表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
スタートライン  作者: 日向 奏
スタートライン
5/13

5.枯れない花

 光太郎と喧嘩したのは始めての事だった。光太郎はいつも他人の事を優先に考えているし、あんなに感情的になることも無かったからだ。

 だから、博臣はどうすれば良いのかがわからなかった。仲直りしたくても、光太郎の気持ちがわからない。だからと言って、ただ謝るだけで良いわけではないのもわかっている。そう考えると、上手いやり方が思い付かなかった。

 光太郎の気持ちを知りたい。知って、お互いに反省して、そして仲直りしたい。


「宮田、お前すごいな」


 あの時は気持ちが先走って喧嘩になってしまったが、それが落ち着いた今はちゃんとした話し合いもできるはずだ。


「宮田? 聞いてる?」


 博臣は席を立ち上がり、教室内をぐるりと見回す。すぐに目的の人物は博臣の目に留まった。博臣の気持ちなど知らずに、光太郎は自分の席であやとりをしていた。


「無視すんなって宮田!」


 急に大声を出され博臣は視線を落とす。

 朱音とは逆の隣に座るその男は、博臣の反応に満足したかのように笑った。


「ようやくこっちを向いたな」


「誰だあんた」


 ワックスで整えられた髪に、しっかりとした目鼻立ち。博臣はこの人物に一切の見覚えがなかった。


「まさか、冗談だろ? ずっと隣の席だったってのに」


 まさか、冗談だろ?

 そうオウム返ししてやりたくなったが、博臣は入学以来クラスでは朱音としか話していなかった。左隣ばかりを見ていて、右隣など見向きもしていなかったのだ。博臣に見覚えがないのも仕方の無いことだった。


「まあ確かに、宮田ずっと橋本の方を向いてたしな、無理もねぇか」


「悪いな、ずっと隣の席だったのに」


「いいや、じゃあ自己紹介するか。俺は諸岡李央、好きなチャーハンは玉子チャーハンだ。よろしくな」


「俺は宮田博臣、好きなチャーハンはキムチチャーハン」


 博臣は、李央が差し出してくる拳に自分の拳を合わせた。何とも癖が強いが中々に面白いやつだ。この癖の強さで何故、今まで彼の存在に気づけなかったのかが謎だった。


「ところで」


 李央の顔が不敵な笑みへ染まる。


「お前、理不尽な体罰教師を退職まで追い詰めたってマジ?」


「な、なんで俺がしたって知って……」


 身をのり出した博臣の口に人差し指を当てる。


「まあ待てって。俺さ、いろんな先生と仲良くやってんだ。だから先生しか知らないようなちょっとした秘密の情報とかも教えてもらえちゃうわけよ」


 博臣は開いた口が塞がらなかった。こんな簡単に情報が漏れてしまうなんて思わなかったからだ。先生たちの無能さに思わずため息が出る。


「心配すんなって、誰にも言わないから」


 そんな口だけの言葉信じられるわけ無いだろ。そう言いかけたが、喉に留め飲み込んだ。ここで何と言おうと結局は李央次第、博臣にそれをどうこう言う権利は無かった。それに悪いのは李央に流した先生たちだ。博臣は思わず歯軋りをした。


「ほ、本当に誰にも言わないから、そんな怖い顔すんなって」


 どうやら感情が顔に出ていたらしく、李央に盛大な勘違いをさせてしまったようだ。博臣は頭をかいた。


「いや、別に李央が誰に言うとかは問題じゃないし、怒ってないよ。勘違いしないで」


「ほ、本当かなぁ」


「問題なのは簡単に生徒に話す先生だろ。普通は個人の事なんて話さないと思うんだけどな」


 とはいえ、過ぎたことを気にしていても仕方がない。と博臣は切り替えた。


「んで、それが真実だとして、お前は何がしたいんだ?」


 やっと認めてくれたと言わんばかりに李央が満足げに頷く。


「俺は、どうやって証拠を掴んだのかが知りたいんだよなぁ。先生たちの話だと証拠になるには十分な写真を撮ったとかなんとかって話だけど。うん、そうだな。どうやって写真を撮ったのかが知りたい」


