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BURN・BABY・BURN

 お菓子研究部。

 そこでは、お菓子を食べる人全てのため、そしてお菓子そのものの明日のための方向性を示唆するべく、研究員たちは命を懸けて努力していた。

 その責任を一身に引き受ける大黒柱、日高ヒダカ部長と、その右腕としてモテそうなお菓子求めて世界狭しと飛び回る副部長、曽我千恵ソガ チエは向かい合って座っていた。


 研究室にではない。メキシコ料理レストラン『ラスカラチャ』のテーブル席にだ。

 これから、ゴージャスかつエキゾチックかつホットなディナーが始まろうとしていた。


「お菓子のことばっかり考えてもよくないので、二人っきりで晩ご飯といきましょう~」


 千恵が、にこやかに言う。


「命を懸けた結果がそれかよ」


 部長は落ち着かなげに、店内を見渡した。

 レストラン内の壁や天井には、メキシコの国旗や様々な魔除け、サボテン、牛骨が無秩序に飾られている。そして、レストラン全体が妙に薄暗い。厨房から届く光と、テーブルの上のランタンが唯一の光源だ。そんな中を、ラテン系の顔立ちのウェイターが足早に歩き回っている。

 部長がいつも行く、安っぽいファミレスとは違うタイプのレストランであった。


「お菓子ばかり食べてるのが健康にいいはずありません。ちゃんとした食生活を送ってこそ、スナックの開発にも身が入るってものです」


 千恵はそう言って両手に持ったマラカスを振った。

 今日の千恵はカラフルなポンチョを羽織り、頭の上にはソンブレロを乗っけている。

 そして両手にマラカスを持って、自らBGMを奏でていた。


「何でメキシコ料理なんだよ……。俺はウナギが食いてえな」

「おごってあげますから、つべこべ言わないでください」


 千恵に言われて、部長はうなずいた。

 部長は末期的なしみったれの上、慢性金欠であるので、部下におごってもらうという行為の道徳的側面に悩まされるということもない。 


 千恵は頭に被っているソンブレロの下からポッキーの箱を取り出した。


「現在、我々お菓子研究部はポッキーの発展及び再開発に全力を尽くしています。今回はこちらの店に、いくつかレシピを提供して、ポッキーを生かしたメニューを制作してもらいます」

「お菓子研究部にしては、まともな活動だな」

「食後のデザートとして、以下のものがあります。アップルパイとバニラアイスクリーム&ポッキーのア・ラ・モード、ココナッツ味の揚げアイスクリームにバナナとポッキー添え、タピオカ・プディング&ポッキーのハリネズミ……」

「興味をひかれるメニューじゃないか。よし、早速、全種類持ってこさせよう」

「デザートはご飯の後!」


 千恵が一喝した。部長は憎々しげな唸りをあげる。


「俺の母親でもないのに口うるさく言うな」

「残念でした。部長の母上から、部長の面倒を見ることを一任されています」


 千恵は勝ち誇った顔で、ポンチョの下から委任状を取り出す。


「ぐぬぬぬ……」


 一人の男としての品格を侵害されて、部長の顔が赤黒く怒張した。

 千恵は、ふっと穏やかな顔に戻って言う。


「怒らないでくださいよ。後で、ピニャータ割らせてあげますから」

「ピニャ何だって?」

「ピニャータ。メキシコのくす玉みたいなものです。お祭りの時には、誰が早く割れるかを競い合います。中には山ほどお菓子が入っているというわけです。メキシコの子供は大好きですよ」

