6.傷だらけの大男
暖かな風が短い自分の髪を撫でる。その感覚が気持ちよくて、歩は思わず目をつむった。春は好きだった。街を彩る花々は見ていて楽しかったし、花粉症でもない。何より歩にとって、この気温はとても心地の良いものだった。
「相変わらず黄昏てんなセトム」
小さな橋の途中、流れる川を目で追いながら、同級生、高梨シオンが声をかける。優しそうなたれ目以外には特に印象的な部分の無い、ごく普通の少年だ。
「遅かったね、シオン」
歩は振り返り、笑顔を作る。
歩が兵庫県豊岡市に引っ越してきて、一ヶ月と半月、いつの間にか入学式から十日以上も経過していた。それなのに、歩にはこちらでの日々が日常と化していた。恐らく、これはシオンのおかげだろう。
「おぉ、追加の課題渡されちった」
「課題くらいちゃんとやってこなきゃ駄目だよ」
「わかってるって。セトムは心配性だな」
シオンは、歩が引っ越してきてからの始めての友達だった。入学式の日、席が前後だった事もあり、歩に声をかけてくれたのだ。引っ込み思案な歩は最初こそ戸惑ったが、何回か声をかけられるうちに、今では下校を共にするほどの仲となっていた。
それにしても、最初の課題くらいはしっかりこなしてほしいものだ。歩は呆れたように目を細めた。
「さ、そんな話は良いから行くぞー」
「あ、待ってよー」
先に駆けていくシオンを追い、橋を渡る。見渡す限り一面の田んぼの真ん中を、歩はシオンと並んで歩いた。種類もわからない様々な鳥たちが群れをなして空を飛んでいる。よく見れば、足元では蟻が何かを巣へと運んでいた。自分が住んでいたところよりもよっぽど田舎だ。色々な場所に視線を向ける度に、歩はそんな事を思っていた。
すると、突然シオンが止まった。
「セトム」
今更だが、セトムというのは歩のあだ名だ。瀬戸歩、だから文字ってセトム。誰がどう見てもおかしいあだ名だが、歩は全然気にならなかった。他人にあだ名をつけられたのが、嬉しかったからだ。
「どうしたの?」
見るとシオンは一点を見つめたまま固まっていた。歩も、シオンの向いている方向に目を向ける。そこにあったのは、延々と広がり、少しずつこちらへ接近してくる大きな入道雲だった。歩は、生まれてから今まで、雲など気にした事は無かった。そのせいなのか、どんどん空を覆っていく大きな雲に一種の感動を覚えた。
そして、やはり感じた。ここは田舎なのだと。
「これは夕立の予感だ」
近々雨が降る。歩とシオンは駆け足に家へと急いだ。そのまま帰る予定だったが、シオンが家へ来いと言うのでお邪魔する事にした。
シオンの家へ行くのは始めてだった。結構広い、板を組み立てたような、昔ながらの家という感じがした。
「上がりなよ」
まだ出会って間もないが、シオンは歩を色々なところへ引っ張っていってくれた。行動力の無い歩には、それが何よりもありがたくて楽しかった。
「お邪魔します」
シオンは、少しだけ博臣に似ていた。だから、シオンと遊んでいるとき、まるで博臣と一緒にいるみたいで落ち着ちついた。歩の中には、まだ引っ越した事で浮き彫りになった未練が胸に残り続けていたから。
「俺の部屋突き当たりにあるから、先入っててよお茶用意してくるから」
「あ、うん、ごめんね」
言われた通り廊下を真っ直ぐ進んでいき、突き当たりの扉の前に立つ。扉には、シオンと言う名前の書かれた可愛いシールが張られており、自らの部屋だと言う主張の強さを感じた。ドアノブに手をかけてゆっくりと前に押す。
だが、開かなかった。
「あ、引くのか」
今度はゆっくり扉が開き、歩は中へと入った。だが、入ってすぐ固まってしまう。
「これ……」
「何入り口でつったってんだよ」
背後からの声に歩は人が一人通れるスペースを作る。
「随分、早かったね。ほら、あのポスター見てたんだ」
そう、歩は部屋に飾ってあるポスターを見入っていた。そのポスターには歩のとても気に入っている選手がでかでかと写っていたのだ。思わず頬が緩む。
「好きなんだクリスティアーロノナウド」
歩は、シオンがサッカーが好きだと言うことを知らなかった。思えば部活の話とかもしたことがなかった気がするし、スポーツの事など話題にもならなかった。だが最初にできた友達がサッカーを好きだったと思うと、歩は嬉しさに震えた。
逆もまた然り。
「セトムもサッカー好きなのか?」
「うん、小学校の頃ずっとやってたんだ」
「マジかよ、最高すぎる! じゃあ一緒にサッカー出来るんだ!」
「やったね、シオン」
喜びの声をあげ、跳び跳ねるシオン。もちろん歩も嬉かった。
「にしても、ノナウドが好きなんて陳腐だな」
「シオンもでしょ」
「あ、そうだった」
そう言って笑い合う。
中学からは部活動が始まる。小学校の時みたいなクラブ活動じゃなくて、その学校の代表として試合できるのだ。そんな舞台にシオンと立てると思うと、歩は夢でも見ているかのような気分になった。
「あ、忘れてた。麦茶、好きに飲んで良いから」
ずっと持っていた麦茶の乗ったおぼんをテーブルに置きベッドに腰を落ち着ける。七畳くらいの部屋だろうか、ベッドが置いてあるのにも関わらず随分と広く見えた。
