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スタートライン  作者: 日向 奏
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4.交錯スクランブル

 桜が完全に散り、枝に緑がつき始める。

 そんな変化を目の当たりにし、やはり季節とは移り行くものなのだと感じる。生き生きとした緑を横目に、博臣は大きくあくびをした。

 入学してから十五日、二週間以上が経過した。あれからは特に問題もなく、部活とバイトに力を入れる普通の毎日が繰り返されていた。そう、まだ入学してから一月もたっていないというのに、博臣にとって学校での出来事は普通と化していたのだ。


「慣れって凄いな」


 独り言のように呟き、寄りかかっていたフェンスから身を引く。博臣は今、屋上にいた。施錠されているものだと思っていたが、どうやらこの高校は過去に事故などが無いらしく、生徒の自主性を重んじとか何とかで常に解放されているらしい。

 高いところから見る広大な田畑はさすがに見映えるものがあった。とは言っても、まだ田植えの始まっている時期ではないので凄みは薄いのだが、それでも辺り一面が更地というのは見ていて飽きないものだった。


「なに黄昏てんだよ」


 聞き覚えの無い声が耳に入ってくる。

 出口の方からだ、博臣は振り返り顔を確認した。


「歩」


 聞きなれていないはずである。声の主は歩だった。


「よ、博臣」


 歩は、博臣の隣に寄りかかり、もう花のついてない桜の木を見下ろした。


「あれから半月か」


 焦燥感を堪えながら、一言。


「そうだな」


「学校生活は楽しいか」


「そこそこは上手くやってると思うよ」


 本当に話したい事というのは中々言い出せないものだ。歩はそのまどろっこしさに苛立ちを覚えながらも、もう一度口を開いた。


「そうか」


 そこで一度、会話が止まる。

 沈黙は長く続いた。辺りは柔らかな風が吹いており博臣の髪を揺らしていた。

 チャンスかもしれない。そう思い、歩は口を開いた。


「覚えてるか?」


 返事はない。歩はそのまま続けた。


「俺たちがトイレで口論になったの」


「……当たり前だ」


 博臣の顔を見ると、彼も桜の木を見下ろしていた。こうして並んだのは何年ぶりだろうか、少しだけ懐かしい気持ちが込み上げてくる。


「あのさ、何て言うか」


 そこで言葉が止まってしまう。何て言うのが正しいのか、何て言うべきなのかがわからない。あの時突然怒ったことを謝罪するべきか、あんな事が起こってなお対応してくれる事に感謝するべきか。わからないから、口が止まった。


「何だよ」


 しびれを切らした博臣がこっちを見る。その瞳は昔から変わらない、幼くて純粋な綺麗な瞳だった。その瞳を見ていると、余計に言葉がつまってしまう。


「でも、後悔してるなら謝ったら?」


 その時、豊の言葉が頭をよぎった。おちゃらけたキャラを作っている真面目な青年の言葉。曖昧な理由でも何故か信頼できる唯一の男の言葉。


「ごめん、博臣」


 博臣が口を開きかけているのが見えたが歩は言葉を続けた。


「あの時は言い過ぎた。自分勝手な理由でお前に八つ当たりしてしまった。本当に申し訳ないと思ってる。本当ごめん!」


「俺こそ、ごめん」


 頭を下げる博臣に、歩は面食らった。


「なんで博臣が謝るんだよ」


「触れられたくない事に触れて、いつまでも一人で友達気取りで。距離感わからないやつで、ごめん」


 少しだけ言い方が気になる。それではまるで、歩が博臣の事を友達だとも何とも思ってないみたいではないか。否定したかった。それは違うぞ、俺はまだお前の事友達だと思ってるぞ、そう言いたかった。


「お前にとって俺はもう他人だったんだな」


 そんな風に思われるために謝った訳じゃない。歩は、博臣と仲直りがしたかったのだ。それなのに、二人の間には何故か亀裂が走った。


「違う、違うんだ博臣」


「歩にはもう、俺もサッカーも必要ないんだな」


「そんなわけ無いだろ」


「ごめんな、無理に付き合わせちゃって、もう二度と話しかけないし、約束がどうだとか何て言わないよ」


 博臣は校舎に戻る扉に向かって歩き出す。

 ダメだ。このまま博臣を帰らせちゃダメだ。本能が、歩にそう言っているのが聞こえた。


「俺だって、まだお前と友達だって思ってる!」


 博臣は振り返らなかった。


「じゃあ、一緒にサッカーやってくれるの」


 重く、強く響いた彼の言葉は歩の心臓を抉った。サッカー、その言葉を聞き、脳に過去の映像が映し出される。視界が赤く染まり、忘れかけていた記憶が目を覚ます。自分の手が血まみれだった。そして、その血に写っていた自分の姿も……


「ぅあ、あ、ああぁあぁぁぁぁぁぁあぁぁああああ!」


 それを思い出した瞬間、歩は抑えきれない吐き気と頭痛に襲われた。


「は、歩!? ど、どうしたんだよ!」


 そこでようやく博臣は振り返り、いつの間にか倒れた歩を抱える。顔が真っ青に染まっており、目は焦点があっていない。これが異常な事態だと言うことは、さすがの博臣にも理解できた。