「どこにある?」


 千恵は部長の頭上を顎で示した。

 一抱えもありそうなカラフルな紙製の山羊が天井から吊るされていた。これがピニャータである。


「レストラン側に用意して貰いました。もちろん、中身もあります」

「俺は子供じゃないんだ。くす玉ごときで楽しめるか」

「そうでしょうか? 誰しも、心の底に幼い魂を残しているものですよ。ピニャータの中身は、割ってからのお楽しみ~です」


 千恵はにっこりして言った。

 まあ、中身はポッキーなのだろうな。冷めた表情で部長は予想した。


「さあ、注文しましょ。私はお腹こぺこぺです。部長は何にします? ブリトーですか? タコスですか?」

「ブリにタコだと? ここは寿司屋か?」

「早く決めてください。喋れば喋るほど恥をかきますよ」


 部長は顔をしかめて、メニューをのぞき込む。だが、部長のメキシコ語読解能力は二歳児なみだった。それでも、どうにか単語を拾い上げる。


「おい、この……チミチャンガって何だ?」

「堅いブリトーですよ。これでいいですね? 注文します」


 千恵は片手を振って、ウェイターを呼んだ。


「ディスクルーペ。デメ・セグンド・チミチャンガ、エステ・ポル・ファボール。ムーチョ・ハケ・カルロソ・バルシオンで」

「シー。エンセグイダ」


 千恵は流暢なスペイン語で注文した。

 驚くにはあたらない。千恵は、メキシコのバハ・カルフォルニアにある姉妹校で開催された国際お菓子シンポジウムから帰ってきたばかりなのだ。

 早速、二人のもとへナチョスやケイサンディアといったアペタイザーが運ばれてくる。

 ドリンクも来た。千恵にはライムを添えたマルガリータ。部長には水。


「明日のお菓子のために!」

「乾杯!」


 それが済むと、いよいよ真打ちのメインディッシュ、チミチャンガがやってくる。

 恵方巻き大の円柱形であるトルティーアに、あつあつのレッドビーンズとチーズがかけられたもので、その周りにハッシュポテトやインディカ米が盛りつけられている。

 なんだ、メキシコ料理と行ったところで、見た目は超太いポッキーに過ぎないではないか。

 部長は軽く見て、チミチャンガにかぶりついた。

 とたんに、両手を振り回して、悲鳴をあげる。


「ひえええ!」

「どうかしました?」

「ひやあああふううう! 辛い! 熱い! 舌が焼ける!」

「ああ。なるほど」


 部長は水のピッチャーを掴んで、冷水を喉に直に流し込んだ。

 半リットルばかり飲んで、どうにか辛味を鎮める。


「な……なんでこんなに辛いんだよ」

「中南米の気候のせいです。熱帯地方で生きていくため、辛い物を食べて、発汗を促し、体温を下げるのです。メキシコのみならず、暑い国の料理は、どこも辛いものですよ」


 料理を口に運びながら、千恵が解説する。部長と同じ物を食べている千恵は、恬として平気だった。


「温帯の日本で食べなきゃならない理由はないよな。よし、店を変えよう。ウナギ食おう。おごってくれ」


 部長が言うと、千恵が真剣な顔つきになる。


「我々はお菓子研究部ですよ。味覚の伝道者なんです。それが、異郷の料理を一口食べただけで拒否するようなことが許されていいはずがありません。日常の枠といったものをひっくり返し、安全地帯を焼き捨てられずに、どうして新しいものを生み出せるでしょうか? チャレンジこそが大切なのですよ」

「千恵、よく言ってくれた」


 感動にうち震え、部長は千恵の肩に手を置く。


「それでこそ、栄えあるお菓子研究部部員だ。さあ、ウナギ屋行こうぜ」

「はあ……」


 千恵は、諦めの溜息をつく。そして、持ってきたポッキーの箱を開けた。


「お願いですから、もうちょっと付き合ってください。お口直しにどうぞ」

「おお。気が利くな」


 部長はポッキーを抜いた。

 いつものポッキーとは、ちょっと違う。チョコの部分の色が、真っ赤なポッキーであった。


「新開発ポッキーか?」

「ええ。バハ・カルフォルニアの姉妹校で、スパイス調合の達人めっけて、作ってもらいました。その名も――」


 部長は話を聞きながらポッキーを口に入れる。


「――辛ポッキー」

「辛いっっっ!」


 部長の目が飛び出る。あまりの辛さに、口からボオオっと火を吹いてしまう。

 それを芸だと勘違いした他の客から拍手が湧いた。


「ぎえええ!」


 部長は椅子の上で身をよじった。


「水! 水! 水!」


 部長はピッチャーを掴む。一リットルばかりの水を自らに流し込んだ。しかし、苦しみが去ろうとしない。


「げえええ! なんで、水飲んでも辛いの!?」

「辛いのは、辛いものに含まれるカプサイシンという物質が、口腔、咽頭部の粘膜を刺激しているからなのですよ。辛ポッキーは大量のカプサイシンを含んでいますから、水で薄めると、カプサイシンが鼻腔や食道まで広がることになります。薄めてもダメなんですよ。他の味で相殺するべきです」