「ポジションは?」
シオンの輝く瞳に、歩もつられてしまう。
「リベロ!」
「え、リベロ?」
歩のポジションを聞いた人は、大抵シオンのような反応をとる。当たり前だ。小学生からリベロを主にしている人などほとんどいない。歩は少しだけ誇らしげに胸を張る。
「俺のプレイスタイル上、そのポジションが適任だって監督が言ってくれたんだ」
「マジかよ……」
プレイスタイル上、なんて単語が中学一年生の口から出るとは思わなかった。シオンは苦笑した。
「でも、体力とか持つのか? 大変じゃねぇの?」
リベロは、グラウンドの全域を行動範囲にしなければならない。余程の体力と知識がなければ務まらないはずだ。
「そんな事無いよ、博臣の方が試合中ずっと走り回っても疲れてなかったし」
「博臣、が誰かはわからんが、お前のチームわりと強かったのか?」
「県大会負けちゃったけどね」
「神奈川がレベル高いのか!?」
どんどんテンションの上がるシオンをなだめるように両手を前に出す。
「悪い、つい熱くなっちまった」
その気持ちは歩にも十分理解できた。好きなものについて語るとき、人はどうしてもその言葉に熱を持たせてしまう。歩でさえもサッカーを語るときは少しだけ饒舌になっていた。
「良いよ、気持ちわかるし。それよりシオンはどこやってたの?」
「俺はフォワードかな、やっぱサッカーって言ったらシュート撃ちまくりたいじゃんかさ!」
立ち上がり、ボールを蹴るような仕草を見せるシオン。対し、歩はその蹴られたボールを片手で取ったかのような動きをしてそのまま寝転がった。
「前衛向きの性格してるもんね」
「それはどういう?」
「強気、無鉄砲、攻撃力高め、馬鹿」
「馬鹿とはなんだ馬鹿とは」
寝転がった歩の腹にシオンが蹴りを入れる。もちろん本気で蹴られているわけではないが、地味に痛かった。
「ごめんごめんって」
歩は笑いながらその脚を止めさせる。今まではちゃんと見たことが無かったが、確かにシオンの脚はスポーツをしている人の脚だった。
ふくらはぎを見ながら、歩は一人納得した。
「何俺の脚見ながら頷いてんだよ」
「シオンの細い脚を哀れんでいたんだよ」
「何だと!?」
冗談を言い笑い合う。襲いかかるシオンの脚を腕で防ぐ。そうやって俺たちは、しばらくの間じゃれあっていた。
この時は、これから起こる悲劇なんて想像もしていなかった。シオンの身に降りかかる刃に気づきもしなかった。
歩の通う豊岡中学校の部活動は、一年生の入部許可は五月から降りることになっていた。そのため、歩もシオンも四月中は基本的には放課後は残らずに真っ直ぐ帰路へと向かっていた。たまに公園で遊びのサッカーをしたりもしていたが、何せ二人だ。少数でやるサッカーには限界があるため、結局力を持て余す日々を送っていた。
「だが今日からは違う!」
シオンは突然立ち上がり歩を指差した。
「どうしたの、急に」
「今日は五月一日、つまりは部活動の参加が許される日だ!」
歩はおろか、他の生徒たちの視線までもがシオンへと集まっていく。ここは学校、歩とシオンのクラスの教室だった。大袈裟なシオンの行動に、歩は恥ずかしくなって顔を赤くした。
「声が大きいよシオン。みんな見ちゃってるよ」
「他の人なんてどうでも良いだろうが。俺たちの部活動が始まるんだ!待ってろよ青春、俺が必ずサッカー部のエースになってみせる!」
そう言って鞄を掴むと、勢いに任せて教室を飛び出した。あんな調子では一人で行かせるのは心配だ。歩も鞄に筆記用具を放り込み掴むと、シオンの後を追うように走り出した。
サッカー部の入部希望者は、部室に集合と言われていたので歩は部室へと向かった。どれだけ急いで行ったのか、その道中にシオンは見当たらず、そのまま部室の前へとたどり着く。
「全く、勝手にどんどん行っちゃうんだから」
中に入ろうとするが、歩はそこで固まった。今から歩が入ろうとしているのは、自分の部屋やシオンの部屋ではない。サッカー部の部室なのだ。
人見知りで臆病な歩は、知らない人の、しかも歳上の集団の中に一人で入るなんて事は出来なかった。足が震え、ドアに触れようとした手が離れていく。
今日のところは引き返して、また明日シオンと一緒に来れば良いや。そんな思考が働き振り返ろうと……
「何してんだよセトム?」
「うをぉー!」
背後からの声に歩はドアへ思いっきり体当たりしてしまう。振り返ると、そこには先に行っていたはずのシオンが立っていた。トイレにでも行っていたのだろうか。
「驚きすぎな……」
すると、部室の扉が開かれた。内開きだったドアは歩を見捨て、大きく開く。もちろん歩はそのまま中へと倒れ込んだ。最悪の展開だ、そう思った。
中にいる部員たちは、各々驚きや不安がる声をあげ歩に注目する。その中でも、歩の視界に一番最初に入ったのは、背の高い眼鏡の青年だった。
「き、君、大丈夫かい?」
差し出された手を掴んで、ゆっくり呼吸をしてから青年の目を見る。それから頭を下げた。
「……あ、ありが……とう、ございます」