 ここまでバレてしまっているのだ。これ以上を話したところで何も問題はないだろう。


「なんだそんなことか」


 そう言い、博臣は、自分のポケットからスマホを取り出した。その見た目はまるでメモ帳だった。


「これカバーか」


「そう、指導室の中でずっと出してたんだけど、先生はこれが携帯だって気づかなかったんだ。だから無音カメラ起動して気づかれないように音量ボタン押して撮った」


 そう言って、カバーが閉じられた状態の携帯の側面をカチカチと押す。このカバーは側面が柔らかくなっており、閉じたままでも側面が押せるようになっていたのだ。

つまり右手を掴まれている時、左手だけでも十分写真が撮れた。撮られていても、先生からは、メモ帳を持っているだけにしか見えなかったのだ。


「まさかここで無音カメラとこのカバーが役に立つとは思わなかったけどな」


「すげぇよ宮田!」


「ピンチにおいて機転を利かせるのはサッカーでも同じだからな。今回に限っては俺も頑張ったとは思うけど」


「マジで尊敬するよ。あ、本当に誰にも言わないから安心してくれよ」


「それはもういいって」


 博臣は自分がいつのまにか笑っていることに気づいた。李央と話しているのが、楽しかったのだ。


「ありがとな、尊敬するなんて言われたの生まれてはじめてだ。嬉しかった」


「いやいや、お前すごいって。俺、ずっと宮田と仲良くしたかったからさ、これからもよろしくしてくれよな」


「勿論だよ、博臣って呼んでくれよ李央」


「あぁ、ありがとう博臣」


 今度は博臣が差し出した手を、李央がとる。部活関係以外でできた始めての友達に、心が高鳴っているのを感じた。

 李央も嬉しそうに笑った。正直なやつだ、そう思った。


「おっと悪いな、何かしようとしてる途中だったんだろ」


 そうだった。

 博臣は彼から二つ後ろの席を見た。だが、そこには既に光太郎の姿は無かった。購買にでも昼御飯を買いに行ったのだろうか。


「あぁ、そうなんだけど、光太郎いないみたいだな」


「光太郎……?」


 博臣が見てる席を見て、李央が手を打った。


「あ、八代の事か。あいつ光太郎って言うのか、知らなかった」


「あいつって、知り合いなのか?」


「いやほら、俺去年、部長会議でよく会ってたからさ。俺バスケ部の部長だったから」


 博臣たちは今高校一年生だ。だから、去年は中学三年生で、中学三年生の時に光太郎と部長会議ということは。


「え、お前俺らと同じ中学なの!?」


「やっぱり知らなかったんだな。まあ同じクラスになったことないし、うちのバスケ部そんな強くなかったしな」


 まさか右隣に中学の同級がいるとは、世の中とは案外狭いものだ。


「その点、博臣は有名だったよな」


 耳を疑う。


「俺が有名?なんで」


「関東大会まで行ったサッカー部のエース。県大会決勝でまさかのハットトリック、更にツーアシスト。有名にならないわけが無いよな、うん」


 博臣は驚きを隠せなかった。確かに、博臣は自賛できるほどにサッカーが得意だ。だが、それで博臣が揺るがせるのはせいぜいサッカー界隈だけだと思っていたのだ。まさか博臣程度の実力で、サッカーを知らない人たちにまで自分を認知されるなんて思ってもいなかったのだ。


「そうだったのか」


「女子にもモテモテだったじゃねぇかよ。自覚ねぇのか」


「確かにバレンタインデーの時、何故か他のクラスの人からも、その上知らない人とかにも、たくさんチョコを貰った気がする」


「それはちょっとやべぇな」


「やばいよね」


 李央はたくさんのチョコを抱える博臣を想像した。

 なんて羨ましいんだ、爆発してしまえ。そう思った。


「とにかく、これで博臣が人気者だって納得できたろ」


「いまだに信じられないけど、納得はできたよ」


 頷く李央に博臣は続けた。


「つまり俺は人気な上に女子にモテるんだね」


「爆発しろ」


 李央は怒りをぶつけんとばかりに博臣の頬を引っ張った。博臣の頬はもちもちしていて柔らかく、まるで赤ちゃんの肌を触っているかのようだった。


「ちょ、痛いたいたい! な、何でー!」


 必死に抵抗する博臣に李央が応えることはない。だが、何者かが二人を制するように間に人が入り、博臣の方へと顔を向けた。


「ちょっとえぇか? 博臣」


 顔を見なくてもわかった。このしゃべり方は朱音の他ならない。

 そう、博臣は朱音の顔を見ようとしなかった。俺はお前の言ったことに絶対に納得しないからな、そう言っているかのように。


「俺が悪かった」


 だが、朱音の頭が下がったのが視界に入り、そこでやっと朱音の姿を正面にとらえる。朱音は顔を上げ、その真剣な瞳で博臣に向き合った。


「昨日、考えたんや。確かに、何も知らんのに口出しして、お前が悪いなんて、勝手に決めつけるなんて、よく無かったな。ほんますまん」


 その想いを正面から受けるには博臣には眩しかった。まさか、こんなに正直に謝られるなんて思ってもいなかったのだ。思わず目をそらしてしまう。


「いいって、俺も困惑してたから、少し言い方きつくなっちゃって悪かったよ」


「ほんまか! 許してくれるんか!」


「良いよ、わかってくれて嬉しい」


「お前ら喧嘩してたのか、だから博臣右側向いてたんだ」


 李央の問いかけに博臣は思わず吹いた。

 右側向いてたのは光太郎に話しかけに行こうとしてたからだ。さすがにそこまで露骨に邪険にするほど朱音に怒っていたわけではない。だが、説明するのが面倒だったのでそういうことにしておく。


