2.再会の瞬間
肩に重みを感じて、思わず目を開いた。
「博臣、入学式終わったぞ」
「え?」
気づいて辺りを見回すと、数百といる生徒が皆体育館から出ていくのが見えた。時計を確認すると、最後に目を閉じた時から一時間程たっている。どうやら無意識のうちに眠ってしまったらしい。
「そっか、つまんなかったな入学式」
校長先生の長い話、その他の先生の長い話、保護者代表の長い話、すべてがつまらなくて面倒くさい。寝てしまう方が合理的な時間の使い方だと言っても過言では無いはずだ。
「寝てたくせによく言うよ、何でも始まりが肝心なんだぜ?」
「その肝心の始まりがつまらないって言ってるんだけどね」
それは気の持ちようだ。光太郎はそう突っ込みたかったが、それよりも前方にいる群れの中に視線を奪われた。
「ん、光太郎?」
「あぁ、それは気の持ちようだろう」
「それはそうなんだけど……それより、前に何かあったの?」
「あぁ、ほら、あそこにいるやつ」
前方を指さし、光太郎は言葉を続けた。
「あれってさ、大我じゃないか?」
群れの中の左から三番目、光太郎の指さす丁度真ん前に、大我の姿があった。
大我、森大我は小学校の時のサッカークラブのメンバーの一人だ。小学生にしては背は高めで、短い髪と大人びた顔が印象的だった。だが髪型は当時から変わっていなかった。顔は当時よりもごつごつして大人っぽくなっており、イケメンと言うよりは男前という印象を受けた。だがその姿は他でもない、間違いなく森大我だった。
「大我!」
大きく手を振り名前を呼ぶ。
大我は、名前を呼ばれたことに気づき、辺りをキョロキョロと見渡してから、やっとこちらに気づいた。そして、目を輝かせて突っ込んできた。
「ヒロロンにこたちゃん! 久しぶり!」
ヒロロンとこたちゃんは、昔に大我から授かったあだ名だ。
子供のように手を取りはしゃぐ大我に博臣は込み上げてきた笑いを隠すことができなかった。
「あ、笑ったなー!」
「いや、だ、だって大我が、そんなめっちゃ大人っぽい顔つきになったのに子供みたいにはしゃぐから何かおかしくって」
昔から変わってないんだ、と少しだけ安心する。
「さすがにこの歳になってこたちゃんはやめてくれ」
「うわぉ想像以上に変わってないねこたちゃん」
「だからその呼び方やめろって」
懐かしい。そんな感情が脳内を支配し、暖かい気持ちが込み上げてくる。
「何々、もうみんな集まっちゃってんの」
背後から肩を叩かれて光太郎は思わず前に飛び退いた。
「ははは、光太郎は相変わらず大袈裟だな」
「そのヘラヘラした顔はまさか豊なのか!?」
寒川豊。彼もまた小学校サッカー仲間のうちの一人だ。
だが、彼は大我とは違い当時と比べ随分と雰囲気が変わっていた。昔は短く切っていた髪は肩まで届くくらいの長髪になっており、まだ入学式だというのに茶色く染められていた。
「ヘラヘラとは失礼な、ニコニコと言ってもらいたいものだね全く」
やれやれ、とでも言いたげに豊が笑う。
「どうやら豊は堕ちるところまで堕ちたようだな」
「ちょっと待って、なに人を勝手に終わってるやつみたいな言い方してんの?俺なにもやってないよね?」
光太郎の小言に敏感に反応するその姿は、やはり昔と何も変わっていなかった。
何だか昔に戻ったみたいだ。
博臣は懐かしむように目をつむった。
「そういえば、俺は大分変わったかもしれないけど、君ら三人は驚くほどに変わってないね。光太郎と大我は顔つきが大人っぽくなったって点では変わったけど、博臣に至っては背が高くなった以外に違いが見つけられないんだけど」
失礼な、博臣は自分がどんなに変わったかを思い知らせてやろうと必死に考えた。無理だった。何も変わってなかった。
「俺、そんな顔つき変わったかな」
自分の頬をペタペタと触り不思議そうに呟く光太郎。それを見ていた博臣は、指摘してやろうとも考えたが、ずっと一緒にいたせいもあってか、その違いに気がつく事ができなかった。
「めっちゃ変わったぞ! 眼鏡が似合いそうな顔になった!」
「うっさ! てか、それは誉めてるんだよな?」
声のでかい大我に思わず目をつむる。どうやら名前の通り、我の強い声の大きな子に育ってしまったらしい。
博臣と豊は思わず顔を見合わせて笑ってしまった。
「それにしても、俺たち運良いな」