「大丈夫かセトム!」
始終、目を点にして見ていたシオンが、我にかえったように歩へと寄る。だが、歩にはその声さえも聞こえていなかった。緊張と不安と恐怖で頭が真っ白だったのだ。
「二人は、入部希望者なのかな」
青年は歩とシオンの顔を交互に見ながら問う。
とても話せる状態じゃない歩を見て、シオンは口を開いた。
「あ、そうです。俺は一組の高梨シオンで、その今正気じゃない方が同じく一組瀬戸歩です」
青年はその言葉に頷くと、椅子を引っ張り出し歩をそこへと座らせた。そしてシオンと向き直る。
「そうか、今年の入部希望者は君たちが始めてだ。歓迎するよ。僕はサッカー部部長の田嶋真だ。わからないことがあったら、何でも質問してくれ」
「あ、はい!」
「今日は部員が揃ってるから一応名前紹介してくな。右から、潮田、中野命、上原、垣根、宮崎、福岡、山城、中野雄大、工藤だ。今、全員覚える必要はない。一緒に練習していくうちに少しずつ覚えてもらえればそれで良い」
優しい口調で丁寧に説明してくれる部長にシオンは少しだけ安心を覚えた。
「だが俺の名前だけは覚えとけよ」
けれど抜け目はないらしい。
「俺も副部長なんで一応、中野雄大。中野の片割れだから覚えとけよ」
何を言っているのかはさっぱりわからないが、どうやら中野雄大と名乗る兄貴分らしき人が副部長らしい。シオンはすぐに脳内にメモを取った。
「うちの部活、中野が二人いるんだ。命と雄大、だからこいつらはお互いに片割れとか言ってるんだよ」
苦笑い気味に真が答える。やはり意味はわからない。
「あ、あの……」
全員の視線が声の方へと向く。
どうやら、歩が落ち着いたらしく、恐る恐るといった様子で手を上げていた。まるで小動物だ。
「先程は醜態を晒してしまってすみませんでした。今日から部活に参加させていただく瀬戸歩と申します。何卒宜しくお願いします」
「めっちゃ固い!」
部長の一言を区切りにそれ以外の全部員は凍りついた。とても中学一年生とは思えない重苦しい言葉遣いに、引いたのだ。
「あ、歩くん」
その空気を切り替えるべく雄大が、恐る恐る手を上げる。
沈黙が支配する部室の中、歩は小動物のように震える体を右手で抑えると口を小さく開いた。
「はい」
「そんなに構えなくても大丈夫だ。俺たちは今まで歳なんて細かいこと気にしてサッカーした事ねぇし、もちろんこれからもそのつもりだ。下らん事でとやかく言うやつもおらんし、小さい事でぐちぐち言うやつもおらん。だからそんな震えてんなよ」
雄大の大きなゴツゴツとした手が歩の頭をかき回すように撫でる。その乱暴さは歩の短い髪を大きく乱すほどだったが、歩にはそれが心地よく感じた。不思議と、雄大に撫でられているうちに落ち着きを取り戻していった。
「ありがとうございます」
歩が雄大になついた瞬間だった。
「やっぱり雄大さんは兄貴分なんですね」
興味本意で発したシオンの言葉は真によって返される。
「いや、あいつ今日は新入部員がいるから格好つけてるけど、いつもは結構ひどいぞ? あれはマジ結構だぞ?」
「おいコラ真、余計なことを言うな」
否定はしないのか、と内心思いつつ二人のやり取りを苦笑して眺めるシオン。どうやら上下関係は緩いチームらしく、歩もシオンも、その点に関しては少しだけ安心する。
結局その日は二人以外に入部希望者は現れず、自己紹介が終わった後は普通に練習が始まった。最初はランニング、その後は単純なパス練習と障害物を使ったドリブル練習。パスからのシュート練習などを行った。だがそのシュート練習を行っていたときに、ある者が違和感を覚えた。
「ん?」
「おい、どうした垣根」
二年の垣根が、歩から受け取ったパスに何かを感じたようだった。その場で止まったまま動かない垣根に真が駆け寄る。歩は不安が襲ってくるかのような感覚を覚えた。自分が何かしてしまったんだろうか。そんな考えが頭から離れなかった。
「いや、三回目にして、めっちゃ取りやすいボール来たからビックリしちゃって」
「は? 何だそれ」
「歩がパスする側に回ってからこれで三周目なんだけど、三周目にして、俺の動きを完璧に理解したかのような綺麗なパスが来たんです」
真は異形を見るかのような目で垣根を見た。だが、垣根は至って真剣な表情だ。必死にこちらに何かを伝えようと、ジェスチャーまで使って体全体で何かを表現している。あの動きが何なのかは、誰にも理解はできなかったのだが。
「えっと、今までのパスって、来たボールに俺が合わせるのが普通だったけど、歩のパスって俺が変にタイミングを合わせようとしなくてもボールが持っていきやすい位置に丁度来てくれるっていうか」
「まさか、たまたまだろ?」
「いえ」
あくまで偶然、そんな真の言葉を切ったのはパスを出した本人、歩だった。
「僕は、垣根先輩の動きを捉えました。ボールを受けようとする意思のある行動をしてくれれば、動きを見ただけで狂うことなく完璧な場所にパスが出せます」
「そ、そんな馬鹿な話があるはずがない」
真には信じられなかった。中学一年生の四月、実質小学生とほとんど変わらない子供にそんなすごいプレイが出来るはずがない。