「ところで博臣、こいつは誰じゃ?」


「ほら、やっぱ知らないよな」


 朱音の言葉に同調するように博臣も頷く。


「お前ら揃いも揃って失礼なやつだな。俺は諸岡李央、好きなチャーハンは玉子チャーハンだ、以後よろしく」


 感心したように朱音が頷く。


「ほぉ、これはご丁寧にどうも。俺は橋本朱音や、好きなチャーハンは魚介チャーハンやな、よろしく」


 というか、自己紹介でチャーハン情報は必要なのだろうか。まあ、そんなのは今更だし別に問題はないのだが。


「して、博臣。お前光太郎とはどないするんや」


 どないする、と言われても光太郎がどこにいるかわからない以上はどうしようもない。気まずいとはいえ部活には来るだろうし、その時でも良いはずだ。


「まあ部活の時にでも何とかするよ」


「お前らの仲が戻らんとこっちまで調子が狂うからな、頼んだで」


 言われなくても、博臣はそれを口には出さなかった。






 部活の練習はいつも通り行われた。というよりも、あの喧嘩は博臣と光太郎の個人的な問題なので、それで部活がどうこうなったりはしないのだが、あんな事があった後でも普通に部活があることに博臣は違和感を覚えた。


「来ねぇな」


 大我が腕を組ながら博臣の右隣に並ぶ。


「来ないやんけ」


 それを真似するかのように、朱音も腕を組みながら左隣に並んだ。何なんだ。


「来ないね」


 だから、博臣も腕を組んだ。たとえそこに意味がなくても、彼らの意図を探るために。


「お前ら何やってんだ?」


 案の定、先輩から不思議がる声がかかる。当たり前だ。今、博臣は先輩と全く同じ気持ちだった。


「小村崎先輩、光太郎が来ないなって話してたんです」


「えぇ、こうちゃんが!?」


 小村崎先輩。あんた、光太郎の事こうちゃんなんて一回も呼んだこと無いでしょうが。

 博臣のそんな考えに気づいているのか否か、小村崎は言葉を続けた。


「昨日の喧嘩、相当きてるのかな」


 ふざけてはいるが、小村崎は部内一の後輩思いだった。常に誰かの事を気にかけているし、いつも朱音と話している。逆に同級や三年生と話している姿をあまり見なかった。もしかしたら、年下が好きなのかもしれない。


「心配だな」


「大丈夫です、ちゃんと話をすれば光太郎もわかってくれるはずです」


 博臣は自分に言い聞かせるようにそう言った。大丈夫だ、そう思いたかった。


「そうか、博臣が言うんなら大丈夫なんだろうな!」


 小村崎は軽快に笑った。


「光太郎が喧嘩するなんて全然無かったもんな。落ち着くまでそっとしておこうぜ」


 大我、確かにその通りだ、博臣は思った。ああ見えて光太郎は繊細だ。今は放っておいた方がお互いのためになるのかもしれない。

 何かと的確な判断をする大我に尊敬の眼差しを送る。だが、大我はすでに他の方向を見ていて博臣には気づかなかった。薄情なやつだ。


「お前ら、そろそろ練習始めるぞ」


 その時、菊地が駆け足で博臣へと寄ってきた。


「光太郎は来ないか?」


「はい、もしかしたら暫くは来ないつもりなのかもしれません」

「そうか」


 菊地の妙に冷静な口調に、博臣は眉を寄せた。


「あの、菊地先輩。光太郎を、情けないやつとかメンタルが弱いとかって思わないでやってください。あいつ、他人と喧嘩するなんて始めてで、ちょっと戸惑ってるだけなんです」


「わかってるよ、そんな事思ってないさ。ただ心配なんだ。先輩だからとかじゃないぞ、同じ部活をしてる仲間としてだ」


 格好良すぎる。その言葉からは、やはり三年生としての威厳やら貫禄やらが重く感じられた。やはり、先輩は先輩なんだ。そう思った。


「無論、俺も先輩もしてじゃなく、一人の仲間としてこうちゃんが心配だよ」


 同じ事を言っているのに、小村崎には菊地のような威厳が一切感じられない。一度誰かが言ったことを繰り返したってだけでも致命的なのに、その上にこの人には凄みが全く感じられなかった。これもまた才能か。博臣は苦笑した。


「なんだよ博臣ぃ。何笑ってんだよ」


 そんな博臣に気づいたのか、小村崎は肩に拳をぶつけてくる。地味に痛い。


「な、何でも無いですよ」


「嘘つけ、絶対、こいつには菊地のような威厳が感じられない、とか思ってたろ!」


「お、思ってませんて」


 全くその通りです。とは博臣には言えなかった。


「じゃあ練習始めるぞ」


「ほら、行きますよ小村崎先輩も」


「あ、ちょ待てよ!」


 菊地の掛け声にみんながついていく。若干一名、何か言っている人がいたが、そいつは気にしない事にする。

サッカー部に入部してから、既に当たり前となっていた光景。揺るぐことの無い、当然のように流れる日常。だが、平穏とは時に不穏をはらむものである。その事を博臣はまだ知らなかった。