「歩、しっかりしろ!」


「ひ、博臣……」


 そう言う歩の目は博臣を見ていない。


「た、すけ…………」


 そこで、歩はゆっくりと目を閉じた。


「あ、歩? 死んじゃダメだ! 歩、しっかりしろよ、ねぇ!」


「どうした!」


 その後、歩の声を聞いて駆けつけてきた先生たちが歩を運び、博臣はその時の事を説明した。歩は一時的に保健室へ搬送されたが、すぐに目が覚め、早退したようだった。歩が何も証言しなかったこともあり、先生たちは博臣が何らかの事を起こしたんじゃないかと疑っており、それに反対する術を博臣は持ち合わせていなかった。

 その日は部活の練習には参加できなかった。先生が来るまで、指導室で待機だと命じられていたからだ。何もない部屋で一人、博臣はスマホをいじりながら延々と待機し続けた。

 時計の針が、四時半を回った頃、待機してから一時間後に、ようやく先生が姿を現した。小太りで背は百七十前後だろうか。あまり良い感じはしない、知らない先生だった。


「すまん、遅れたわぁ」


 先生はヘラヘラしながらそう言うと椅子に腰を落ち着けた。だが、これだけ待たせておきながら、少しの反省も見せない態度に博臣は納得できなかった。


「何で遅れたんですか?」


 先生は表情を変えぬまま答えた。


「は、それをお前に教える義務があるのかね?」


 予想外の答えに思わず固まってしまうが、すぐに我にかえり言葉を返す。


「あるに決まってるでしょ! 人の時間を何だと思ってるんですか!」


 だが、博臣の言葉など一切耳に入っていないかのようにスルーした先生は、タバコに火をつけ始め、学校内だと言うのにタバコを吸い始めた。


「お前なんてどうせ暇だろうが。一時間くらいでぎゃあぎゃあやかましいわ」


「一時間がどれだけ貴重かわかって言ってるのか?あんたがもっと早く来れば、俺は部活に参加できたかもしれないんだぞ」


「他人をあそこまで陥れたやつが、部活なんてやってんのか。偉そうに」


「何も知らないくせに勝手なこと言いやがって、偉そうなのはそっちじゃねぇか!」


 その言葉で苛立ちを覚えたのか、先生は立ち上がり博臣の隣まで足を運んだ。そして、右手を掴み、ライターで火をつけた。


「あっつ!」


 いや、実際には火に当てられただけで、引火はしなかった。火が消えたあとも、右手には熱と痛みが残っていた。火傷だ。


「二度と生意気な事言うんじゃねーぞ。ガキが」


 持参した灰皿でタバコを潰し、自分のごみ袋の中にタバコを捨てる。成る程、いくら教師と言えどやはり校内でタバコを吸うのはいけない事らしい。

 何がしたかったのかは全くわからないが、先生はそのまま指導室を出ていった。


「あれ、中西先生、指導室に何か用があったんですか? 今回、指導を任されたのは私のはずなんですが」


「え、えぇ、忘れ物をしてしまいましてね」


 ドアの外側から先生たちの会話が聞こえる。博臣は息を潜めて彼らの会話に耳を傾けた。


「忘れ物ですか、中に生徒が一人いたでしょう」


「あぁ、あの子は本当に危険な子ですね。すぐにでも退学にさせたいくらいだ」


「まさか、ご冗談を。彼はそんな人間じゃないですよ。それじゃあまた後で」


 会話が終わり、ドアが開く音がする。入ってきたのは、この高校で一番馴染み深い大久保だった。先程の恐怖とは一転し博臣は安堵に浸る。そんな様子を見てか、大久保は察したような眼差しを博臣に向けた。


「本当にすまない。大丈夫か?」


 喋ろうとするが上手く口が回らない。


「落ち着け、深呼吸しろ」


 二度、三度目くらいの深呼吸でようやく落ち着き始める。


「俺が遅くなったせいで、本当にすまない」


「大丈夫ですよ、気にしないでください。それで先生、あの人は一体何なんですか」


「あいつは中西。指導室にいる人間にちょっかいを出してストレス発散している極悪人だ」


 そんな人間が何故まだこの学校に残っているんだ。そんな博臣の疑問を、大久保は簡潔に教えてくれた。


「あいつがそういう事をしているっていう証拠があがっていないんだよ」


 じゃあ何で大久保先生は知ってるんですか、なんて聞こうとは思わなかった。これだけ頼りになる先生だ。色々な生徒たちから相談を受けているのだろう。

 悔しそうに大久保が歯軋りをした。いつも余裕そうな表情をしているだけあって、迫力がある。博臣は思わず唾を飲んだ。


「何かされたか?」


「ライターで右手をやられました」


 赤くなった右手を大久保に差し出す。


「何だと! くそ、宮田、本当にすまない! 本当に、すまない!」


 壁に拳を叩きつけ、自らの怒りを四散させる。これは、教師らしかぬ行動ではあったが、やっていた人物が大久保であった事からあまり気にはとめなかった。


「中西、どうにかしてあいつの尻尾を掴まなければ。これ以上の犠牲者を出すわけにはいかない」


 それなら、と博臣は立ち上がった。


「報復の準備は出来てますけど。大久保先生、協力してくれますか?」


 そう言って、大久保にスマホを差し出す。大久保はその画面に写っているものを見て驚愕した。


「こ、ど、え!?」


 そこに写っていたのは、タバコを吸っている写真と、ライターで右手を燃やしている写真だった。両方とも指導室の背景と中西の顔がバッチリ写っている。逃れようの無い完璧な証拠写真だった。