「本当です」
だが、歩も垣根も真剣だった。
それでも真にはそれが信じられなかった。だから、その真実を確かめるべくスタート位置につく。否、正確に言うのならば、彼らの間違いを浮き彫りにさせるべく行動に出た。
「じゃあ、俺にもやって見せろ」
「動きを捉えたいので二、三回やりたいです。全力でお願いします」
歩は即答した。
その自信に驚きつつも、真は頷き、歩にパスを出した。止まっている相手に真っ直ぐ転がっていく。歩はそのボールを視界に捉えつつ、真の走る速度と動き回りを見た。そして足元へと転がってくるボールをダイレクトで返した。ボールは真の軸足に当たり、そのまま振りかぶった真は大きく空振りをした。
「どうだ?」
真の言葉に頷く。どうやら真はわざと空振ったようだ。確かに変にボールに合わせて動かれるより、ボールに惑わされず自分の動きに忠実に動いてもらった方が参考になる。冷静な対応に歩は感謝の意を唱えた。頭の中で。
こんな事があと二回繰り返され、三度の失敗を経験した歩は太ももを叩いて不適に笑った。
「田嶋先輩の動きを捉えました」
その不適な笑みには、誰も何も言葉をかけられなかった。とはいえ、これで全てがはっきりするだろう。そう思い、真は四球目の球を歩へと送った。
結果から説明すると、歩の言葉は真実だった。走り出した真に蹴り出されたボールは真っ直ぐ真の足元へと入り込み、ダイレクトでシュートを打つのに最適なボール送りとなっていた。納得のいかなかった真は位置を逆にしたり、距離を伸ばしたりと様々な方法で歩を試したが、一度真の動きを捉えた歩は一度とたりともミスをすることは無かった。
最初こそ悔しそうにしていた真だったが、歩の言葉が偽りではないことを認めその上で改めて入部を歓迎した。
後日、新たな新入部員が三人加わり、豊岡中学のサッカー部の滑り出しは上々だった。元々仲の良いチームなのだろう、歩たち含む新入部員たちはすぐに馴染むことが出来、部活での日々は楽しいものとなっていた。さらに、歩とシオンの二人はその実力が認められ夏の大会でのレギュラー候補としてあげられるほどとなっていた。
そう、高梨シオンは驚くべき天才選手だった。決して威力があるわけではないが、完璧な駆け引きと狙いの良いシュートコースで百発百中ゴールを射抜く決定力。圧倒的足元の技術とセンスで相手を翻弄するドリブル。
博臣に似ている。今までも、歩はシオンに対し幾度と無くそう感じていたが、そのプレイスタイルを見た瞬間、それが似ているなんて生半可なものではないと気づくことができた。似ているんじゃない、同じなのだ。違う点と言えば見た目と言葉遣いだけ。歩はもう、シオンと博臣を重ねずにはいられなくなっていた。
日々は目まぐるしく過ぎていった。
太陽を憎々しく思う七月。夏の大会を前にして、歩たちは猛練習の日々を送っていた。
頬を伝う汗を腕で払い、ボールを蹴る。ボールを蹴っては、また滴る汗を払う。部員の中には、バテている者や熱中症になりかかっている者などがちらほらでていたが、歩とシオンにとって部活での練習はあまり苦では無かった。
「足が止まってるぞ如月!」
「は、はい!」
今年入部してきた如月門条ノ介は、サッカー未経験者だそうで、一番大変そうに毎日をこなしていた。正直、未経験者にやらせるようなメニューでは無いのだが、自ら選んだ道なのでかけるべき言葉はない。
重たそうに足を動かす如月を見ながら歩はそんな事を考えていた。
「あれれぇ? セトムさん足が止まってますよぉ? もしかして、もぉ疲れちゃったんですかぁ?」
如月に目がいって肝心の練習の方が進んでいなかったらしい。歩は振り返ると同時に声の主の頭にチョップをかました。
「いたっ!」
声の主はシオンだった。
歩は、もう一度シオンの頭を小突き先程のシオンの真似をして見せた。
「そんな訳無いじゃないですかぁ、あなたの目は節穴ですかぁ?」
「めっちゃムカつくなその言い方」
「でしょ、二度としないで」
「おーい、歩とシオン足が止まってんぞ! 罰走受けてぇのか!」
真の怒鳴り声を聞き、二人は顔を見合わせてそれぞれ自分の練習へと戻っていく。
その日は、練習が終わると部室でミーティングが行われた。集められた部員たちは各々自分の配置へとつく。その様子を確認した真は一同を見回した後ゆっくりと口を開いた。
「一回戦目の対戦相手が決まった」
部員たちが緊張した面持ちで顔を見合わせる。
「去年全国ベストエイトまで残った千河原中だ」
「せ、千河原だって!?」
過剰に反応したのはシオンだった。
「お、知っているのかシオン」
「いや、聞いたこともありません」
「なら黙っていなさい」
「はい」
意味のないやり取りを終え、真が資料を手に取る。
その後の真の説明をまとめると、大会には予選と本選があり、予選はブロックごとの上位二位が本選へと行けるらしい。一ブロックは四チームで総当たり。豊岡中学校のいるCブロックは千河原以外には特に名の立つチームはおらず、千河原だけに集中して戦えば本選へ行くのは余裕と言う話だった。
