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ヘルツを彼女に合わせたら  作者: 高津 すぐり
第三章
24/24

23.「Fear for Nobody」

 ♪♪♪


 スタジオは、いつもの番組収録とは、まるで別物の空気をまとっていた。ブース内の椅子の配置は通話用に組み替えられ、壁際には警察の通信機器がいくつも積み上げられている。シイナが電話口で言っていたとおり、これだけの機械をフルタがいる病院に運び込むのは、現実的ではないだろう。

 ハルカはブース内の椅子に腰を下ろし、机にノートを開いていた。その隣にはシイナ。対面には、カンペを抱えた交渉役の警察官――イシカワが座っている。ブースの外には、通信係の警察官とミキサーのミヤモト、そして私。

 その準備の間に、フルタに付き添っているイシイから私宛に連絡が来ていた。

「フルタさんと病院からそっちに向かう」

 打ち合わせに割かれた時間は、わずか五分。ホワイトボードに書き出された要点は、驚くほど少なかった。

 ――犯人の感情を刺激しないこと。

 ――指示がなければ、人質の存在に触れないこと。

 ――目的は説得ではなく、時間稼ぎであること。

 ハルカはそれらの言葉を、速記のような勢いでノートに書き写し、何度も反芻するように目で追っていた。シイナは腹を括った様子でイヤモニを装着し、ハルカの肩にそっと手を置いて、何かを囁いている。