 人は痛みの限界を越えると、そこに熱を帯び熱くなるのだということを知った。実際、博臣の右手は燃えるように熱く、今にも水に飛び込み冷やしたい気分だった。

 それに身体中の骨が悲鳴をあげていた。肌に残るたくさんの痣と傷を見れば、博臣が無事では無いことを確認できる。自分自身、これは大丈夫ではないと確信していた。

 何の音もしなかった。

 博臣は顔を上げ、目の前の人間を見る。


「堂島……先輩……」


 これは、悲劇だ。そう思った。


「よーし、片付けを始めるぞ」


 菊地先輩の声で、博臣はシュートしかけていた足を止めた。実際、別に一本蹴るくらいどうってことも無かったのだが、つい声に反応してしまったのだ。

 博臣はもう一度大きく後ろに下がり走り出す。そしてゴールに向かって力いっぱい球を蹴った。やはり球は弧を描くことなく、直線上に沿ってゴールの端へと吸い込まれていく。その感覚が、博臣にはとても気持ちよかった。サッカーをしていて、一番楽しい瞬間と言っても……。それは過言かもしれない。


「最後の一本も止めらんなかった!」


 悔しそうに朱音が地面に拳を叩きつける。グローブをつけているからまだ良いものの随分と痛そうだった。博臣は思わず手をおさえた。


「お前の蹴るボールはいつになっても見えんな。少しすれば慣れると思ったんやけど」


 博臣は朱音の頭を軽くはたいた。


「アホ、お前が俺の球の速度に慣れる度に、俺は進化を続けてるんだよ。もしもずっと同じ速度の球を蹴ってたら、今ごろ慣れてるだろうさ」


 朱音の開いた口が塞がらない。

 実際、博臣も最初は驚いていた。中学三年から現在にかけて、博臣のシュート力と身長は急上昇しているのだ。このくらいの歳の子は皆、成長期と言うらしいが、さすがに成長が早すぎる。たった一ヶ月で成長を実感できるなんて思ってもいなかった。


「ほんまもんのやばいやつやな」


「な、何か失礼な言い方だな」


「片付けしろよ一年!」


「は、はーい!」


 佐川の声だ。二人は焦り気味にそう答え、行動に移った。佐川とは小さな事で度々口論になっていた。どうやら博臣は目をつけられてしまっているらしく、何かと文句をつけてくるのだ。正直この上なく面倒だった。


「今日、英斗も休みだってさ」


 土と傷でボロボロのコーンを運びながら、大我は言った。


「あいつは風邪かなんかじゃないんか?」


 変な心配をする大我に、朱音が返す。


「よく知ってんな。てか英斗って何組?」


「八組だってさ」


「八組かよ! 馬鹿じゃねーか!」


 声が大きい。二人の思考がシンクロした瞬間だった。

 博臣は大我を諭すように声の調子を落とした。


「変に考えすぎだよ。別にただ休んだだけだよあいつは」


「それなら、良いんだけどな」


 何とも煮えきらない返事だが、ここで気にしていても仕方ない。ボールをある程度回収し、籠の中へ入れる。


「宮田、この籠用具室まで持ってってくれ」


 佐川はそう言うと、用具室の鍵らしきものを手渡してくる。過去からは想像できないような優しい声だった。


「は、はい」


「暗かったら入り口付近に電気あるから、つけろよ」


 去っていく佐川に一礼して、籠を運ぶ。

 何で今日だけあんなに優しいんだろう。どことなく込み上げてくる不安と焦燥に博臣の歩く速度は徐々に早くなっていった。

 用具室は開いていた。


「じゃあ、最後に閉めろって事かな」


 籠を元々置いてあった場所へと戻し、用具室内を見回す。先程佐川から暗かったら明かりをつけろと忠告されたが、明かりをつけなければならないほど暗くはなかった。窓がついているので外の光も差し込んでくるし、むしろ電気がその役割を果たさないくらいだろう。では、何故あんな忠告をしたのだろうか。