「落ち着いてください。これは所謂隠し撮りというやつです。俺がただでやられると思ったら大間違いですよ」


「本当に凄いぞ。お前サッカー以外は何も出来ないガキだと思ってたけど、中々大したやつじゃないか!」


「失礼な、一応俺二組なんで勉強だってそこそこは出来るんですから。それに言ったでしょう。俺は中々じゃなくて、普通に出来るやつなんです!」


 大久保の張りつめていた顔が柔らかな笑顔に戻っていく。博臣はそれを見て改めて安堵に浸った。この人のような素晴らしい人間を怒らせるような真似をしてはいけない。そんな事をする人は絶対に許せない。そう思った。


「これで、中西の件は永遠に安心できる。明日、午前中だけでもこのスマホ借りてもいいか?」


「もちろんです」


 大久保は本当に嬉しそうだった。あれは紛れもなく、生徒の安全を喜ぶ教師の顔だ。


「さて、本題だが」


 大久保はそれ以上言わなかった。だから博臣は、真実を告げた。


「他人を追い込むような真似、絶対しません。ましてやかつての友人をあんな風に、意図的にさせようとするなんてありえない」


「よし、校長にはそう報告しておく」


 自分でもしつこいと思うのだが、本当に頼りになる先生だ。そして、頼りになると思う度に、いい人だとも思う。こんな先生に巡り会えた博臣はラッキーなのだ、そう思った。


「今日は部活に顔出さなくて良いから、家でゆっくり休みなさい」


「はい、ありがとうございます。大久保先生」


「おう」


 そこで、もう一言出たのは、いつも以上に気持ちを伝えたかったからだ。


「大久保先生、本当に、いつも感謝してます。これからもご指導、よろしくお願いします」


 それを聞いた大久保は、これまでに見たことの無い最高の笑顔で親指を立てた。


「あたりめーだ! 卒業するまでは俺が面倒見てやるから、安心しろ」


 博臣が、大久保に全信頼を置いた瞬間だった。






 昼休み。

 教室を見渡せば誰もが楽しそうに食事を嗜んでいた。はしゃぎながら大口で弁当を食べる男子集団。かたやアニメの話題で盛り上がっている男子集団。食べさせ合っているカップルに、ガールズトークに華を咲かせる女子集団。

 その中、たった一人で弁当に夢中の男の前に豊は腰を下ろした。その男は何も言わず豊の事を睨みながら米を口に運んだ。


「目付きが悪いよ、歩ちゃん」


「何の用だ」


「ただ一緒に弁当を食べようとしてるだけでしょ。ほら、置くスペース作ってよ」


 口では嫌そうにしながらも、歩は自分の弁当を寄せ、豊のスペースを作る。素直じゃない、けれども優しい。


「全く素直じゃないんだから。さてはお前ツンデレだな」


「黙れ」


 今度のは本気で怒っているらしく、睨まれた時の恐ろしさが先程の比にならない。比にならないどころではなく、今にも襲いかかり殺してきそうな勢いだ。ここはこちらが素直に食い下がる。


「ごめんごめん。そんな怒るなよ」


 豊の話を無視し、歩は黙々と箸をすすめる。その時、歩が口いっぱいにご飯を運んでいるのを見て、微笑ましくなる。

 それを見た歩が、何か言いたそうにしていたが、頬張ったご飯を対処するべく口を動かしていた。そして、それを飲み込み、ようやく口を開く。


「なんだよ」


 返事の準備はできていた。


「小学生を見てるような気分になって、つい見入っちゃった」


「馬鹿にしてるのか?」


「可愛いって言ってるんだけどなー」


 歩は俯いた。


「殺す」


 だが、その頬が少しだけ赤く染まっているのを豊は見逃さなかった。成る程、こういうのに弱いのか。豊が歩を抑える力を得た瞬間だった。


「ところで話は変わるけどさ、昨日は一体何があったん? 早退までしちゃって」


「あぁ? 何もねぇよ」


 話題が変わった事に安心したように、一拍置いてから歩は言った。


「何も無いわけないだろ。あんな発狂しておいて、ここまで聞こえてたんだからな」


「うぇ……まじかよ」


 昨日、歩たちがいたのは反対側の校舎の屋上だ。そこからこちら側の校舎まで声が聞こえていたということは、ほぼ全校生徒に聞かれてしまっていると言っても過言では無い。そう考えると、歩は少しだけ気が重くなった。


「んで、あれは何だったの?」


 歩は少し躊躇った。別に豊が信頼できなかった訳ではない。前に、博臣に傷の事を聞かれたときもそうだ。歩は別に他人を信頼してないから言わないという訳ではない。ただ、知られるのが嫌だった。自分の嫌な過去を、弱味を、晒すのが嫌だったのだ。


