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学校の昼休み。廊下ががやがやと騒がしい。
ペタペタと上履きの踵を踏んだとき特有の足音とふざけあうような男子生徒の声。
あ、侑希が来たなって、見なくてもわかる。
ガラッと教室の扉が開くと、少しだけ空気が変わるようなさざめきが聞こえた。友達とお喋りをしていた原田雫はちらりと教室の入り口を見る。案の上、そこにいたのは幼馴染の倉沢侑希だった。襟足が少し長めの明るい茶髪は、汗でしっとりと濡れている。
きっと、今日もバスケでもしてきたのだろうな、と思った。
「あっちー、クーラー弱くない?」
「アイス食いてー。さっき俺らが勝ったから帰りに駅前のジェラート屋で奢れよ」
「俺、今月金欠」
「えー、まじか。さてはデートだな!?」
「うるさい」
「いいなぁ、リア充は」
相変わらず、四人が揃いも揃って大袈裟な位に大きな声。その目立つ男子グループの中心にいた侑希の『金欠』の一言で、周囲にいた男子生徒は一斉に冷やかし始めた。
一瞬、侑希がこちらの方を向いたタイミングで目が合う。けれど、その視線はすぐに外された。
「侑希と彼女長いよな。もう二年?」
「…………」
「だって、付き合い出したとき、たしか中二だったよな?」
「……黙って」
侑希はあからさまに嫌そうな顔をして同じ中学出身の友人である阿部健太から目を反らす。そして、まだ汗で湿っている茶色の髪の毛をがしがしと掻いた。
「それよりさ、聡の話を聞こうぜ」
「お、賛成! 賛成!」
侑希の提案で、健太は同じグループの松本聡にターゲットを変えると、肩を組んで何やらコソコソと話し始める。残る二人も頭を寄せて話し始めた。
「倉沢くん、相変わらず彼女とラブラブなんだね。こりゃ、今日も女子生徒はガッカリだね」
前の席に座る親友の水野夏帆が、顔を寄せてこそっと話しかけてきた。侑希のグループのメンバーがさっきからチラチラこっちを見ている気がするけど、気のせいだろうか。
「そうだね」
「倉沢くんの彼女って他校の人じゃん? みんなどんな人か知りたがっているのに、なかなか教えてくれないらしいよ。噂じゃ、すっごい美少女だって」
「ふーん」
「もう。雫ちゃん、興味なさすぎ!」
「そんなことないけど」
手に持っていたシャープペンシルをクルリと回す。
勢いよくスピンしたシャープペンシルは、手からするりと抜けて床に落ちると一メートルほど向こうへと転がった。教室の床とシャープペンシルがぶつかるカツンという音が響く。
「お隣さんなのに、雫ちゃんも倉沢くんの彼女さん見たことないの?」
「うーん、ないと思う」
記憶を反芻したけれど、侑希と女の子が一緒にいるところなんて見たことがない。あの目立つ見た目の侑希がそんな美少女を連れていて、すれ違ったけれど気づかないなんてないだろう。だから、多分見たことないはずだ。
「なーんだ。つまんないなぁ」
「ご近所の幼馴染みなんて、そんなもんだよ。意外と会わないって」
不満げに口を尖らせた夏帆ちゃんを見て、雫は苦笑した。
侑希と雫は、自宅が隣同士の幼なじみだ。
幼稚園から中学校まで、全部同じ。
正直、侑希に彼女ができたと噂で聞いたときは驚いた。なぜなら、侑希と一番仲のよい女子は自分だと勝手に思い込んでいたから。
それは、中学二年生のある日だった。夏休み明けに学校に行くと、血相を変えたクラスメイトが走り寄ってきた。
「ねえ、雫ちゃん! 倉沢くんの彼女ってどんな人?」
「侑くんの彼女?」
──侑くんに彼女なんていないと思うけど。
雫は意味が分からず首を傾げる。
「なんか、倉沢くんが夏休み中にショッピングモールで会った女の子と付き合い始めたって」
「え? そうなの?」
「そうだよ。雫ちゃん、倉沢くんと仲いいのに聞いてないの?」
友達は拍子抜けしたような顔をした。
そこからの話の内容はよく覚えていない。ただ、とてもショックを受けたのは覚えている。
侑希とは家がとなり同士なので、夏休み中も何回か顔を合わせる機会があった。けれど、侑希はそんなこと、一言も言っていなかった。