まだ教室にも行っていないのに、こんなに早くまた会えるなんて思ってもいなかった。三年も経てば人は変わると思ってたし、何より小学生の時の約束なんて忘れていると思ってたから余計にだ。
そう、もっと言うなら、博臣はたとえこの高校に入学しても、他のメンバーに会えるとは思っていなかったのだ。
「わかる、俺たち三人同じクラスだもんな!」
「うん、え、あ、そうなの。ま、そしたらそれもそうなんだけど」
言葉を選ぶ。
「小学校の頃の約束なんて、みんな忘れると思ってた。だから、また再会できたのはすごく嬉しいんだ」
けれど博臣は、この言葉が完全に本気だった訳ではなかった。嬉しい、確かにまたみんなに再会できたのは嬉しかったが、足りなかった。一人、足りなかった。
「当たり前だろ、また十一人でサッカーしようって約束したし」
大我が親指を立て、白い歯を覗かせながらニッと笑う。
だが、他のメンバーが見当たらない辺りその約束はもう果たせないだろう。まあ博臣はそれでも構わなかったのだが。
「あ、ごめん、俺陸上部入るから早くもその夢叶わないわ」
もう少し夢を見せろよ……。
手を合わせ、舌を出しながら言う豊に、三人からのブーイングが走る。
「こら! そこの男子の集団、早く自分のクラスへと行きなさい!」
式の最初に、前に出て話していたおっさんに怒鳴られる。誰だあいつ。
「校長先生だよ」
光太郎が簡潔に答える。
「考えてることがわかるのか。凄いな、まるでエスパーだ」
「当たり前だろ、何年一緒にいると思ってるんだ」
「早く教室に行かんか!」
「はーい、すみませーん!」
博臣たちは散り散りに各々の教室へと向かった。
誰もいない体育館を振り返り、綺麗に並べられた椅子の影を見下ろす。
歩、お前はこの中のどれかに、ちゃんと座っていたんだろうな。
この時の博臣の心情は、さすがの光太郎でも理解することはできなかった。
一年二組に配属された三人は、各々指定されている席を確認し、早いうちにそこについた。これから何かと忙しくなりそうな気がすると言う光太郎の勘だ。
博臣は、廊下から二列目、前から四番目という中々微妙な席に腰を下ろし前を見た。小学生の時は廊下側から出席番号順だったのだが、どうやら高校では窓側かららしい。
「どのみち宮田だしな」
「へー、宮田って言うんか」
「うわっ」
左からいきなり顔が現れる。それ故、博臣は思わず椅子をならしてしまった。
そのせいで周りから注目を浴びたが、何もないとわかった途端に皆はそれぞれの会話へと戻っていった。
「何だよ」
「わりーわりーそんなに驚くとは思わなかったんや」
博臣は若干警戒した。今までのやつらとは違う、一切知らない顔だった。
「誰」
「俺か? 俺は、そう、橋本朱音だ。オーケー?」
何だか言語が定まらない人だ。
「お前は?宮田……」
そこで自分がまだ名乗ってないことに気づいたが、博臣は少しだけ考えた。こいつは本当に信用できるやつなのだろうか。クラスメイトとはいえ、他人に簡単に名前なんて教えて良いのだろうか。
「そんな警戒せんでも、取って食ったりなんぞせぇへんよ。それに、名前なんてどうせあとでわかるじゃろ?」
それもそうだ、悩む必要なんてなかった。あとやっぱり言葉遣いがなんかおかしい。
「宮田博臣だ」
「やっぱりな」
やっぱりとはどういう事だろうか。
「お前、中学三年の時県大会決勝でハットトリック決めたやつやろ」
「何処で、何でそれを?」
「俺も県大会決勝に出てたからな」
何ということだ。つまり朱音は、博臣が決勝戦で戦った相手チームのメンバーだったということだ。
「正直、決勝戦で五点差もつけてやられるなんて思わなかった」
「まあそれは俺が強いから仕方ない」
自信満々な受け答えに、朱音は眉を寄せた。
「やけに自信満々やな」
「いや、自信というより事実なんだけど」
博臣の瞳を見る。どうやら冗談で言っている訳ではないらしい、その上彼の言動には何処にも自信が感じられない。言うならば自分が思っていることを率直に語っている、そんな感じがした。
「大したやつじゃな」
「そんな事よりも、俺は朱音のそのしゃべりかたの方が気になるんだけど」
「ん?これはな、キャラ作りだ」
博臣はため息をはいた。これ程までに何かに呆れたのは久しぶりな気がする。
「そんな大きなため息はかなくたってえぇやんか」
「やめろ、キャラ作りってわかったら、もうお前の中途半端な方言は聞きたくない」