そんな単純な話なのだろうかと不安になる歩だったが、とりあえずは真を信じることにした。
「さて、初戦の相手も決まったところで、レギュラーメンバーを発表したいと思う」
レギュラー、つまりは試合をするに当たっての最初の十一人のメンバーを発表すると言う事だ。歩とシオンに緊張が走る。
だが、そんな緊張感もろくに味わえぬまま二人はレギュラーとしてそれぞれ選ばれる事となった。実力から言えば当然だったのだが、一年からレギュラーに入ることにどこか罪悪感を覚え歩は少しだけ縮こまった。
「もっと胸を張れよ歩。一年からレギュラーなんてすげぇじゃねぇかよ! 頑張れよ!」
雄大が歩と肩を組みながら豪快に笑った。そう言う雄大ももちろんレギュラーだ。
しかし、今回一年が二人入ったことによりレギュラーから外された先輩がいた。
「潮田、お前はいつでも出れるようにちゃんと準備しておけよ」
「わかってるさ」
三年の潮田だった。潮田は満面の笑みを浮かべ真に返していたが、その雰囲気はどこか寂しげだった。その事で歩は余計に申し訳なくなってしまう。
「おっと同情するなよ歩」
それに気づいたのか、潮田は右手を歩の前にかざし不敵に笑って見せた。
「お前の方が上手いのはみんなわかってんだ。お前がここで俺の事を可哀想なんて思ってみろ。ただでさえ三年ベンチで可哀想なのに、後輩に哀れまれたりなんかしたらもっと可哀想なやつになるだろうが。わかったか、絶対に可哀想とか思うなよ悲しくなるからな」
「やっぱり可哀想」
「おま、言うなって言ってんだろが!」
今回、歩はふざけて潮田に応答したが、やはり少し申し訳ない心が残っていた。先輩を差し置いて後輩が試合に出るなんて本来ならばあり得ない事なのだ。どうすれば良いのかはわからなかったが、歩はそれ以上は何も言わなかった。
見ればシオンも複雑そうな面持ちで地面を見ていた。彼も自分がレギュラーになった事を噛み締め、感傷に浸っているのだろう。
「セトム、お腹すいた」
違った。ただお腹すいてただけだった。
「確かに、もう遅くなってきたな。外も真っ暗だし、今日はこの辺で解散にしよう」
真の言葉に、皆は各々帰る支度を始める。ごちゃごちゃするのを避けるため歩とシオンは部室の端で少し待機していた。
「晩御飯何だろうな」
「本当にご飯の事しか頭に無かったんだ」
「当たり前だろ?七時だぞ七時、いつもならもう家についてる時間だ」
「えー、時間の問題じゃなくて、いつもご飯の事しか頭に無い気がするんだけどなー」
冗談のつもりで言ったのだが、そうなのか?と周囲の部員たちが反応してしまう。面倒な事になったので回答はシオンに一任することにした。
「実は俺、ずっとご飯の事を考えていないと死んでしまう病気なんです」
「その言い訳はひどい」
周囲から笑いが起こる。
ある程度の人が身支度を済ませたタイミングで歩たちも自らの帰る支度を始めた。とは言え、歩はミーティングの前にある程度の支度は済ませていたので、手に持っていたタオルをしまうだけだった。鞄を持ちシオンの元へと向かう。
同様にシオンもほとんど支度は終わっている状態だった。
「またお前か門条ノ介!」
真の声がして振り返ると、如月が床に散らばっているタオルやら何やらを拾っている姿が目に映った。というか本当に何をやっているのだろうか。真が怒るのも当然と言えば当然だった。
「す、すいません」
「歩とかシオンみたいにミーティング前に多少片しておけば今が楽だったんだろうが。お前昨日も同じこと言われてたじゃねぇか。学習しろ」
「はい」
如月の小さな背中が更に小さく縮こまっていた。
部室の鍵は部長が閉めてくれるとのことで、二人は帰る方向へと足を向けた。否、少なくとも歩はそのつもりだったのだが、シオンは校門の前で立ち止まった。
「帰らないのシオン?」
「ちょっとだけ待ってろ」
その意味はわからなかったが、シオンが言うなら、と歩も校門前で立ち止まった。
五分ほど経っただろうか、先程怒られていた如月が門を横切った。どうやらこちらには気づいていないようだったが、シオンはその背中に声をかけた。
「如月」
如月は体を震わせてゆっくりと振り返った。だが、シオンと歩の顔を見て安心したのか目を閉じてゆっくりと息を吐いた。
「聞きたいことがあるんだ。少しだけ、寄り道して帰ろうぜ」
シオンはそう言って歩と如月の手を引っ張った。この時感じたシオンの優しさに歩は心が安らぐのを感じた。
恐らくシオンは普段怒られてばかりの如月を慰めてやろうとしているのだ。慣れない環境下で頑張る如月を応援するために直接話す機会をもうけようとしているのだ。
歩は最初そう思った。
だが、学校から大分離れ、自分達の家の方向ともまた離れた場所にある小さな公園。その灯りに照らされて見えたシオンの表情で、その考えは間違いだとわかった。その顔は怒りに燃えていたから。
「単刀直入に言うぞ如月」
「う、うん……」
「お前、あいつらにいじめられてるんだろ」