「何でも……ねぇよ……」


「今日はそれ、通用させる気無いんだけど?」


 豊の満面の笑みに、歩は背筋が凍るような感覚を覚えた。稀に見せる、豊の嫌な顔だ。

 今日の歩に、選択肢は設けられていなかった。


「昨日、博臣に謝ったんだ」


「おぉ! よくやったぞ歩。ちゃんと自分から行くなんて成長したじゃないか!」


「じ、自分から行ったなんて言ってないだろ」


 トイレに行くって言ってたのにも関わらず、何故か逆側の校舎の屋上に居た事を、こいつはどう説明するつもりなんだ。

 豊はそんな疑問を飲み込んだ。話を続けろ、と言うように掌を差し出す。


「あぁ、謝ったんだが、何でか博臣はあの一件で勘違いしちまったみたいでよ、博臣は俺の事友達だと思ってるのに、俺は博臣の事なんとも思ってない、みたいに言われてよ」


「そりゃそうだ」


「だから、誤解だって言ったんだよ。俺はまたお前と仲良くしたいと思ってるって」


 歩の唇が震えた。


「そしたら博臣のやつ、じゃあ一緒にサッカーやってくれるの?って言ったんだ」


「それで発狂しちゃったわけか」


「は、発狂って言うなよ」


 ここで豊は確信した。

 やはり歩は、誰も知らない空白の三年間で何かがあった。サッカーにも傷にも触れたくなくなるような、歩の心を抉る何かがあったんだ。


「歩」


「なんだよ」


「そろそろ、お前の中学の頃の話をしてもらいたいものだね。どうせお前一人じゃ、また博臣とこじらせるだけだし。まさかこんな逃避行、ずっと続けようと思ってる訳じゃ無いでしょ」


 その通りだと、歩は思った。実際このままじゃあいけない事は前からわかっていたし、この高校に入ったのも……


「歩、お前の事、ちゃんと教えてくれよ」


「豊……」


 ゆっくりと、でも確実に、歩の口は真実へ触れた。






 ボールを足全体を使って動かし、相手の目を眩ませる。ドリブルと言うのは、敵の不意を突くだけの簡単な作業だ。博臣はずっとそう思っていた。過去形ではない、現在進行形でそう思っている。

 けれど、その作業が今日は特につまらなく感じた。いつも同じはずなのに何かがいつもと違っていた。そしてそれが何なのか博臣にはわからなかった。

 昨日、屋上で歩が倒れた。何かに怯えるような叫び声を上げて、意識を失ったのだ。あのあと、すぐに意識は戻り早退したと聞いた。それでも、あんな事は異常な事態だ。歩は、今日も休んだのだろうか。

 中西は、博臣の差し出した証拠と、数多の証言から解雇処分が言い渡された。そこに、同情や哀れみと言った感情は一切存在しなかったし、喜ばしいことではあるのだが、歩が心配でそこを素直に喜ぶことはできなかった。


「博臣どうした?」


 いつもと同じ、光太郎は博臣が何か悩んでいるとき、いち早く気づいて気にかけてくれる。自分を大切にしてくれる人がいる事、博臣はそれが嬉しかった。


「昨日、歩が倒れちゃってさ」


「あぁ、色々あったらしいな。歩の件も先生の件も、お前は何も悪くない。あんまり気にしすぎるのも体に毒だぞ」


 いつもと同じ、博臣の不安がる気持ちを心配して、優しい言葉をかけてくれる。だが今日だけは、博臣はその優しさを素直に受け取ろうとは思えなかった。心のどこかで、まだ歩に対して罪の意識があるような気がしたから。どこかで自分は間違えてしまったんじゃないか、そう思ってしまったから光太郎の言葉に頷けなかった。