 私は、イシイの到着を待ちながら、ただ、全てが上手く行くのを祈ることしかできなかった。

「警部。通信準備、完了しました。いつでも掛けられます」

「分かった」

 イシカワは短く答えると、目の前のハルカを見つめた。

「ハルカさん、よろしいですか」

 ハルカは深く息を吸ってから、大きく吐き出す。シイナの白く長い指が、ハルカの手をぎゅっと握っていた。

「……分かりました。お願いします」

 マイクに拾われたハルカの声は、驚くほど落ち着いていた。

 イシカワは小さく頷き、こちらを見て「掛けろ」と呟く。警官がボタンを押すと、電話のコール音が鳴り出した。

 ――プルル、プルル、プルル……。

 呼び出し音が、スタジオ全体に大きく響く。沈黙が長引くほどその音は重さを増し、こちらの胸を圧迫してくるようだった。

 五回目のコール音が鳴り終わる直前。ブツッという無愛想な音がして、回線が繋がった。だが、向こうからは何も聞こえない。

 数秒。いや、もっと長く感じられた沈黙のあと、ハルカが口を開いた。

「……もしもし」

 返事はない。もう一拍、間を置いてから、彼女は続けた。

「もしもし。私は『RAR-FM』のハルカです」

 その声は、いつもの番組で聞く明るく弾んだものとは違い、低く丁寧で慎重だった。しばらくしてからようやく、電話の向こうで空気が動く気配がした。

「……どういうことだ」

 立てこもり犯――サガワの声。ドスの効いた、渇いた男の声だったが、私が想像していたよりもずっと抑制が利いていた。

 ハルカが小さく息を飲む音が聞こえる。それでも、間を空けないように、彼女はすぐに言葉を継いだ。

「申し訳ありません。フルタは現在、病院から向かっているところです。もう少しだけ、お時間をいただけませんか」

「……俺は、アンタと話すことはない」

 冷たい拒絶。だが、それは想定の範囲内だった。

「サガワさん……」

 ハルカは怯まず、続ける。

「あなたは、『R−MIX』によくメールを送ってくれていましたよね」

「……」

 沈黙は続く。しかし、通話は切られない。

「フルタがパーソナリティをしていた頃から。私に代わってからも」

「……何が言いたい」

 ブースの中の誰もが、次の言葉を待って息を止めていた。ハルカが口を開いた瞬間、その空気が揺れなかったことで、彼女が覚悟を決めたのだと感じた。

「……ありがとうございます」

「は?」

 電話口のサガワの声色が、明らかに変わったのが分かった。この状況で、感謝されるとは思ってもいなかったのだろう。

「番組を引き継いだ時、私は、きっと多くのリスナーが離れると思っていました。あれだけ偉大なMCから、何の実績もない私に代わったんです。無理もないことです」

 ハルカは、ゆっくりと、言葉を選びながら続ける。

「それでも、あなたのように聴き続けてくれた人がいた。だから、今まで番組を続けられたと思っています。本当に……ありがとうございます」

 通話が始まって、四分。時計の秒針が、やけに遅く進んでいるように感じられた。イシカワが、会話の続行を促すカンペを掲げる。

「……もしよければ、教えてほしいことがあります」

「……何をだ」

 低く、警戒した声。それでも、拒絶ではなかった。反応のあったこと自体が、すでにわずかな前進だった。

「私は、ラジオパーソナリティとして、フルタには足元にも及んでいないと思います」

 ハルカは言葉を区切り、少し息を整えてから続けた。

『R-MIX』(この番組)を聴き続けてくれていたあなたなら、分かると思うんです。フルタと私の……一番の違いは、どんなところでしょうか」

「……」

 電話の向こうで、また長い沈黙が続いた。しかし、今度はハルカも言葉を発さない。ただじっと相手の反応を待つように、彼女の息の音だけが聞こえる。

 やがて、声が返ってきた。

「……アンタは、フルタと全然違う」

「はい」

「……アンタは軽いんだよ。なんでも、ポジティブに変えるだろ。どんなことにも『分かります』って言ったり、失敗も、悩みも、すぐ『頑張りましょう』とか」

 サガワの言葉は次第に荒れ、感情が剥き出しになっていく。

「そんな魔法みてぇな言葉で、人は変わんねぇんだよ! フルタは、生半可な気持ちでそんな言葉は使わない。一人一人の気持ちを向き合ってくれた!」

 スタジオの空気が、一気に張り詰める。

「……ありがとうございます」

 ハルカの声は、わずかに揺れた。

「それだよ!」

 サガワの火は消えず、激昂した様子で言葉を溢れさせた。

「何が『ありがとう』だよ。分かったような口を聞いて。誰も俺の気持ちなんか分かんないんだよ! ()()()()だってそうだよ! 腫れ物みたいにするだけ。そんなので分かった気になるなよ!」

 それは、まるで捨て身の猛り狂う獣のようだった。自分で自分を責めるような声をあげ、自らの状況を嘆いているようにも見えた。ハルカは言葉を返すのを躊躇ったが、すぐにまた口を開いた。

「確かに私は、フルタのように貴方に向き合うことはできていないかもしれません。貴方の気持ちは分からないかもしれません……でも!」

 今度はハルカの声が大きくなった。イシカワがカンペを選んで出し、シイナがハルカに何かを言っているが、彼女にはその言葉すらも聞こえていない様子だった。

 その時だった。

 スタジオの防音扉が、勢いよく開いた。ハルカを除く全員の視線が、音のした方へ一斉に向く。

 そこにあったのは、一台の車椅子と、その背後で把手を握るイシイの姿だった。車椅子に座っていた男は、明らかに健康体ではなかった。以前見た時よりも顔色は悪く、頬はこけ、病衣の上に無理やり羽織ったシャツが、やけに大きく見える。

 それでも、その表情には不思議な余裕があった。周囲の緊張とは無縁だと言わんばかりに、どこか飄々としている。

 フルタだった。

 ブース内のシイナが、言葉もなく「来て」と手招きをする。私と警察官が慌てて導線を作ると、イシイは軽く会釈をして、車椅子を進めた。

 シイナが扉を開けると、熱の中にいたハルカは、そこでようやくフルタに気づいたらしい。一瞬、時間が止まったように彼女の動きも止まり、そのまま言葉を失った。

 イシイは、車椅子をハルカの横へ寄せると、彼女のマイクの向きを、何も言わずにフルタの方へと変えた。

 フルタは、少しだけ前屈みになり、マイクに口を近づける。そして、低く、驚くほど穏やかな声で言った。

「うちの若いのが失礼しました。代わりました。フルタです」

 その声には、作った調子も、力みもなかった。ただ、そこに「居る」だけの声だった。

 電話口から、息を詰めたような音が聞こえた。

「……本物なのか」

「おいおい。病院でくたばってるところを、わざわざ車椅子押して来たんだぜ。疑われると、さすがに傷つくな」

 軽口のようでいて、語尾には棘がない。会話の空気が、わずかに緩んだのが分かった。

「名前で呼んでいいか。サガワさん。さっきの話、少し聞かせてもらったよ。俺と彼女は、全然違うって話」

「……あぁ」

「そうだな。俺もそう思う。人生経験が足りてないから、どうしても言葉に体重が乗らない。能力はあるんだけどな。だから、アンタみたいに放送を聞いて反応をくれるリスナーに鍛えてもらいたいんだ」