シオンの一言で、歩の中に何かひびのようなものが入ったのを感じた。その正体が何なのか歩は知る由も無かったのだが、それはこれから確実に歩の精神を蝕んでいく事となる。
歯車がずれる音。三人はお互いに顔を見合わせながらしばらくの間沈黙に場を任せた。
だが、やがて耐えきれなくなったのか、如月は涙を流しながらその場に崩れ落ちた。
「おい、大丈夫かよ如月」
「……うぅ……ぅ」
シオンは如月の体を支え、ゆっくりとその身を起こさせた。
「落ち着いて話せ、な」
如月は、自身を落ち着かせるべく深呼吸をした。その様子を見ながら、シオンは優しくその背中をさする。だが、それを見ていた歩は何もすることができなかった。否、この時には、まだ何も理解できていなかった。
「怖かった……。高梨と瀬戸も、俺の事いじめようとしてるんじゃないかって思って、ついて行きたくは無かったけど怖くて従うしかなくて。でも、高梨はこんなに優しくしてくれて」
未だ涙は止まらず、だが確実に如月はシオンにそう伝えた。
「大丈夫、大丈夫だ如月」
そう言いながら如月の体を見る。間近で見て始めて気がついたが、如月の首には大きな痣ができていた。紛れもなく、これは暴力を振るわれた跡だ。シオンは唇を噛んだ。
「ありがとう、落ち着いてきた」
シオンは支えていた手を離し、如月と向き合う。
「話せるか、如月」
如月は頷く。
「じゃあいくつか質問するぞ。いつも、誰にやられてるんだ」
その時の事を思い出すように、けれど恐怖を圧し殺しながら如月は顔を上げた。
「部長と副部長以外全員」
その時、シオンは少し思い違いをしていた事に気がついた。帰る支度をしていた時に如月の私物を散らかしたのは部長なのではと考えていたのだが、どうやらそれは間違いだったようだ。
「先輩たちが僕のタオルとかを散らかしたせいで、僕は部長にまで怒られる羽目になって」
「いつからやられてる?」
「二週間前くらい。帰り道を歩いてたら急に後ろから殴られて、そのまま四人くらいに囲まれて暴力された。その日から今日まで毎日暴力受けてた……」
「もっと早く気づいてやれば良かった」
一度腰を落ち着けようとシオンは歩の方を見た。だが、歩は最初にこの公園に入ったときから全く動かずにその場に立ち尽くしていた。だから、その様子がおかしいことに気づくのに時間はかからなかった。
「せ、セトム?」
その声に反応し、歩は顔を上げる。その表情からは一切感情を読み取ることができない。どことなく感じた恐怖にシオンは身震いした。
「大丈夫か?」
それでも声をかけたのは、歩が心配だったからだ。だが、歩は一度目を閉じたあと、普段の表情へと戻った。
不安が引いていき、シオンは安堵に心を落ち着かせた。
「帰ろう、シオン」
だがその安堵も一時的なものだった。歩に言われた言葉の意味がわからず、シオンは目を点にした。
「今ならまだ間に合う、帰ろう」
「帰ろうって、如月はどうするんだよ」
歩の頬に伝う汗をシオンは見逃さなかった。
「知らないよ、助けて巻き込まれるなら逃げた方がましだよ」
「本気で言ってるのか?」
「本気に決まってるだろ!」
恐怖、失望、妥協、三人の心はそれぞれの感情を明確に形付けた。
歩は恐怖した。サッカー部の先輩たちがいじめを行っていたと言う事実に。逆らったら自分も標的にされるかもしれない不安に。
シオンは失望した。優しさを持っていると思っていた一人の少年に。いじめの手から救うために奮闘した自分を否定した、臆病な一人の少年に。
如月は妥協した。誰にもどうすることもできない事実に。自らを救ってくれない世界に。
「帰れよ」
だから、シオンは突き放した。
「な、何言ってるんだよシオン。お前も一緒に……」
「一人で帰れって言ってんだよ歩!」
歩は目を見開いた。出会ってから始めて呼ばれた自分の名前。だが、それは歩にとってとても寂しい、苦痛の出来事だった。
「後悔しても知らないから」
ずっとあだ名で呼んでくれた中学校生活での最初の友達。引っ越してきてから気づけば隣に居た博臣に似ている親友。そんな存在に名前で呼ばれ、歩は何とも表現しきれない感情になった。
公園を飛び出して真っ直ぐ続く道をひたすらに走り続ける。体力には自信がある。鞄を持ったままでも家まではこのペースで走り続けられるだろう。目をつむり、何も考えないようにしながら歩はひたすらに走り続けた。だが、その足は家までの中間地点くらいで止まってしまった。
疲れはなかった。だが、動かなかった。
汗が滝のように流れ続け、手からリズムを刻むようにこぼれ落ちるのがわかる。
そこで始めて、自分は逃げてしまったのだと、後悔の感情が押し寄せてきた。振り返るがもう公園は見えない。続くのは先の見えない真っ暗な道だけだ。
考えても仕方がない。やってしまった事は、もうやり直すことができないのだ。後悔しているなら、明日できることをしよう。もう一度、ちゃんとシオンと話をしよう。
「どうすれば良かったの、博臣」
今はもうそばにいない、かつての親友の名を呼び、歩は前へと足を進めた。
次の日、歩はシオンと話をするべく早くに家を出た。シオンが学校へと行ってしまう前に彼の家へ向かいたかったからだ。