「えろうはっきり言うやんか」
「隠し事は苦手なんだ」
朱音は成る程、と納得したように目をつぶる。
それは、彼の何に対しても全力で向き合うその姿が、サッカーでのプレースタイルにも大きく出ていたからだ。得点差がついても、博臣だけは決して手を抜くことはしなかったし、シュートもパスもドリブルもディフェンスも、不格好な程に本気でやっていた。これは朱音が納得するには十分な理由だ。
「でもな、やめよう思うてもずっとやってたら癖になってしもうて、やめるにやめれんのじゃ」
「それはわからんでもないけど。じゃあ直す努力をしてくれ」
そこで教室の扉が開く音がして背の高い男が侵入してくる。
「はーいじゃあみんなホームルームを始めるぞー。席につけー」
言葉に強弱がない、止めるべき点で止まらないメリハリの無い気怠げな声が博臣たちの会話を遮って教室中に響き渡る。
「今日から担任になった鵠沼だ。以後よろしくー」
鵠沼と名乗ったその男は面倒くさそうに生徒の名簿を机の上に置き、教卓に腰を掛けた。言葉遣いもそうだが、細めている目には眠たげなくまができており、とても気怠げな雰囲気の人だ。見ているこっちまで怠くなってくる。
「なんか見てるこっちまで怠くなってくるな」
博臣の思考を読んだかのように朱音が囁く。博臣は軽くうなずいてから前へ向き直った。
「うるさいぞ橋本朱音と宮田博臣」
不意に名前を呼ばれ朱音の心臓が跳ねあがる。博臣も驚いたが、それは名前を呼ばれたことに対するものではなかった。自分の名前を知っていたことに対する驚きだ。
「先生、もう俺らの名前を覚えてるんですか?」
鵠沼は何がおかしかったのか急に笑い出した。一部の生徒が引いているのが目に入ったが、そんなのも気にならないくらい鵠沼の笑いかたは豪快だった。
「当たり前だろう、俺は先生なんだから。先生が生徒の名前も知らんでどうやって教育していくんだ」
確かに言われてみればその通りなのだが、見た目からして名簿に目を通すような面倒な真似はしないかと思ったのだ。だらけて見えるわりにしっかりしているらしい。素直に反省する。
「そうですよね、失礼しました」
その時に周囲からくすくすと笑い声が聞こえるのを博臣は聞き逃さなかった。
その日の授業はホームルームで終了した。明日は健康診断があるらしい。非常に面倒だった。
「よぉおヒロロン、一緒に帰ろうぜ!」
博臣が声をかけるより先に大我に声をかけられる。そういえば大我も同じクラスだったな、という言葉を飲み込んで立ち上がる。
「大我もチャリ通か」
「まぁあの距離だしな」
平塚駅付近に住んでいる博臣たちは式高まで自転車で行くのに四十分ほどの時間を要さなければならない。決して大我が言うほど手軽な距離ではないはずだ。
「成る程、大我からしたら楽なんだなこの距離は」
「当たり前だべよ。俺は岐阜まで自転車で行ったんだぜ?」
「は? 岐阜!? あり得ない」
「あり得るあり得る、まあ一泊はしたんだけどな」
「はぁ。お前とんでもない自転車野郎だったんだな」
失礼な、と言いながら脇腹をつついてくる。久しぶりだと言うのに一切距離感が変わっていない。その感覚がなんだか博臣には暖かく感じ、嬉しかった。
「さあ、そろそろ帰るぞ」
見物人として立っているだけだった光太郎もしびれを切らしたようだ。
「そうだな」
鞄を手に取り、隣の席に向き合う。
「じゃあな、朱音」
イヤホンをつけていた朱音は、聞こえていなかったのか無視したが、すぐに博臣の存在に気づくとまたね、と手を振った。
階段を降りればすぐに下駄箱だった。そして下駄箱を出ればすぐに駐輪場だ。
「俺たちこっちに停めたから、あとでな」
光太郎たちと駐輪場で別れ、自分の自転車を探す。その時、目の前を一つの桜が横切った。
上を見ると、校内に咲いていた桜はすでに散り始めている。風に靡くその花びらは、まるで新入生たちを迎えるための、華やかさを演出しているのではないかと思わせるほど、魅力的で美しかった。
「何でも始まりが肝心なんだぜ?」
入学式のときの博臣の言葉を思い出す。確かに、これだけの桜に迎えられながら入学できる素敵な学校で悪いことが起こるなんて考えられない。始まりが素晴らしければ、きっとこれからの学校生活も素晴らしいものになる気がする。
自転車の鍵を挿してサドルにまたがる。
今日は、その素晴らしい学校生活のための第一歩。そう思うとこれから先に期待と夢が膨らんだ。