 様子がおかしいと察したのか、光太郎は首をかしげた。


「本当に大丈夫か?」


「おーいー宮田と八代! 集合だぞー!」


 そこで、菊地からの集合がかけられる。

 気にしすぎかもしれない。そう思った二人はお互い顔を見合わせた。


「ごめん光太郎。たぶん大丈夫」


「そうか、問い詰めるみたいになって悪かった」


「全然、いつも感謝してる」


 走りながらお互いに笑顔を見せる。


「お前らほんま仲えぇなぁ」


「二人は中学一緒なんだっけか?」


 朱音と小村崎が肩を組みながら話しかけてくる。

 どう見ても、二人が言えた事じゃない気がする。しかも、朱音と小村崎はここの部活で始めて知り合ったはずだ。その上一年と二年で学年も違う。異常なコミュ力だと思った。


「はい、春日野中学です」


「ハルヒノ? 聞いたことないな」


 小村崎は腕を組ながら空を見上げた。


「嘘でしょ小村崎さん。去年関東大会ベストフォーまで残ったチームですよ?」


「はぁ、マジ? 博臣ってマジもんだったんだな」


「今更何言ってるんですか。俺が出来るやつなのは当たり前じゃないですか」


 生意気なやつだ、と小村崎が博臣の鼻を引っ張る。


「ちょ、何するんですか!」


「先輩からの罰だ、ありがたく受けとれよ」


「こんな横暴な罰のどこにありがたみを感じれば良いんですか⁉」

「そこまでにしておけお前ら」


 菊地が小村崎にチョップをかまし、博臣が解放される。

 小村崎は頭を擦りながら振り返った。


「きくっちーサイテー!」


「誰がきくっちーじゃボケィ」


「ぐはっ!」


 そしてもう一度、今度は拳を脳天に食らう。何だか漫才でも見せられているような気分だ。その様子を見ていた朱音が思わず笑ってしまう。


「わ、笑ったな朱音! くっそ覚えとけよ貴様ら、今度絶対ブラックサンダー奢らせてやる!」


 ものすごく安価だ。

 そこで騒ぎは一段落し、落ち着いた菊地も全員と向き合える位置へと移動する。博臣と光太郎、朱音もそれぞれ菊地へと視線を向けた。


「さて、紅白戦まで残り十日を切った訳だが、どうだ一年、チームとして少しは馴染んできたか?」


 最初に声を発したのは朱音だった。


「はい、先輩たちが元々上手くまとまってくれていたおかげで、馴染むのがとっても楽でした」


「苦しゅうないぞ、朱音!」


「ははー! 殿の行く道こそ我が道であります!」


 小村崎の悪ふざけに乗っかる朱音を見て、本当にこの二人は仲良いんだなと思った。


「他のやつらも大丈夫か? 無理してるところとか、不安に感じてる事とか無いか?」


 迷わず英斗が手を上げる。また的はずれな事を言うのではないかと、一同の心に緊張感が走る。


「どうしてこの学校には学食が無いのでしょうか」


 やはりこの男の質問はいつも間違っている。


「今は、部活に関する質問だぞ菅原」


「そうでしたか、ならばもう一つ」


 菊地にも呆れられてしまっている。空気が読めないなんてもんじゃない。彼の行動はもはや空気を放棄している。そう思った矢先に彼は呟いた。


「佐川先輩の顔が気になります」


「は?」


 佐川の表情が歪む。当たり前だ、突然顔が気になるなんて言われて不快に思わない人はいない。


「それはどういう意味だ菅原」


 佐川の怒りが飛ぶ前に菊地が颯爽とカバーに入る。


「彼の表情は嫉妬と憎悪で満ちています。これは見ていて非常に不愉快です」


 空気が凍りつくのを感じた。実際、周りの人々は凍りついていた。英斗にも佐川にもかけるべき言葉が見つからなかったのだ。こればっかりは菊地にも何もフォローできなかった。


「それはすまなかった、気を付ける」


 だが、佐川はそう言うと、少しだけ頭を下げた。


「は?」


 思わず博臣は声を出してしまった。前に指示がどうのってだけであんなに怒っていた人間が、ここでは怒りの欠片すら見せないとは、彼の怒りのスイッチは一体どこと繋がっているのだろうか。


「んだよ文句あんのか宮田」


 佐川は博臣を脅すように睨んだ。


「やめろ、博臣は関係ないだろ」


「あいつが気に入らねぇ声出すのがいけねぇんだろうが」


 菊地と佐川のやり取りを見て博臣は確信した。成る程、やはり今までの事は自分が佐川に嫌われているだけだったようだ。


「とにかく、俺たちはチームなんだから、あんまり変なわだかまりみたいのは残さないようにしてくれよ。これ以上何も無ければ練習を再開する」


 それ以上は誰も何も言わずその場は流れる形となった。ただ博臣は、佐川とのわだかまりは強くなる一方だと感じてしまった。

 英斗は空を見ていた。

 博臣はそんな英斗に近づき肩を叩く。彼は何も言わずに振り返った。


「英斗、何であんなことを言ったんだよ」


「気を付けてね博臣」


 予想に反する回答で思わず言葉に詰まる。


「佐川はお前の事潰そうと狙ってるから」


 英斗は意味ありげに口をぱくぱくと動かした。だが、それが何を表しているのか全く見当もつかない。下手したら馬鹿に見える。

 だが、否定はできなかった。


「でも、何でそんなこと」


「堂島先輩も気を付けた方が良いかも」


 予想外の発言に博臣は思わず堂島の方を見てしまう。それで、堂島も博臣の事をみている事に気づいた。というかまた睨まれていた。


「何を考えてるかわからないけど、ずっと博臣の事睨んでるんだよね。もしかしたら博臣、気づかないうちに堂島先輩に何かしたんじゃない?」


 そもそも接点がそんなに無いのに、どうやって何をしろと言うのだろう。どうやらとんでもないことに巻き込まれてしまったようだ。ため息が漏れる。


「さっぱりだ」


「堂島先輩は感情が読めない。とにかく、気を付けてね」


 英斗はそれだけ告げるとさっさと走って行ってしまった。相変わらず不思議なやつだが、それでも心配はしてくれているらしい。英斗の気遣いに感謝しながら光太郎の元へと戻る。その途中でもう一度堂島を見たが、やはりこちらを睨んでいた。

 いつまで見ているつもりだろうか。


「朱音、ちょっとシュート練習付き合ってくれよ」


「じゃあ俺がディフェンスをしてやろう」


「お、助かるよ光太郎」


「しゃーねーな、いっちょやってやるか」


「ボール持ってくるよ」


 ボールが入っている籠は菊地のそばにあった。博臣は駆け足で菊地の元へ向かう。


「お、宮田、どした?」


「いえ、ボールを借りようと思って」


「そうか、好きに持っていけ」


 頷いてボールを手に取る。表面には多少の砂がついていたが、別段汚れている様子のない綺麗なボールだった。他にも二、三個手に取り、みんなの元へ駆け足で戻っていく。

 その時、グラウンドの端が目に入った。

 ネット越しに、歩が博臣の事を見ていたのだ。


「あ、歩!」


 博臣はボールを持ったまま歩の方へと駆け寄った。だが、歩はそんな博臣を見て颯爽と学校から出ていってしまった。

 だが、少しだけ安心した。昨日あんな事があったのにも関わらず、ちゃんと学校に来れていたのだ。歩の元気な姿を見ることができて調子が戻ってくる感覚を覚えた。同時に不安も込み上げてきたのだが、それの正体は博臣にはわからない。