 少しだけ気になって博臣は辺りを見回した。確かに、入り口付近に照明をつけるスイッチがあった。だが、押しても照明はつかない。どうやら電池切れのようだ。

 ということは、やはり適当な事言ってからかってきただけだったのだろうか。


「全く腹立たしい」


 何も無いならこれ以上ここにいる意味はない。ドアに手をかける。


「……あ、あれ?おかしいな」


 だが、ドアは少しも動かず、ドアノブが微かに回るだけだった。押しても、引いても無駄だ。


「いや、あれ?何で、おかしいな、ええ?え?」


 勢いよく回したり、力ずくで押しても駄目、叩いても蹴っても駄目だった。

 見ると、内側のドアノブには鍵を開け閉めする穴もボタンも無かった。つまり鍵は外側からしか閉められないと言うことだ。ここまで来ると犯人は自ずと決まってくる。


「かくなる上は」


 博臣は窓を見た。だが、すぐに希望は失われる。窓は窓ではなく、鉄格子のついた壁穴だったのだ。脱出はほぼ不可能だ。


「佐川の仕業だな」


 博臣は自分の渡された鍵を見る。恐らくこれは用具室とすり替えた他の部屋の鍵なのだろう。見たことの無い博臣には、本物かどうかの判断はできなかったのだ。それにしても簡単に佐川の言葉を信じた自分に怒りがこみ上げてくる。

 とはいえ、ここで大声でも出して助けを求めたら佐川の思うつぼのような気がする。大人しくしていよう、そう思った。

 だが、都合の良いことは起こらないもので、気がつけば一夜が明けていた。

 閉じ込められていたせいで、昨日は晩御飯を食べていない。その上、妙な緊張感のせいで一睡もできなかった。部活で負担をかけた体を回復できず、どこもかしこも動かすのがやっとだ。状況は絶望的だった。

 すると、鍵が開く音が聞こえた。

 まだ夜が明けてから一時間ほどしか経っていない気がするのだが、一体誰だろうか。いや、誰であろうとこれは救いだった。博臣はよろめきながらもゆっくりと立ち上がった。


「つまんねぇの」


 だがそれこそが本当の絶望だった。


「もっと叫べよ助けを呼ぼうとしろよ、俺にみっともない姿を見せろよ」


「佐川、お前は……」


 佐川は博臣の声が言い終わる前に下腹部に蹴りをいれた。

 蹴られた博臣は無抵抗のままに吹っ飛び、後ろにあった鉄骨にぶつかる。そして立ち上がる気力もなくそのまま倒れた。


「先輩をつけろよ宮田」


 もう一度、腹に強い衝撃が来る。そして首根っこを捕まれたかと思うと、壁に向かって投げつけられた。肩と腰、足に激しい痛みを感じた。

 このままじゃあ殺されるかもしれない。博臣はそう思い立ち上がろうとする。だが足が思うように動かず、立ち上がることすらままならない。体力の限界だった。


「死ね」


 佐川は博臣を睨み、その右手を力の限りで踏みつけた。右手が破壊されるような感覚に息がつまる。実際は、その形は保たれたまだったが、中がやられたのか動かすことはできなくなっていた。


「死ね、死ね、死ね死ね死ね死ね死ね!」


 何度も、何度も博臣の右手を踏みつける。その暴行からは佐川のただならぬ憎しみを感じた。


「お前みたいな生意気なやつは死ぬべきなんだ!」


 佐川が足を高く上げた。

 今度こそ右手が四散するかもしれない。博臣はゆっくりと目を閉じた。

 だが、いつまで待っても痛みはやってこない。博臣は目を開けた。


「え」


 佐川の姿はそこには無かった。その代わりとでも言うように、佐川がいた場所には堂島がいた。


「堂島……先輩……」


 終わった。そう思った。

 だが、堂島はしゃがみこむと博臣の体を起こした。その際に多少痛みが走ったが、先程に比べれば些細なものだったため我慢する。


「宮田、大丈夫か。意識はあるみたいだがすごい怪我だ。こういう時どうすれば、あ、救急車か」


 真顔で博臣を睨んだまま、堂島はそんな事をぶつぶつと呟いていた。


「先輩?」


「安心しろ、佐川はぶっ飛ばしておいた。本当はもっとボコボコにしてやりたいが、今はお前の治療の方が先だ。多少痛むかもしれないが、一旦場所を移動するぞ」


 そう言って、博臣を抱える。


「お、お姫様だっこ!?」


「我慢しろ、傷に直接触れないようにするにはこれしか無いんだ」


 肩と膝、足首、右手を見ながら、堂島は低い声で言った。そんなところにまで気を回してくれていたのか。

 度重なる堂島の優しさに博臣は驚きを隠せなかった。博臣は最初、堂島に嫌われているのかと思っていたのだ。部活中も終始睨まれていた、というか今も睨まれているし、今までまともなコミュニケーションをとったことが無かったから。


「堂島先輩、俺の事嫌いなんじゃないんですか?」


「な、何故そう思った」


 先程もそうだったが、妙にたどたどしいというか、落ち着かないしゃべり方だ。


「ずっと俺の事睨んでたじゃないですか」


「あ、ぁ、お前、サッカー上手いから、お前のプレーが見たくてずっと見てたんだ。参考にしようと思ってな」


 ということは、ただ目付きが悪かっただけなのか。


「あとは話しかけても返事してくれなかったし」


「初対面のやつと話すのは苦手なんだ」


 人見知りかよ。今まで変に考えていた自分に呆れる。だが、堂島は佐川と違い直接的に害になるような事をして来た訳ではないため、そう言われると辻褄が合う。


「本当は、お前の家に電話することも躊躇った。お節介なんじゃないか、思い過ごしなんじゃないかってな」


「俺の家に、電話?」


「佐川は、博臣は体調が悪くなったから先に帰ったと言っていた。みんな、あいつの言葉を信じてたんだが、菊地と俺だけはどうにも信じられなかった。それで、家にいるのか確認の電話をしようと思ったんだが……」