「歩、お前もいるんだろ?」
誰にともなくそう呟き、博臣は自転車を走らせた。
次の日、健康診断は午後まで続いた。やることが多かったわけではないが、どの診断や測定も並んでる時間が多かったのだ。式島高校は一クラス三十五人の十クラスで編成されている。それが三学年あると考えれば時間がかかることも最早わかりきっていることだ。
あとは帰りのホームルームが済めば今日の学校も終わる。様々な再会を味わった昨日に比べて何とも味気ない一日だったが、明日からは一年生も部活動に顔を出せると聞いた。それならば一日くらいを無に費やしてもバチは当たるまい。
「何もない一日だったな」
「そうか?俺は身長が去年に比べて五センチも伸びた!」
自信満々に記録表を見せる大我に、博臣は微笑んだ。が、数字を見た途端その表情は驚愕に染まる。
「百八十だと!?」
用紙には身長、百八十センチと表記されていた。当たり前だが、名前の欄には森大我とも。
「もはや巨人だな」
「はは、恐れを成せ人間ども!一人残らず食い尽くしてやるわ!」
相変わらず大きな声を出しながら両手を広げ今にも食ってかかりそうな動きをする。その姿は彼の体格の良さも合間って確かに巨人に見えた。
「マジで巨人じゃねーか!」
「マジかよ!」
いやマジかよって何だよ。
「おい博臣、そろそろ先生来るぞ。トイレ行くなら今のうちじゃないか?」
大我の頭を叩き、後ろから疲れた顔をした光太郎が姿を現す。
「何か疲れてるけどどうした?」
「いや、ちょっと職員室で色々あってな」
「そうか、ところで何で俺がトイレ行きたいってわかったんだ?」
「勘だよ、行くなら今のうちだぞ」
「うん?」
光太郎に急かされるように、博臣は立ち上がり教室をあとにした。その姿を見届けた光太郎は博臣の席へと腰かける。
「何かあったのか?」
珍しく、ボリュームを下げて大我が問いかける。
「いや、トイレに歩がいただけだ」
「歩が!?」
「声がでかい」
光太郎は忌々しげに机を指で叩きながら短くため息をはいた。この行動は、普段は冷静な光太郎からは想像もつかない事だ。
「んで、歩とは?」
「あいつ、俺と会っても人違いだとか何だとかで全然話そうとしてくれないんだよ。全く、俺が何をしたって言うんだ」
本当に人違いなのでは?一瞬そう思ったが、大我は手に持っていたお茶と一緒にその考えを飲み込んだ。光太郎は記憶力が良く、プライドが高い。簡単に間違えたり、生半可な自信でこんなことは言えないはずだ。
「だから一番仲の良かった博臣を行かせたわけか。だからってあのやり方は……」
今回は何故かたまたま上手くいったが、あれでは不自然きわまりない。
「博臣になら大丈夫だ。トイレなんか行きたくないって言っても、後で行きたくなるんだから今のうちに行っておけと言えば言うことを聞く」
「完全に母子の会話なんだが」
関係が絶たれていた中学校三年間で何があったのか少しだけ気になる。まあ光太郎が博臣を甘やかしてなついたとか単純な話なのだろうが。
「上手くやってくれるだろうな、博臣」
大我はこれ以上口を開かなかった。どうなるかなんて、自分にわかるような事では無かったし、それを口にするような勇気も大我には備わっていなかったから。
トイレへは簡単にたどり着いた。廊下を出たら左に真っ直ぐ、その突き当たりだ。
途中、一組の教室が見えたが、中にいる人に見覚えのある人物は……。一人だけいた、陸上部のチャラ豊だ。
確かこの学校は成績優秀者から一組に振られると聞いている。自分も十組あるうちの二組だしそれなりに勉学には自信があったが、まさかあのチャラ豊が一組に所属しているとは。
「さて、成り行きで来てしまったが、どうしたものか」
その時、奥から物音が聞こえ博臣は肩を震わせた。最近、特に入学式の後辺りから知らない人に一人言を聞かれる機会が多くなった気がする。恐る恐る中を覗いてみると、そこには男が一人用を足していた。
まあ別に男子トイレに男がいる事は不自然では無いのだけれども。
「……」
博臣が来たことに気づいてるのか否か、彼はこちらには視線を向けずに無言で前方を向いていた。
「え」
その顔を見て、思わず声を発してしまう。
「ん」
そこでようやく気づいたのか、男はこちらに振り返った。百八十後半はあるであろう身長の男に見下ろされる。体格もよく、半袖からはみ出ている腕の筋肉は思わず目を引くほどのものだ。