「歩がいたのか?」


 後ろから声をかけてくるのは光太郎だ。

 博臣は揺れるネットにもたれかかりながら空を見上げた。


「行っちゃったけどな」


「しかし、昨日の今日でよく登校なんて出来たな」


「同じこと考えてたところだよ」


 博臣を見る。

 光太郎は、その幼げな表情がどこか曇っているのが気になった。それも今に始まった事ではない。歩と再会したあの日から、博臣の様子はどこかおかしかった。それが明確にどこかに出ていた訳ではないが、確実に彼の元気はなくなっていた。


「博臣、お前無理してないか?」


 だから、それを知りたくなった。博臣の事をすべて理解してあげたい、そして、その上で彼を肯定してあげたい。そう思ったからだ。


「光太郎、どうしたの?」


 だから光太郎は、博臣の事を知らなければいけなかった。全部ちゃんと理解しなきゃいけなかった。それには話してもらうしかなかったのだ。


「光太郎!」


 博臣に肩を揺さぶられ、光太郎は我にかえった。どうやら思考に囚われすぎていたようだ。


「大丈夫?いつもの光太郎じゃないみたいだけど」


 博臣は上目遣いで尋ねる。そんな仕草に子供らしさを感じ、光太郎は頭に手を置いた。


「大丈夫だ」


 そう、と俯く博臣。


「何で、俺が無理してるって思ったの?」


「何でって、お前がここ最近ずっと辛そうにしてたからに決まってるだろ」


「辛そうになんてしてないよ、光太郎の勘違い」


「勘違いなんかじゃないさ。博臣、お前は歩に会ってからどこか様子がおかしい。自分で気づいてないのか」


「自分の事は自分が一番わかってるよ? 本当に大丈夫」


 焦り始めているのがわかった。博臣に嘘をつかれるなんて思ってもいなかったからだ。そして、生まれて始めて博臣に対して苛立ちを覚えた。


「光太郎こそ何か辛そうだけど、大丈夫?」


 こんなに焦った光太郎は始めてだった。だから光太郎の必死な様子を見て博臣は少しだけ怖くなった。


「今してるのは俺の話じゃないだろうが、嘘ついてないで全部話せ博臣!」


「…………」


 博臣の沈黙で、我にかえる。

 もしかして、自分は今とんでもない事をしていたのではないか。そんな心配が光太郎の頭の中を駆け巡った。


「俺の元気がないように見えたのは、歩の心配をしていたからだ」


 補足するように、博臣は空を見上げながら口を開いた。


「歩は傷だらけだったんだ。心が、顔にも傷はあったけど、あいつは、サッカーが怖くなっちゃったんだよ」


 また歩の話か。そう言おうと思ったが光太郎は口を開かなかった。


「俺はあいつを、歩を助けてやりたいんだ。サッカーが楽しかったあの頃を、取り戻してほしいんだよ。また、一緒にサッカーがやりたいんだ」


 光太郎の様子がどこかおかしい。何かに怯え、焦りを感じている。歩とは違う、何かを失ってしまうことに対する恐怖。だから博臣は光太郎の望む真実を提示した。これで光太郎が満足するなら、そう思ったから。


「お前は歩ばっかりだ」


 しかし、そんな博臣の考えとは裏腹に光太郎の表情は暗いままだった。博臣はそんな光太郎をやはり怖く思った。


「どこにいても、何をしていても歩。歩、歩、歩歩歩歩歩歩歩歩歩歩歩歩歩歩歩歩歩歩歩歩歩歩歩歩歩歩歩歩歩って、歩の事ばっかり」


「光太郎、何言ってるんだよ」


「一番長く一緒にいるのは俺なのに、お前は歩の事を一番に信頼して、歩とサッカーすることだけを望んでいる」


「そんな事無いって。誰がどれくらいとか、比べたりしてる訳じゃないんだ。ただ俺は……」


 手に触れようとする博臣を振り払う。光太郎は気づいてしまった。自分が今まで抱いていた感情に。自分が博臣にここまで怒りを覚える醜くも哀れな原因に。


「嘘をつくな! また十一人でサッカーしたいとか言いながら、具体的に名前を出したのは歩だけじゃないか! お前、考えてみろよ!歩以外のやつとサッカーしたいと、考えたことあるのか! 十一人じゃなくて、他の誰か個人と、サッカーしたいと思ったことあるのかよ!」


 光太郎は、博臣を一番の友人だと思っていた。博臣を誰よりも信頼していた。逆もまた然りだと思っていた。だから歩の事ばかりを気にする博臣を見ているのは辛かった。それもそうだ。でも、それだけじゃない。