「……」

「……それで、どうして立てこもりなんてしちまったんだい」

 核を突くような質問に、フルタの前のイシカワが目を見開いた。しかし、フルタは質問を続ける。

「何か、理由があったんだろ?」

 電話の向こうで、呼吸の乱れる音が聞こえた。

「……俺は……」

「ゆっくりでいい」

 フルタは即座に遮った。

「今は、話せるところまででいい。分からないなら、分からないって言ってくれていい」

 説得でも、誘導でもない。相手に「主導権」を返す話し方だった。

「……俺、もう……どうしていいか、分かんねぇんだよ」

 声が、崩れた。

 フルタは何も言わず、ただ静かに頷いた。そして、その皺だらけの手が、ハルカに「下がれ」と伝えるように、小さく振られる。シイナは黙ってハルカの手を引き、ゆっくりとブースの外へ導いた。ハルカは、何度も振り返りながら、通話を続けるフルタの背中を見つめていた。その背中は、ひどく小さく見えた。それでも、スタジオの中心は、完全に彼のものになっていた。

 

 シイナは、ハルカを連れたままブースから出ると、私も呼んでスタジオからも出た。重厚な扉が静かに閉まる音とともに、緊迫した世界から切り離された感覚があった。

 すると、シイナはハルカの体を思いっきり抱きしめた。

「……お疲れ様。よくやったね」

 ハルカの目から、涙が溢れた。その姿は本当の母娘のようで、つられて私の瞼も滲み始めていた。

 シイナはハルカの背をポンポンと二回叩くと、引き離すように彼女の肩を掴んだ。

「労いたい気持ちでいっぱいだけど、下の四〇一スタジオ行ってスタッフの指示を受けて。今、トミーさんが前番組から代打でつないでくれてるから引き継いで」

 十四時十五分。既に本来の『R-MIX』の放送時間に突入していた。

「はい」

「……分かった」

 ハルカは、うつむき加減で肩を震わせながら、私に続いて小さく言った。彼女の頬には、涙の跡が残っている。

「後は、フルタ君と警察がどうにかしてくれるわ」

「シイナさんは、まだこっちに残るんですか?」

「えぇ。彼の最後の大仕事を見届けるわ」

 シイナの体は、もうスタジオの方に戻ろうとしていた。

「フクチ君、ハルカをよろしくね」

「はい」


 私とハルカは、フロアの端にある階段から下の階のスタジオに移動する。

「……説得、上手くいくかな」

 道中、隣でハルカがポツリと呟いた。

「君の一番尊敬する人だろ? 大丈夫だ」

 私が何の根拠もない返事をすると、ハルカは目を丸にして少し驚いた。

「……うん。やっぱり敵わないな」

「十分すぎるほど、凄かったよ。君も。君がサガワと電話して粘ったから、フルタさんまで繋げたんだ」

「……ありがと」

 シイナに言われたスタジオの扉を開けると、3人のスタッフが座っていた。それから、ブースの中のトミーがこちらに気づいて安堵したように笑った。

 「やっと来ましたね。次のCM明けからすぐトミーさんと代わってください。ランキング紹介の10位から行きます。私は普段の放送を知らないから、君も何か必要があれば指示を出して」

 シイナの代理と思われるスタッフがハルカと私に言う。非常事態にも関わらず、落ち着き払っていた。

 その空気で目を覚ましたのか、ハルカは両頬をパンと叩いた。 頬に赤みを走らせた彼女の瞳には、先ほどまでの迷いや恐れは消えていた。

「はい!」

 ハルカが快活な声を出すと、大人達も頷き返した。

「さぁて、CMを挟んだ後、皆様お待ちかね、()()にバトンを渡したいと思うよぉ。土曜の午後も最後まで元気に行きましょ」

 トミーの朗らかで丸い声が、スタジオのスピーカーから響いていた。

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