だが、逆に博臣は気づかされた。
気づいてしまった。
「歩……?」
「ひ、博臣」
小学生の頃、博臣よりも頭一個分背の小さかった歩は、三年の時を経て頭一個半分も博臣を越すほど、大きくなってしまっていたのだ。
「歩、歩なんだな!」
見た目は随分と変わってしまっていたが博臣には些細なことだった。どんなに体が大きくなっても、可愛らしい真ん丸の瞳だけは昔と変わっていなかったから。
「ひ、博臣」
歩が、博臣の名前を呼んでいる。それだけで、博臣はいっぱいいっぱいになった。嬉しくて、遠くに行ってしまった親友が帰ってきてくれた喜びに、今にも泣き出してしまいそうだった。
だが歩は、罰が悪そうに表情を曇らせ、行き場をなくした視線をその足元に落とした。浮かれている博臣にはそんな行動は些細なものだったのだが。
「歩」
だが、それでもすぐに異変に気づいた。
「その傷、一体どうしたんだよ」
そう、歩の左頬には、決して見過ごす事の出来ないほどの大きな傷跡があった。まるで刃物か何かで切られたような、そんな跡だ。
「中学でやられたのか?」
「お前には関係ないだろ」
歩の目がようやく博臣を捉えた。
「な、何だよ」
「お前には関係ないって言ったんだよ」
その目は、間違いなく博臣を睨んでいた。
「何でそんな言い方をするんだって聞いてんだよ!」
終わったのか、歩はズボンのファスナーを閉め音をたてながらベルトを締めた。博臣の横を通りすぎ洗面所で手を洗いはじめる。もちろん博臣はそれを黙って見過ごすわけがない。
「無視すんなって!」
「うるせぇな、お前もさっさと済ませて自分の教室に戻ってろよ。俺に構うな、もう二度と話しかけるな」
「一緒にサッカーやろうって約束しただろ!何でいきなりそんなに怒るんだよ」
「うるさい、俺はもう二度とサッカーなんてやらないしお前とも話さない。不愉快なんだよ、今すぐに消えろ」
絶望した。今までに、これ程ショックを受けた事があっただろうか。いや、無かった。だから、信じ続けていたものを、大切だと思っていた絆を、こんな簡単に裏切られるなんて思ってもいなかった。
心臓が高鳴った。呼吸が苦しくなり、今まで感じたことの無い感情が胸の奥から滲み出る。
「お前なんか歩じゃない」
「は?」
視界が歪み、辺りがぼやけ始める。
「約束したのに!」
「あ、博臣……」
気がつけば博臣は走り出していた、廊下を真っ直ぐ、何も考えずにただひたすら走っていた。走っていたかった。ずっとずっと、永遠に走っていたかった。
「ばーーかーーー!!」
博臣の大きな声は、一年のクラス全てに響き渡った。
憎々しいほど晴れている空に悪態をつきたくなった。先ほどまで降り続いていた雨が心地よかったから。悲壮的な自分の思考を地球全体が表現してくれているみたいでいい気分だった。だから、せめてもの反抗として晴れ渡る空に向かい傘をさした。
「何やってんの歩」
背後から自分の名前を呼ぶ声が聞こえたが、歩は振り返らなかった。自分の名前を呼ぶ人間なんて今となっては限られている、振り返らずとも誰かはわかった。
「別に」
とりあえず、そう返しておく。
「はぁ、あんまり変なことしちゃ駄目よ。私、あなたを悪目立ちするよう子に育てた覚えはありませんからね」
背後の声、寒川豊は、ため息を交えながら子を叱る母親のような口調で語り始める。だが、そんな豊の悪ふざけは歩をよりイラつかせた。
「うるせぇよ」
「つれないなぁ、とりま傘はしまっとけって」
傘を奪い取られ勝手に閉じられる。
お節介だな。
腹立つ気持ちを抑えながら歩は日なたへと歩き出した。春の太陽は暖かい。それはまるで自分の心地良い温度を狙って発しているかのような熱量だ。
「ちょっと歩、人に傘持たせて歩き出さないでよ」
「お前が勝手に持っていったんだろうが」
「いやそりゃそうだけど」
傘を歩に押し付け、今度は豊が前を行く。
校舎を出るとまず満開の桜が目に入る。どこから出てもだ。式島高校は学校全体が桜で囲まれていた。これが夏になれば葉っぱに代わり、冬になれば枯れるなんて信じられない。それくらいに美しくて魅力的だった。
「博臣と何かあったんでしょ」
桜を見ながら、豊はいつもの軽い調子でそう言った。返事はない。
「じゃあ言い方を変えよう」
豊は振り返り歩の目前まで歩み寄った。
「博臣に何か言ったでしょ」