「俺だっていたのに! 俺はお前とずっとサッカー出来ればそれで良いと思っていたのに!」


 光太郎は、博臣を独占したかったのだ。博臣の事を誰よりも知り、博臣を自分の手中に置いておきたかった。博臣を、自分の物にしたかったのだ。


「光太郎……」


 最低だ、これ以上を言う資格はない。

 光太郎は校舎の方へと歩き出した。


「腹が痛いから、今日の練習は早退する、菊地先輩に言っといてくれ」


 光太郎の声が言い終わる前に博臣は動き出した。ここで光太郎を行かせたらいけない気がしたから。


「来んなよ!」


 光太郎の制止に従う。このまま行かせたらいけない、その考えは変わらないが、追うこともまたいけないと思った。八方塞がりだ。現地点で、博臣に出きることは何もなかった。

 遠くなっていく光太郎を見つめる。


「俺は歩の事しか考えていなかったのか」


 確かに光太郎の言う通りだったかもしれない。博臣は高校に入ってから歩の事ばかりを気にしていた。だが果たして、それは他人に口を出されるような事なのだろうか。博臣は、最初は歩の変化に驚いていただけだ。そして、今は歩の傷を気にしているだけだ。一体そのどこに、他人に責められる要素があっただろうか。


「お前はいつだって正しいんだろ。間違えんなよ光太郎」


「間違えたのはお前じゃないんか?」


 いつから聞いていたのか、ネットの後ろから朱音が声をかけてきた。


「いつから?」


「光太郎の怒った声が聞こえてきて、今来たとこや」


 成る程、ともう一度ネットに寄りかかる。気になった事もあったので博臣は朱音を見た。


「俺、どこか間違えてたか」


「細かいことは俺にだってわからんでぇ?やけど、光太郎が間違えるとは到底おもえんのじゃ。だから、怒らせたお前に非はあるんじゃ思うとる」


 博臣も最初はそう思った。いつも正しい光太郎が間違えるはずがない。もしも間違えるとしたら、それは博臣の方だ。だけどそれでは納得がいかなかった。今回に至っては、こちらに一切の非が見つからなかったからだ。


「俺、今回何も悪いことしてないんだ。だから、自分に非があるなんて思えない」


「誰だって、最初はそう思うんや」


「納得は、できないよ」


「今はわからんでも、その内わかる」


 妙にわかりきった口調の朱音に腹がたってくる。確かに、光太郎はいつも正しい。けれど完璧な人間なんて絶対にいない。光太郎だって人間だ、感情が先走って何か勘違いをしたっておかしくない。博臣は、光太郎の人間の部分をたくさん知っている。それにこれは、どっちが悪いとかそう言う単純な話ではないと思う。その結果を、何も見ていなかった朱音がどうして語れるのだろうか。どうしても否定したくなった。


「お前に何でそんな事がわかる?」


「そりゃ、色んな人見てきたからな」


「表面上の人柄だけで、その人たちに起きた問題の全貌がわかるのかよ」


「大体の察しはつく」


「知った風に言うなよ! 俺の事も、光太郎の事も何も知らないくせに、知ったかぶって偉そうな口聞くな! 俺のどこが悪かったんだ、何で光太郎が正しい、ちゃんと具体的な理由もないのに勝手に決めつけるな!」


 激情した博臣に驚いた朱音だったが、すぐに返される。


「何や、人がせっかくアドバイスしちょるのにその言い草」


 だが、何と言われようと引く気は無かった。自分達の問題なのに、簡単に他人の言葉をうのみにしていては何も解決しない。


「何がアドバイスだよ、てきとーな事言ってるだけじゃないか。そんなのはありがたくも何ともない、ただ迷惑なだけなんだよ」


「黙って聞いてれば偉そうに」


「偉そうなのはお前だろうが、何も知らないやつに間違ってるなんて言われたくないんだよ!」


 手が出そうだった。

 というか、拳を握って振りかざすところまで来ていた。だが、後ろから羽交い締めされ、その動きは止められる。


「菊地先輩……」


 博臣の後ろを見て朱音が呟いた。どうやら今博臣を止めてくれたのは菊地らしい。自分が暴力を振るわなかった事に安堵する。その様子を見た菊地は、必要性を感じなくなったのか拘束を解いた。