本当は昨日、携帯で連絡を取りたかったのだが、既読がつかなかった。それでは仕方ないと、自ら動いているわけだ。
歩の家からシオンの家は然程遠くはなかった。10分ほど歩き続け、たどりついたシオンの家の前に立ち止まる。
その時、優しい風が後ろから通って行くのを感じて少しだけ感慨に浸る。まるで、自分のしようとしていることを後押ししてくれるようなそんな感覚だ。少しの間、動きが止まってしまうが、意を決したように歩はインターホンのボタンを押した。
「どちら様―?」
だが、声はインターホンの奥から聞こえてきた。見れば家の横、一人分通れそうな細い道に女性が立っていた。シオンの母親だ。
「おはようございます。シオンは居ますか?」
「シオンはさっき部長に相談があるからって学校に行っちゃったけど」
その時、具体的な理由があるわけではないが、何故か嫌な予感がした。恐らくシオンは、いじめの件について部長に相談しようとしていたのだろう。確か如月は、部長はいじめに関与していないと言っていた。ならばシオンの行動は正しいはずだ。だが、シオンのとった最善の行動が、どうしてか最善では無い気がして、その感情はやがて恐怖へと変わっていく。
「ありがとうございます!」
だから歩は、そう言って学校へと足を向けた。
「待って」
だが、そこでシオンの母親は何かを手渡してきた。
「これついでに持ってってくれる? シオン、忘れちゃったみたいだから」
小包に包まれたそれはお弁当箱だった。頷きそれをしまうと、歩はシオンの元へ急ぐべく足を動かした。
余計な感情が頭の中にはびこり、普段なら何でもないはずの道を長く感じる。息が上がり、学校に着く頃には少しだけ呼吸が苦しかった。息を整えるためにゆっくりと歩きながら大きく深呼吸する。
それを五度くらい繰り返した頃、どこからか声が聞こえ歩は立ち止まった。音を立てないようにし、静かに耳を傾ける。やはりどこからか声が聞こえてくる。
「体育館の裏の方から……」
少しだけ怖くなったが、ここまで来て引き返すわけにもいかない。シオンじゃなかったら颯爽と去れば良いだけの話だ。そう、自分に言い聞かせるように歩は一人頷いた。
「無駄な詮索なんてするからさ」
覗こうと思った矢先、そんな声が聞こえ思わず体が固まる。この声には聞き覚えがあった。真だ。
「残念だよ。君はとても素晴らしいプレイヤーだった。あんなのに構わなければ楽しくサッカーができたのに」
「ふざけるな! あれを見逃しながら楽しいサッカーなんて出来る訳ねーだろ!」
もう一つの声を聞いた瞬間、歩は体育館の陰から奥を覗きこんだ。そこにいたのは、真とシオンだった。
そこで一つの疑問が浮かび上がる。
確か、真は先刻のいじめには一切の関与していなかったはずだ。少なくとも如月の話では、そういう風に聞いていた。だがそれなら何故、今あの二人が口論になっているのだろうか。
「サッカーはな、お前みたいなクズがやって良いスポーツじゃないんだよ!」
シオンの叫び声を受け、歩の心が痛んだ。昨日まで、自分はいじめの手から逃げようとして、如月を見捨てようとしたのだ。シオンが歩に怒ったのも納得できた。
「くく、あははははは」
だが、そんな歩の感情とは対照的に、真は突然笑い始めた。
「まるでドラマの主人公みたいだねシオン」
そして、ポケットから小さな刃物を取り出した。名前は知らないが、百円ショップとかに売っている栓抜きやら何やら色々ついている小さなナイフだ。
「でもさ、部内の調和を乱そうとするやつは排除しなきゃなんだよね。だからさ、部活やめてよシオン」
そのナイフをシオンへと向け、目を細める。ヤバイ状況なのは誰が見ても理解できた。
「お前らがいじめをやめるまで、俺は部活をやめない」
「あっそ」
「シオン!」
そこで歩は飛び出した。恐怖は無かった。たとえ、ここで歩が刺されて死んだとしてもそれは歩にとって誇りになる気がしたから。シオンが殺されるなんてあってはならない事だと思ったから。
「歩! お前いつから!」
真が振り返る寸前、手に持っていたお弁当箱を彼の頭へと振り下ろす。鈍い音が響き、互いに怯む。だが、真はすぐに立て直すとそのナイフを歩へと向けた。反射でどうにか体を後ろへずらすが、勢いをつけたナイフは歩の左頬に当たり肉を引き裂いた。その瞬間は、不思議と痛みはなかった。
「やめろ!」
背を向けたのを良いことに、シオンは真を後ろから殴ろうとした。だが、声に反応した真は瞬時に振り返り、そこに突っ込んだシオンは彼の持っていたナイフに胸を貫かれた。
「え」
その声を発したのは真だ。
「ぁ、し、シオン! シオン!」
ナイフが引き抜かれ、シオンはその場に倒れる。歩はそんな彼の元へと駆け寄った。自分の怪我なんてどうでも良かった。
「シオン! 待ってて、今止血……」
制服を脱ごうとする歩の体を制止させる。身体中が熱を発しているのがわかる。口の中が血の味で満ちていく。だが、不思議と恐怖心は無かった。そんなものよりも、歩が来てくれた事実か嬉しかった。他の誰より、歩が、他の誰でもないシオンの元へ来てくれた。それが何よりも嬉しくてそれ以外は何も考えられなかった。