歩の表情が歪む。博臣と歩はとてもよく似ている。思っている事はすぐに顔や行動に出るし、思ってることは言わなきゃ気がすまない正直なやつだ。違うところと言えばそこで素直に言うか言わないか。歩はこういうとき、絶対素直にならない。
「お前が思ってるようなことは何も言ってねーよ」
「えー、本当かなー」
「傷に触れられたから、お前には関係ねぇ、不快だから話しかけんなって言っただけだよ」
豊は歩の頬の傷跡を見た。刃物で切りつけられたような十センチ程もある傷跡。豊も、詳しくは知らないが中学生の時につけられたらしい。
黙り込んでしまった豊を不思議に思ったのか、歩は顔を覗き込んだ。
「大丈夫か?」
「おお、大丈夫大丈夫! ビックリした」
一回、リセットさせるかのように咳払いをする。
「話を戻すけど、歩、あんまり誤解させるような言い方ばっかりするなよ?博臣はお前にだけは百パーセントの信頼を置いてるんだから。傷ついて明日から学校来なくなっちゃうかもしんねーぞ?」
「は?何で俺に信頼なんか」
双方、互いを見合う。
「いや、あいつはお前にぞっこんだろ。見てみろよあのお前を見るときの輝いてる眼差しを」
「な、何でだよ。光太郎の方があいつと長くいたんだろ?信頼するなら光太郎の方だろ」
わかってないなぁ、とでも言いたげに肩をすくめる。
「博臣が何で、式高で十一人でサッカーしようなんて約束をしたのか」
答えを教えてくれないもどかしさに、歩の口が早くなる。口だけではない、焦燥感にかられているかのように歩の体は小刻みに揺れていた。
「お前が帰ってこなければならない理由を作りたかったからだよ」
にわかに信じがたい。
「信じられないって顔だな。だがな、俺はそこら辺の観察眼自信があるんだ。それにお前だって薄々気づいてるんじゃねぇのか?」
まさか、そう言い返そうと思った。その通りだなんて言ったらあいつは調子に乗るから否定しなきゃ、そう考えた。でも実際は口が動かなかった。何も言い返せなかった。もしもあいつが、博臣が昔のままなら、歩の事を心から信頼する。そう言いきれるほどの自信が歩にもあったから、心当たりがあったから。
「まさか、本当に博臣は……」
歩は、先程自分が博臣に放った言葉の数々を思い出した。そして、それを放たれた時の博臣の表情も。
あぁ、そんな信頼してくれてたやつに、俺はあんな事言っちまったってのか。そんな後悔が、脳内を駆け巡る。
「なぁ豊、俺はどうすれば良いと思う?」
過去の、中学の頃の記憶が歩の脳を抉る。暗闇の中、赤く染まる床を見つめる自分と目の前に倒れる男の姿が浮かぶ。
「俺は、どうすれば良かったんだと思う?」
「わっかんね!」
ウインクをしながら決めポーズを取る豊。思わず殴りたい衝動に刈られるのを何とか我慢する。
「でも、後悔してるなら謝ったら?」
豊の表情はふざけたそれとは一変して優しい笑顔になっていた。
謝る。言うのは簡単だが、それが出来ればどんなに楽か。あれだけ勝手に良い散らかして、今さら謝るなんて惨めだ。そんな意地が歩の中でうろついていた。
「謝ったって、許してくんねーかも」
「許すさ、博臣だもん」
二、三歩ステップを踏んでから振り返る。
「あいつはまだまだお子様のままだったからな」
豊の言葉は、何故かいつも信用できた。
凄いことになった。
自室の布団の上、朱音は天井を見上げながら喜びに心を震わせていた。いや、震わせていた何てものではない。喜びに心を大震させていた。
自分が取れない威力の球を蹴る男、宮田博臣。彼と同じ学校になり、その上同じクラスに、更に隣の席になったのだ。これを喜ばずして何を喜べば良いのかわからない。とにかく嬉しかった。
「やっと、始まったんや」
「朱音、いるの?」
朱音は起き上がり、開きっぱなしになっているドアの外を見る。おばさんの声だ、どうやら帰ってきたらしい。
「おかえり早苗さん。俺はもういるで」
朱音の家は少しだけ複雑だ。訳あって両親とは一緒に住んでいない。三年前から家にいるのは父の妹の早苗だけだった。
「遅くなってごめんねー。すぐ夕食の準備しておくから」
リビングの方からバタバタと忙しそうな音が聞こえてくる。
朱音は立ち上がり、リビングへと足を運んだ。
「手伝いますよ」
「あら、ありがとう、じゃあこれお願いね」
泥のついたニンジンとジャガイモを渡される。恐らく、洗ってくれということなのだろう。朱音は頷き渡されたものたちを洗面台へと運んだ。
