないから、みんな一生懸命生きていくものではないのかな?失敗しないようにってさ。」
その答えを聞いて、僕と一緒に誰かがふっとほほ笑んだ気がした。
***
しばらくして母は眠ってしまった。なつを探して家に帰ろうとそっと病室を出ると、すぐ外の廊下のベンチになつがちょこんと座ってた。
「こんなとこにいたの?」
「せいちゃん……」
「どうしたの?お腹でも痛いの?」
なつは苦虫でも嚙みつぶしたような顔をして僕をじっと見ている。
「お話、済んだ?」
「え?」
「お義母さんが、せいちゃんと大事な話があるって……」
「ああ……。うん、済んだ。」
なつはまだ泣きそうな顔で僕を見ている。そして、その顔を見ながら僕は大事なことを思い出した。
「なつ……、あのさ」
「なに?」
「少し寄り道してから帰っても平気?子供達。」
「ああ、大丈夫だと思うけど……」
寝ている母さんを起こさないようにそっとなつの荷物を出して、僕たちは駐車場へと向かう。なつの家の車に乗ると、僕が運転をする。遠回りして見晴らしのいい道を行く。空がだんだん夕闇に変わっていく。
僕が話し出すまで、なつは僕の隣で窓から風景を眺めていた。
「太一が誰に似ているのかわかったよ。」
「太一が?」
「僕のお父さん。」
「え?似てないよ。」
「死んでしまったほうの僕のお父さん。」
なつが息をのんだ。その音が狭い車中に響いた。
「ごめん。僕の本当のお父さんは中條拓也じゃないんだ。君に話せてなかったんだけど。」
「死んでしまった人って……」
「母さんの一番目のご主人」
運転をしているので、なつの顔が見られない。
「ごめん、怒った?」
「いや、怒ったというか……。びっくりした。」
なつには、母さんが昔一番目の夫を事故で亡くしているという話はしてあった。
「君に、僕の本当の父親が父さんじゃないというのが、父さんに悪い気がしてどうしても言えなかったんだ。」
「うん。」
「父さんは、血のつながらない僕を大切にしてくれた人だから、どうしてもね、認めたくなかったんだよ。僕にもう一人父親がいるってことを。」
なつは何も言わない。言わないが、案の定、また泣いている。この人すぐ泣くんだ。
「どうして教える気になったの?」
「もしかしたら、今日、会ったかもしれない。その人の幽霊に。」
「ええっ?」
少し笑った。なつの声がおかしくて。
「そしたらさ、太一そっくりだったんだよ。謎が解けた。太一はおじいさんに似てたんだな。」
「そうなの?」
「うん。」
「どんな人だったんだろうね。」
「優しそうな人だったよ。ちょっと見ただけだったけど。」
「そうか……。あなたも太一も優しいものね。」
その後奥さんはまた窓の外をぼんやりと眺める。夜景が見える。流れていく。
「なつ、ありがとう。」
「ん?なにが?」
「昔も今もそばにいてくれて。」
「え?なに?急に。やだなぁ。」
久しぶりにこういう事を言うと、なつは照れてしまった。言わなくても思ってる。言わなくてもたぶん伝わってる。だから、言うのが少なくなったと思う。
でも、今日は言葉に出したかった。