「八代がどっか行ったと思ったら、今度は橋本と喧嘩か」


「…………」


 何も言えなかった。こんな立て続けにチームメイトと喧嘩して、協調性に欠けるやつだと思われたら見限られるのも時間の問題だ。博臣は俯いた。


「橋本、落ち着いたら宮田を連れてこいって言ったろ。怒らせてどうする」


「いや、だって博臣が俺は悪くないの一点張りで」


 菊地は博臣を見た。

 とにかく朱音の言い方には語弊がある。認識を修正させるべく、博臣は仕方なく口を開いた。


「朱音が、光太郎が正しい、お前が悪い、と何も知らないのに決めつけたんです。だから、何も知らないお前が何故そんな事をわかるんだって言ったんです」


「それは本当か? 橋本」


「そうです、どちらが悪いかなんて、普段の二人を見ていればよくわかるじゃないですか!」


 菊地は博臣の肩に手を置いて優しく笑いかけた。そして、朱音へと視線を向ける。


「お前は、見かけで人を判断したのか」


「え、き、菊地先輩?」


「八代は確かにいつも正しい。三年の俺もビックリするほどに的確な判断をする」


「でしょ、なら」


 菊地は右手のひらを前に出し、朱音の言葉を止める。その行動には、怒りのようなものが混ざっているような気がした。


「だがな、完璧な人間なんていないんだ。必ず正しい人間なんて絶対にいないんだ」


 二人の沈黙を確認してから言葉を続ける。


「他人の問題に口出しをしたのが、橋本の今回の失敗だ。反省しろ。お前がしたのは宮田に対する侮辱だぞ」

「ぶ、侮辱だなんてそんな」


 朱音は博臣の表情を伺った。

 そこにはもう怒りの感情は見当たらなかった。だが代わりに、喪失感のような空虚なものが見受けられた。朱音は思わずその表情に嫌な寒気を感じた。


「二人とも今日は帰れ、こんなんじゃまともに練習なんて出来んだろう」


 博臣は一礼してその場をあとにした。


「ちょ、あんまりじゃないですか先輩」


「お前ももう少し考えろ。自分が何をしたのかを。それこそ、正しい事をしたと思ってるなら大間違いだ」


 菊地の目は本気だった。優しい人というのは怒らせると怖いと言うが、本当に恐ろしかった。朱音は一回頷き、帰路へと向いた。


「わかりましたよ」


 歩き出す朱音の姿を呆然と見つめる。菊地は二人の姿が見えなくなるまでその場に立ち尽くした。






 放課後は特にすることもないので真っ直ぐ家に帰る。いつしか歩にとって、それが当然の事となっていた。


「歩、ちょっと来い」


 だから、教卓から出された自分の名前に思わず目を開いた。教卓から、何て言うくらいだから呼び出したのはもちろん担任だ。名前は確か、大久保だったか。どちらにせよ呼び出されたのは始めての事だった。帰ろうと思ってたのに、そう思いつつも取り敢えず立ち上がる。思い当たる節はいくつかあるが、一体どれの事だろうか。


「何ですか?」


 大久保は歩み寄る歩に視線を合わせるが、何も言っては来ない。何も言わないのか、何も言えないのか。

 だから、先生の前にたどり着いてからもう一度聞いた。


「何ですか?」


「ちょっと一緒に指導室まで来い。叱ったりする訳じゃない、お前と話がしたい」


 長くなりそうなら行きたくない、とは言えなかった。素直に先生のあとを追う。

 指導室は職員室の目の前だった。例外はあるだろうが、指導室に呼ばれるやつなんてロクなやつじゃない。ここなら問題が起きても、すぐ他の先生たちも対応できる。理にかなった配置だと思った。

 先生が鍵を開けて先に入る。歩も後から続いた。


「座って」


 テーブルを挟んで、奥に大久保が、手前に歩が座った。


「宮田博臣と話をした」


 歩は何も言わなかった。博臣にはもう興味は無いと、相手に受け取ってほしかったから。だが、そう上手くもいかないもので、大久保は話を続けた。


「歩、お前もう一度サッカーやってみる気は無いか?」


「もう一度?」


「お前が小中とサッカーをやっていたのは知っている。中学の方は途中で退部したみたいだけどな」


 歩の脳に中学の頃の記憶が戻ってくる。

 出てくるな、やめろ。そう言い聞かせ、自分を落ち着ける。


「俺はもう二度とサッカーはやりません。話がそれだけなら帰らせてください」


 歩は立ち上がり時計を見た。あれからまだそれ程の時間はたっていない。今から帰ってもまだいつものペースを保つことができそうだ。


「座れ歩。まだ話は終わっていない」


 だが、どうやらまだ帰らせてはくれないらしい。もう一度座り、鞄を隣に置いた。


「次の話は、一昨日の件について何だが」


「あれは誰も知る必要はありません」


「何だと?」


「あれは誰も知る必要は無いと言ったんです」


 テーブルが微かに揺れた。前を見ると、大久保の握っていた拳の震動がテーブルに伝わっているのだと気づいた。怒ってるな、そう思った。


「お前のせいで、宮田は右手に火傷を負ったんだぞ」


「な、何だそれ」 


 初耳だった。それに、博臣が、昨日も部活動に参加していたのを見ている。だがそれらしい怪我は確認していない。


「どういう事ですか」


「お前がいきなり倒れたのを宮田のせいにして、中西という先生が暴行起こしたんだ」


 中西、昨日の放送で流れていた生徒虐待で退職に追い込まれた先生だったか。


「な、何でそんな事に」


「言い方が悪かったな。事がお前のせいで起こったとは言わん。あれは紛れもなく中西のせいだ。だがこうなった事にお前が無関係だったわけじゃない。宮田にくらいは、ちゃんと話してやっても良いんじゃないのか」


 余計なお世話だと思った。たとえ今回の件で学校が騒ぎになろうが、言いたくないものは言いたくない。それを決めるのは、他ならぬ歩自身だ、他人が決めて良いものじゃないはずだ。そう思った。


「話がそれだけなら今度こそ帰ります」


「歩」


 立ち上がりかけたままの体制で大久保に顔を向ける。


「みんな心配してるんだぞ」


 鞄を手に取り、歩は指導室から出ていった。取り残された大久保は、一人大きく深いため息をついた。

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