「なんか今日の朱音嬉しそうね」
三年も一緒に住むと心が読めるようになるのだろうか、早苗の的を射た発言に朱音は少しだけ嬉しくなる。
「そうなんじゃ!中学のときの最後の県大会の決勝戦、覚えてる?」
「朱音くんが珍しく五点もとられたやつでしょ?」
「そうそう、その内三点とったの宮田博臣ってやつなんやけどさ、そいつと同じ学校で同じクラスだったんだよ!」
「でも、そんな宿敵と同じになって嬉しいものなの?何でこいつがここに、とかってならないの?」
わかってないな、とでも言うように朱音は人差し指をたてた。
「最強の敵が味方についたら、それは最高やないか。それに、あんな速い球でキーパー練習出来れば、今まで以上に強くなれる。本当に嬉しいことなんじゃ」
納得したように早苗も頷く。
「成る程、じゃあこれからの朱音の成長に期待だね」
「はい!見ててくださいよ、俺たちの成長ぶりを!」
鍋に火をかける音が聞こえてきた。今日の晩御飯はカレーだ。
式島高校に入学した理由、それは神奈川一の強豪サッカー部に入部するため。
たとえ共に入部しようと約束した仲間がそれを裏切ろうと、何をしていようとそんな事は関係ない。これは俺が決めたことで、俺がしたくてした事だ。
先日、再会した歩と口論した博臣は、常々自分にそう言い聞かせながら日々を送っていた。そうしなければ、信じ続けていた気持ちが、博臣の心が壊れてしまいそうで怖かったから。
「んで、昨日の発狂は一体何なんだ」
目の前の男は腕を組ながら博臣の事を見上げる。生徒指導兼一年学年主任の大久保大先生様だ。
「周りのやつらから聞く限りでは、宮田がこんなことをしたのは初めての事だそうじゃないか。何かあったのか?」
あなたには関係の無いことです。喉まで込み上げてきた言葉が意思によって腹の奥へと押し戻される。今は放課後、今日からは一年生も部活動に参加できる。こんなところで、もたもた話をしている場合ではなかった。
「友人と喧嘩になってしまって、今までそんな事無かったからちょっと取り乱してしまっただけです」
「友人と喧嘩、か」
少しの沈黙が、博臣に焦燥感を与える。この男は一体どれだけの時間を俺に無駄遣いさせる気だ。そんな考えが頭をよぎり、落ち着きがなくなってくる。
「どうした、何か急ぎの用事があるのか?」
「……部活動に参加したいと思ってたんです」
「おぉ、そうかそうか!ついでに何部に」
「サッカー部です」
「んじゃあ、ちょうど良いし後で一緒に行くか」
何がちょうど良いんだろう。
それに対する答えはすぐに返ってきた。
「俺サッカー部の顧問だからな」
「は?」
「別に何も驚くことはないだろう」
大久保は軽快に笑い今度は書類と向き合った。
「そうかそうか、小中とサッカー部をねぇ」
さすがに学年主任とは言えど、生徒全員の事をすべて把握しているわけではないらしい。資料に目を通しながら、たまに博臣に視線を合わせる。
「お前、中学の頃関東大会まで行ったことあるのか」
「は、はい。まあ」
大久保は、いきなり博臣の腕を掴むと勢いよく立ち上がった。
「中々やるじゃねぇか」
「中々じゃありません。俺は普通にやります」
「は? お前そういうこと自分で言っちゃ……」
途中で言葉を止めた。腕からも手を離す。博臣の瞳に、自信や自慢といった感情が見当たらなかったからだ。第三者の目線で、ただ事実を答えている。博臣から漂ってきた雰囲気はそんな感じだった。
自分を評価するときに自分の感情を一切出さない人間を大久保は見たことがなかった。それ故に、少しだけ、ほんの少しだけ寒気を覚えた。
「成る程、あくまで今のは評価か」
「高校の人たちがどうとかは分かりませんけど、少なくとも中学まではトップレベルでした」
間違いなく、これは評価だった。言葉遣いは自惚れている人間のそれみたく聞こえるが、彼からはトップレベルである事に酔っているとかそういう感情が見当たらないのだ。
「でも、足りない」
博臣は付け加えるようにこう言った。
「歩がいなきゃ、歩がいれば、俺たちはもっと上へ行けるんだ」
「歩って、瀬戸歩か」
「そ、そうです!先生知ってるんですか?」
「勿論だ、一組、俺のクラスの生徒だからな」
マジか!これ以上声量のせいで問題になるのは避けたかったので心の中で叫んだ。もう一度。
マジか!