 堂島はそこで言葉を止めた。

 そこで止められたら気になるじゃないか。博臣は堂島を見上げた。


「……先生に、博臣の電話番号貰うところまでは良かったんだ。けど、いざ電話しようと思ったら緊張しちゃって、俺がそんなに心配する必要無いかって、考えすぎだろうって、逃げてしまったんだ。それでもやっぱり心配で意を決して朝にかけたら家には帰ってないって言うから、俺……」


 苦しそうに、悲しそうに、言葉一つ一つを噛み締めながら、堂島は言った。


「ちゃんと昨日の夜にかけていれば、今日こんな事にはならなかったんだ。本当に、すまん」


 話の途中、博臣は堂島の目が涙ぐんできていることに気がついた。かろうじて動く左手で溢れそうになる涙をそっとすくう。


「あれ以上放置されていたらどうなっていたか、堂島先輩には感謝してもしきれませんね」


 博臣は笑った。この程度の怪我などどうってこともない、そう自分に言い聞かせるために。堂島は何も悪くないのだ、と恩人に伝えるために。それが届いたのか、堂島は博臣を見て小さく笑った。

 空を見るといつの間にか太陽が上がっていた。先程までは赤みがかっていた空は既に青く染まっており、それが博臣に朝を思わせた。


「暖かい……」


 その言葉には、堂島は返事をしなかった。ただ真っ直ぐ前を向いて、振動を博臣に伝えないようにゆっくりと歩いている。その少しの揺れが気持ちよく、緊張のほどけた博臣に眠気を誘っていた。


「寝てしまったか」


 堂島は博臣の寝顔を見つめ、ふっと笑った。幼い寝顔を抱えてまた一歩前へ踏み出す。

 保健室までは、まだ少し距離があった。






 包帯で巻かれた右手をぶらぶらと動かしてみる。


「痛い!」


「だ、大丈夫?」


 電話越しに豊の声が聞こえてきて、博臣は慌てて手を振った。だがそれが相手に見えてないことを思いだし、一人咳払いをする。


「大丈夫大丈夫。ちょっと動かしてたら痛くなっただけだから」


「いや動かしちゃ駄目だろ、絶対安静って医者に言われたんだろ?」


 豊の口調はいつもよりもワントーン低かった。柄でもなく、博臣の怪我を他の人以上に気にしているらしい。申し訳ない気持ちと、嬉しい気持ちが同時に胸に込み上げてくる。

 そんな事は知る由もなく、豊はため息混じりに口を開いた。


「気になって動かしたり触ったりしちゃうのはわかるけど、お前ももう子供じゃないんだから。大人しくして、早く治して部活に参加しなよ。あとついでにバイトにも」


 あくまで優しい口調で、豊はそう言う。

 こういうときに、部活の心配を先にしてくれるのが実に豊らしい。そう思い、博臣は微笑した。


「何笑って……。んまぁ、元気そうなら良いんだけどさ。拉致られてボコられたって聞いたから少しは落ち込んでるかと思ったけど、そういう訳でも無いんだね」


「当たり前だろ! 右手以外は大した怪我でもないし、むしろあんな事されて、黙ってられない。怒りに震えるね」


 豊は、今度は安堵のため息を漏らす。ここで彼のやる気が無くなってしまえば、本題に入ることができなかったからだ。意を決するように、咳払いをする。

 だが、先に声を発したのは博臣の方だった。


「でも、本当にごめんな。バイト出れなくなっちゃって。こういう急な欠員が、店にとっては一番困るだろ?おばさんに悪いことをしちゃったな」


「え、あぁ。そんな事気にしなくて良いんだよ。元々人手不足だったわけでもないしね。偶然今日は入荷も少なかったからそこまで大変でもなかったよ」


 そっか、と俯く。豊には、その博臣の姿は見えなかったが、その様子が何となく想像できた。

 自分が一番大変なときに店を気にする辺り、博臣らしいなと豊は思った。

 そこで沈黙が生まれた。時計を刻む音だけが豊の耳を振動させる。これはチャンスだ。豊は今度こそ意を決して口を開いた。


「博臣、突然だけどちょっと良いか?」


「なに?豊」


 もう、邪魔は入らない。一度深く呼吸してから前を見る。そこには、写真がかけられており、当時のサッカーチーム十一人が写っていた。


「歩を、救ってやってくれないか」


 返事はない。


「お前ももうわかってるんだろ。中学の間で、あいつに何かあったって。あいつ、今はおんなんだけどさ、まだ戻れるんだよ。まだ、サッカーを楽しむ事が出来るんだ。歩は、俺とは違うんだ」