「歩、ありがとう」
「は、な、何言ってるの」
言いながら振り返る。だが、ナイフが落ちているだけで、そこにはもうすでに真の姿は無かった。けれどそれならそれでも構わなかった。
「昨日、あんなきつい事言って、ごめんな」
「何でシオンが謝るんだよ。どう考えても悪いのは僕でしょ。僕があの時シオンと一緒にいじめを止める方法を考えれば良かったんだ。そしたらこんなことにはならなかったのに……」
「こんな、の、全然、だいじょ、ぶ……」
シオンは歩の手を握った。けれど、その手には力を感じなかった。元気にあり溢れていたシオンからは想像もつかない事だ。
「来てく、れて、嬉し……」
「もう喋らなくて良いよ!」
「お前がいたから、俺はなりたい、俺に、な、れた……」
「喋らなくて良いってば!」
「一人じゃ……できない事、も、お前がいた、から……」
シオンの血で床が塗られていく。
もう助からないのは目に見えていた。
「歩」
涙がこぼれ落ちる。出会って三ヶ月。関わったのは短い年月だったが、兵庫に来てから一番同じ時を共有していた親友。止まらなかった。止められなかった。
「お前を、忘れない」
それが、シオンの最後だった。
シオンはもう、戻ってこない。
シオンはもう、戻ってこない。
あいつはもう、戻ってこない。
これは、後から真に聞いた話だ。
あの部活では、代々部内の調和を乱すものを追い出すという流れがあったらしい。先輩たちも、その更に先輩たちからその流れを強要させられ、今に至るというわけだ。
真は、表だったことは何もしていなかったが、裏で部員たちを指示したり、先生に勘づかれ無いようにするフォローや立ち回りをしていたらしい。
それを聞いた歩は、怒りも呆れもすることは無かった。否、最早何も思うことは無かったのだ。何をしたところで、何を思ったところであいつが戻ってくるわけでは無い。
小学生の頃は、当たり前だがこんな事はなかった。けれど、中学生に上がって、環境が変わってわかった。部活は危険だ。少しでも波を立てようものなら標的とされ、歳上の顔色を伺い続けなければならなくなる。部活なんかに入ったから、こんなことになってしまったのだ。大人しく公園で遊ぶ程度のサッカーをしていれば何も起きなかったのだ。
そう思えばそう思うほど、歩の心は締め付けられた。間違っていると否定されてるような、それが正しいと刻み付けられているような。
「大丈夫か?」
中野雄大。今回のいじめの件において、全くの無関与だった唯一の存在。あの一件が起きて以来、学年が違うにも関わらず毎日のように声をかけに来てくれた。
「大丈夫な訳無いよなぁ」
頭をかきながら苦笑いする。
歩は、顔をうつむかせ口を開いた。
「小学校の時」
どうでもいい話だし、興味もないだろうなと思ったが、雄大は真剣な面持ちで歩の顔を見ていた。歩は続けた。
「宮田博臣っていう神奈川での親友と一緒に高校でサッカーしようって約束したんです」
言葉がつまる。声が出したいのに、言葉を伝えたいのに、喉に引っかかるような感覚が邪魔をし、上手く話せない。
一度落ち着かせるように心臓に近い位置に手を当てる。
「元々、こっちでのお父さんの仕事が三年で終わる予定らしくて、高校生になる頃にはあっちに戻れるって言ってて」
「うん、うん」
「約束、してくれたんです。みんなが俺の事を忘れないようにって博臣が言ってくれた。でも、僕、こんなんじゃあ戻れてもサッカーなんて……」
「それは大丈夫だ」
少しだけ苛立ちを覚える。お前に何がわかるんだ。歩はそう言いかけてその勢いを殺した。
「一緒に部活に入る必要なんて無いだろ。同じ高校に行って、再会して、話せればそれで良いじゃねぇか。部活ってのは無理に入るもんじゃ無いからな」
「そういう、もんですかね」
「それに」
雄大は、思いっきり歩の肩を叩き満面の笑みを見せた。
「お前が強くなれば良いんだよ。誰も傷つけられなくなるくらい、強く、誰もを守れるくらい強くなれば、もうこんな悲しい思いはしない。そうすれば一緒に部活もできんじゃねぇか」
気付けは、歩は雄大の話を聞き入っていた。失うことが怖いなら、何も奪われない強さを手にいれればいい。そんな発送は歩の中には無かったのだが。
「できますかね、僕にそんなこと」
「できるだろ。ナイフを持った男に突っ込める勇敢なお前なら」
そうか、と空を見上げる。
たとえ歩が部活に入らなかったとしても博臣はきっと入るだろう。歩がいようがいまいが、危険なところは結局危険なのだ。ならば、歩が強くなって博臣を守ることができればもうあいつのようなやつを出さずにすむかもしれない。
「僕、強くなる」
「おう、その意気だ」
思えば、歩は雄大に助けてもらってばかりだった。雄大を見上げる。
「ありがとう、雄大さん」
「……別に礼を言われるような事はなんも」
すると照れたのか、雄大は顔をそらして小さく呟いた。
強くなる。
兵庫と別れるまで残り二年と九ヶ月。
歩の瞳にはもう、過去は映っていなかった。