いつも一緒だと思っていた侑希がいつの間にか一人で大人の階段を上ってしまったような気がして、置いてきぼりをくらった子供のような寂しさを感じた。
それに、女子では自分が一番侑希と仲良しだと思っていたのに、何も知らない間に周りのクラスメイトは当たり前のように知っていて、仲がいいと思い込んでいたのは自分だけだったのだと思い知らされた。
自宅から少し離れた場所にあるこの私立さくら坂高校に入学したとき、高校こそは絶対に侑希と違うと思っていた。なぜなら、侑希はすごく成績がよかったから、県下一の難関県立高校に合格間違いなしだと誰もが思っていた。
けれど、ふたを開けたらなんと高校も一緒だった。
入学式で「よう、雫!」っと声を掛けられたときはものすごく驚いたのを覚えている。なんでも、県立高校の入学試験の日に高熱を出して入試を受けられなかったそうだ。本当に気の毒だと思う。
キーン、コーン、カーン、コーン、と予鈴が鳴る。
この後の五時間目は苦手な数学Ⅰだ。
雫は机を漁るとプリントを取り出して、小テストの予習のために目を通し始めた。けれど、妙な視線を感じて顔を上げる。前の椅子を反対向きに向けたまま、夏帆ちゃんがまだ何かを言いたげにじっとこっちを見つめていた。
「夏帆ちゃん、どうしたの?」
「雫ちゃんはさー、どんな人が好みなの?」
「好み?」
「うん」
好み? きっと、夏帆ちゃんが聞いているのは異性の好みのことだろう。
突然の質問に目をしばたたかせた。
そんなこと、あんまり考えたことない。
「うーん、わかんない」
「えー。でも、誰でもいいわけじゃないでしょ?」
「それはそうなんだけど……」
「じゃあ、どんな人?」
夏帆ちゃんは興味津々な様子で追及してくる。雫はうーんと眉を寄せて宙を見た。それは『タイムマシンを作った未来人はなぜ過去において確認されていないのか』という質問と同じくらい難しい。つまり、回答不能ということだ。
「優しくて」
「うん」
「かっこよくて」
「うん」
「頭がいい人?」
「…………。なんで、疑問形?」と夏帆が苦笑する。
だって、わからないものはわからないんだもん。
「急にそんなこと聞いてきて、どうしたの?」
雫は逆に夏帆ちゃんに聞き返した。
夏帆ちゃんの恋バナを私が聞くことはたくさんあっても、こっちが聞かれることは殆どなかったのだ。いつも聞き役だったのに、珍しい。
夏帆ちゃんはよくぞ聞いてくれたとばかりににんまりとして、雫の耳元に口を寄せた。
「聞いて。私ね、彼氏ができた」
「うん?」
「彼氏ができたよ」
こそっともう一度囁かれたその言葉に、雫の思考は暫し停止する。
──彼氏? 彼氏……、彼氏!?
「ええー!」
思わず大きな声を上げてしまい、慌てて口を両手で塞ぐ。
クラスメイト達が何事かとこちらに注目するのを感じ、「あ、ごめん。なんでもないの」と胸の前でヒラヒラと手を振って誤魔化した。
「どういうこと?」
これは小テストの勉強をしている場合ではない。
夏帆ちゃんに顔を寄せて追求を開始する。
サッカー部のマネージャーをしている夏帆ちゃんは、入学当時から同じ部の松本聡に片想いをしていた。つい一週間前まで『今日の練習ではお喋りができたよ』なんて、お昼を食べながらきゃっきゃと報告してくれていたのに、本当にいつの間に!?
雫はチラッと侑希のいる男子グループを見た。
侑希とも仲のいい松本くんは、こちらを見て夏帆ちゃんと目が合うとニヤっと意味ありげに笑った。
──アイコンタクトなんて、なんか本物のカレカノっぽい! あ、本物なんだっけ?
「昨日、練習試合の帰りにね、たまたま二人きりになるタイミングがあったから。勇気だして告白したらオッケー貰えた」
夏帆ちゃんは雫の耳に口を寄せて、小さな声で説明する。
「そうなんだ……。凄い! おめでとう!」
「うん。えへへ、ありがとう」
夏帆ちゃんが照れ臭そうに笑う。
──告白。告白かぁ。『好きです』って好きな人に伝えるってことだよね。
彼氏どころか好きな人すらいない雫にとって、それは未知の世界。
──なんか、すごいなぁ。
嬉しそうにはにかむ夏帆ちゃんの笑顔はいつも以上に輝いていて、まるで太陽みたいに眩しかった。