 少しの沈黙の後、電話越しに博臣の声が聞こえてきた。


「違わないよ。理由が違ったとしても、豊と歩は同じなんだ。豊はサッカーよりも優先すべきものがあって、歩はサッカーがやりたくない。どちらも、もう一緒にサッカーすることはできない」


 やはり博臣は勘違いをしている。


「博臣、違うんだ。歩はサッカーをやりたくないなんて、一切思ってないんだよ」


 電話越しに小さな物音が聞こえてくる。

 それから数十秒は静寂が支配した。声はおろか、風の音すらも聞こえない。その静けさに耐えきれなくなり、博臣はゆっくりと口を開いた。


「何でそんな事が言えるの」


「歩が言ってたから」


 無意識に博臣の手が揺れる。本人がサッカーをやりたいと言っていた、豊は今そう言ったのだろうか。博臣にはそんな話一度たりともしなかった。最初はただ邪険にされ、その後も頑なに博臣と話をしようとはしなかった。なのに豊には話したのか。そんな感情が博臣の中で芽を出し、育っていく。


「博臣、お前は歩にちゃんと歩とサッカーがやりたいって伝えたのか?」


「え?」


「お前が必要だ、お前と一緒じゃなきゃサッカーをやってる意味がないんだって、いつも周りに言ってるみたいに本人にもちゃんと言ったのかって。」


「そ、そんな事本人に直接言えるわけ無いだろ」


 豊は人差し指をたてて前に突きつけた。誰もいないのに。


「だからだよ。あいつは、ちゃんと言われなきゃわからないんだ。お前がちゃんと歩を欲してあげれば、歩はお前の言うことを何でも聞くぞ」


 逆もまた然りなんだけどね、とは言わなかった。


「で、でも、約束しただろとは……」


「それだけじゃあ、あいつには約束にこだわってるだけにしか見えないんだよ。本人の口から、ちゃんと、歩とサッカーがしたいって言ってやれよ」


 天井を見上げる。ずっと言いたかった事がようやく言えた解放感が押し寄せ、それを受け入れて布団へ寝転がる。またしても博臣からの返事がない。だが彼は素直だ。ここまで言われれば行動を起こさない訳にはいかないだろうと見込む。


「本当……なの……?」


「嘘だと思うなら確かめてみろよ」


 博臣の携帯が小さな部屋中に鳴り響く。通知は豊からだ。開くと、中には歩の連絡先が入っていた。


「しくじるなよ、博臣」


 博臣は頷いて電話を終了する。

 そして別の画面を開き、文字を打ち込むとそれをポケットにしまいすぐに部屋を飛び出した。


「ちょ、博臣?」


「母さん、ちょっとコンビニ行ってくる」


「そんなに急いで行く必要あるのー?」


 母の声は無視した。階段を駆け下り、玄関で靴を履く。鍵を開けてからドアに手をかけるが、チェーンが引っ掛かっていて最後まで開かなかった。


「この急いでいるときに!」


 一度ゆっくりとドアを閉め、チェーンを外してからもう一度ドアを開く。

 当たり前だが、辺りはすっかり暗闇に覆われていた。

 行きなれているはずの通学路も暗闇の中では別の道に見えてしまうのだから不思議だ。灯りの乏しい細い道を全力疾走しながら、博臣はそんな事を考えていた。部活で鍛えた足は止まることを知らない。ショッピングモールを無視して大きな坂を下り、途中で左に曲がる。


「懐かしい」


 目の前に現れたのはかつて博臣たちの通っていた小学校だ。見えてきた母校に胸が高鳴る。

 門まで向かうと、その前に人が立っているのが見えた。背が高く鍛えられた体、短く切り揃えられた髪、大人っぽい顔つきに丸い小さな目。間違いなく博臣の旧友、瀬戸歩だった。