「あいつとは知り合いか?」
「小学校の頃ずっと一緒にサッカーやってたんです。俺と歩は本当に相性が良かった。俺がいれば歩の強さを引き出せたし、歩がいれば俺はもっと強くなれた。最高のコンビだった」
「自分をここまで評価する人間も稀だと思ったが、他人をここまで評価するやつも稀だな」
「それくらい凄いって事です」
子供っぽいな。今、博臣に対し感じた言葉だった。元々、どこか幼げな雰囲気がにじみ出ていたが、それ以上に幼いと思った。まるで小学生を見ている気分になる。
「へぇ、あんな仏頂面のやつがねぇ」
同時に博臣に対し疑いが出てきた。果たしてこんな純粋で単純な子供に自分の能力を正確に分析する力があるのだろうか。見てみない分には何とも言えないのだが。
どちらにせよ、見てみる必要はありそうだな。
もう一度席につき、先程の書類をしまう。
「じゃ、歩を今ここに呼んでも良いか?」
「駄目です!」
博臣が慌てて手を振る。こういう行動の一つ一つが幼くて、小さい子を見ている気分になり少しだけ頬が緩む。
「今、喧嘩中なんです。昨日友達と喧嘩したって、あれ歩の事なんです」
「あー、だからあいつ昨日今日と不機嫌だったわけか。成る程なぁ」
やっぱり、傷の事気にしてたのか。大久保の話を聞き、確信した。うつむき、強く拳を握って歯を噛み締めた。昨日の事はどう考えても自分が悪いと思っていた。触れられたくない話題に触れられ、三年も経ったのにいつまでも友達気取りで話しかけてしまったのだ。こちらから謝らなければならないと、そう思っている。だけど……
「すみません……」
「何でお前が謝るんだ。高校生の喧嘩なんてよくある事だ」
「でも悪いのは俺です。歩が気にしてること言っちゃったから……」
大久保の拳が博臣の胸を軽く小突く。
「だーから言ってるだろうに。高校生の喧嘩なんてよくある事だ。悩むのは良い、いっぱい悩んで何が正しかったのか考えろ。だがその事自体を悪いと思うな。子供が成長するためには時に間違うことも必要なんだ」
博臣は大久保の言っている事がよくわからなかった。喧嘩が悪いことじゃないなんて、悪いことに決まっているじゃないか。第一、間違えずにすむならそれが一番じゃないか。
「よくわかりません」
「今はまだそれで良い。けど博臣。たくさん悩めよ、お前の見えてる世界は、ふっと視点を変えたら全く違う色で見えていたかもしれないぞ?」
これもまた博臣にはよくわからなかった。見えているものは、見えているものがすべてだ。そこには疑う余地なんて無いし、それ以上のものもそれ以下のものも存在しない。
大久保は不思議な人なんだ、そう思った。
「わかった、んじゃあとりあえず部活行くか」
「え、お咎めは無しなんですか?」
「何だ宮田はお咎めされたいのか。Mか?」
「ま、まさか違いますよ」
大久保は、ははは、と豪快に笑った。
「確かにあれはうるさかったが、まあ大体の人間性はわかった。悪ふざけでやった訳でも、頭がおかしいやつって訳でも無い。よってこれ以上話すことは無い。わかったか?」
「ま、まあそれで良いなら」
納得はできないが、早く部活に行けるならそれに越したことはない。
そんな博臣の様子を理解してか、大久保は立ち上がり歩き始めた。
「ついてこい、部室まで案内してやる」
振り返らず、歩きながら言う大久保の背中を追うように、博臣も職員室をあとにした。