「遅かったな博臣」


 汗だくのまま、博臣は笑った。


「お前の家、学校の目の前じゃんかよ」


 だが、歩はそんな博臣の小言には耳を傾けなかった。博臣の包帯に巻かれた右手を見て固まっていたのだ。だから博臣はその手をぶらぶらとさせてはにかんで見せた。


「怪我しちゃったんだ」


「誰にやられた」


 歩の言葉に胸がざわついた。何故、歩がその事を知っているのだろうか。


「部活のやつか」


 そこで、自分が黙りこんでしまっている事に気がついた。決して歩の言ってる事が間違っているわけではないが、とりあえず何か言わなければ。


「ちょっと仲の悪かった先輩と喧嘩しただけだよ。そんな大袈裟なものじゃないさ」


 あくまで軽い怪我だ、と歩に伝えたくて目の前で右手を動かして見せる。痛いものはやはり痛かったが、必死に我慢した。


「そんな痛そうな顔して動かすなよ!」


 歩が、博臣の動きを止めさせるように手首をつかんだ。そして、学校前の石段に座らせると歩も隣に腰をおろした。歩は終始博臣の右手から目を離さなかった。


「歩?」


「俺が逃げたから」


 博臣は伏せていた顔を上げた。だが、そこで止まってしまう。歩はまるでこの世の絶望を見たかのような顔でずっと右手を見つめていたのだ。


「教えれば良かった、博臣が傷つく前に。サッカーは危険なものだって教えてやれば……」


「何言ってるんだよ歩。サッカーは全然危険なものじゃないって。危険なのは……」


「一生右手の自由が利かなくなってたかもしれないんだぞ」


「大袈裟だよ歩。俺はこんなの全然平気だって」


「そう言って……」


 歩は、そこでようやく博臣の顔を見た。


「そう言ってシオンは、死んだんじゃねぇか!」


 死んだ?

 今、歩は誰かが死んだと言ったのだろうか。シオンとは一体誰だろうか。歩の中学時代で、誰かが死んでいるのか。歩が頑なにサッカー部に入りたがらないのと何か関係があるのか。サッカーで人が死んだ?

 博臣の頭の中を色々な思考がよぎった。


「お前も、お前もシオンみたいに俺の前からいなくなるのか!」


「待って、落ち着いて歩」


 すると、突然歩が腹を抑え体を抱えるように倒れこんだ。目は完全に開いていて呼吸が荒い。状況は、この前の屋上の時と酷似していた。

 こういう時どうすれば良いのか、対処の術を持ち合わせていなかった博臣はとりあえず歩を起こし背中をさすった。時折、落ち着け、とか、ゆっくり深呼吸しろ、とか声をかけながら歩を落ち着かせるべく奮闘した。

 その努力が報われたのか、歩は少しすると落ち着きを取り戻し、元いた場所へと腰を落ち着けた。


「落ち着いたか」


「あぁ、わりぃな。二度もこんな失態晒しちまって」


「気にするなよ」


 少し安心して空を見上げた。灯りが多くそんなに星は見えないが、それでも点々と光る星に目を奪われる。


「俺の話、聞いてくれるか」


 星を追っていた博臣は歩に視線を向けた。歩から、何かを語りたがっていたのだ。


「もちろんだよ」


 歩は頬の傷を擦った。


「あれは、俺が中一の頃の話だ」






 自分の本当の思いを、口にすることができない。それが、今の歩の一番の悩みだった。


「くそ」


 布団に横たわり、時計を見る。もうすぐ十時だ。窓の外を見ても自然の明かりは見えない。そこにあるのは人工の灯りだけ。


「つまんねぇ」


 豊以外に特に話す相手もいない歩はそう呟いて携帯を開いた。

 小学校時代、歩を含んで携帯を持っている人はいなかった。故に、その頃の人たちの連絡先は持ってはいなかった。つまり、親と豊、中学の時の旧友の連絡先だけしか持っていなかったのだ。

 携帯を閉じる。

 特にすることもなく部屋を見回した。サッカーボールと机、布団、鞄、クローゼット、本棚。どこにでもある普通のものばかり。

 またしても面白味を感じず、目をつむる。目を閉じている、その時間だけは歩は現実から逃避できた。

 だが、そういう時に限って携帯の通知音が聞こえてくる。これが親なら無視すれば後に面倒なことになる。仕方なく起き上がり、携帯を拾いあげる。


「え」


 歩は、その内容に目を丸くした。通知の主は、博臣だったのだ。


「あいつ、何で俺の連絡先を知って……」


『今すぐ光延小学校に来い。博臣』


 光延小学校。それは歩たちの通っていた小学校の名だった。博臣は、そこへ来いと行っているのだ。

 光延は歩の家の裏だ。だから行こうと思えば一瞬で行ける。しかし、歩は少しだけ躊躇った。また博臣の前で倒れるなんてみっともない姿を見せてしまうんじゃないかと、不安になってしまったのだ。

 歩だって、博臣と話がしたかった。前に与えてしまった誤解をちゃんと解いておきたかったし、博臣の事を知りたかった。自分の事を知ってほしかった。

 けれど、足が動かなかった。過去を思い出せば、また前のようになってしまう。


『今すぐ光延小学校に来い。博臣』


 その文をもう一度眺め、立ち上がる。


「来い、だもんな。もし倒れたとしても責任はあいつにあるんだもんな。命令されたから仕方なく行くんだからな」


 自分に言い聞かせるように呟き、外に出れる格好に着替える。もう暖かくなってきたと言うのにクローゼットの中には長袖のシャツでいっぱいだった。そろそろ夏服を出さなければいけない時期らしい。

 返信はせず、携帯をポケットにしまう。

 歩は意を決して家を飛び出した。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