「水以外の何か! 水以外の何か! 水以外の何か!」


 ウエイターがメキシコビール『ドスエキス』を置いた。部長はそれを流し込む。千恵はマルガリータをお代わりした。


「スパイシーでしょ? 平凡な甘ったるい人生に飽きていて、刺激を求めているけれども、お菓子を食べる以上のことをする度胸のない、現代のよき小市民様にウケること、間違いなしです」

「げほっげほっげほ!」


 部長は咳込みながら、空のビール瓶をテーブルに置いた。辛味は去ったが、まだ白煙が耳の穴から立ち上っている。


「早速、部長にテストしていただきたいと思います。どんどん食べてください」

「この有様を見て、それを言えるか?」

「部長も、心の底では、平凡な日々に飽きているはずです。自分を変えたいと思っているはずです。辛ポッキーは刺激の塊です。これはチャンスですよ! はい、食べて食べて食べて!」


 千恵が辛ポッキーを突きつけてくる。

 彼女の頬は染まり、いつにも増して眼が輝いている。アルコールのせいばかりでもないだろう。

 ドSめ。

 だが部長としても、かわいい部下の頼みとあれば、多少身体をはるのも、やぶさかではない。


「はい、あーん」


 辛ポッキーが口に入れられた。

 部長は後悔した。深く深く後悔した。

 火をひとしきり吹いた後、椅子の上で痙攣する。ウェイターが、またドスエキスを持ってきた。部長はそれを喇叭飲みした。


 ビールで辛味を抑えることはできるが、胃の奥から不気味な熱さが舌の付け根まで這い上がってくる。口の中は焼尽されたようにひりひりしていて、目は霞み、こめかみには鋼鉄のスクリュードライバーでも突き立てられている気分だ。そして、何よりも心が砕けそうだった。

 喘ぎながら、千恵の方へと顔を向ける。千恵はマルリータに口をつけながら、うっとりとした表情で眺めてきている。


「おまえ楽しんでるだろ!? 部長である俺の味覚をダメにして、部長の座を奪う気だな」

「やっぱりそう思います? でも、部長という立場には、少なくない責任が伴うべきだと思うのですよね。部下におごってもらって偉ぶっているだけじゃダメなんですよ。ああ、自己犠牲の精神こそ美しい。これぞ、責任を纏いしオブリージ」


 マラカスを振りつつ、歌うように言いながら、千恵も辛ポッキーをかじった。だが、辛いものではびくともしない性質らしく、部長のように醜態を見せることもない。

 部長の形勢は不利だった。なんとかして、反攻のポイントを見つけるしかない。


「か、辛いものの食べ過ぎで咽頭ガンになる可能性が高まるって、何かで読んだぞ。辛いものは害だ」

「そんなのデマですよ。仮にもお菓子研究部部長がそんなの信じちゃいけません。中央アジアで辛いものを食べている人が、食後の嗜好品としてタバコとビンローシュの実を噛むのですよ。それが、咽頭ガンを有意に増加させます。ガンと辛いものの因果関係は否定されていますよ。さあ、安全と分かったところでもう一本」


 千恵が恐ろしいポッキーを向けてくる。部長は、身をすくませ、逃げ道を探る。


「明日にしよう。ちょっと、今日は口の中が、ただれて……」

「口の中なら、すぐに治りますよ。イノベーションに必要なのはスピードです。はい、あーん」


 ポッキーが部長の口の中に入ってくる。


「ごあああ!」


 部長の吹いた火が、レストランの壁に掛かっていたメキシコ国旗に引火していた。めらめらと燃え広がり、天井へと広がっていく。これ幸いと、部長が悲鳴を上げた。


「火事だ!」

「ごまかさない」

「いや、本当に燃えている!」


 千恵は水の入ったピッチャーをとると、振り向きもしないで鎮火した。


「はい、これで集中できますね」


 部長の心の中で、葉っぱが落ちていくように希望が消えていく。

 部長は千恵の手を両手で包んで言った。


「後生だ……これは、あまりに苦しすぎる。こんなの耐えられない……俺は死んでしまうかもしれない」


 部長は、涙ながらに懇願した。


「お菓子研究部は、お菓子開発のために命を懸けてますよね? 実践してください」


 千恵はにこにこしながら、言った。


「気楽に考えたスローガンのせいで、命をはる羽目になるとは……なんという因果か」

「食べてください。せっかくメキシコから遙々持って帰って来たんです。部長のために」

「おまえの正体は何だ? 辛い国から帰ってきたスパイか?」

「また部長の負の妄想スイッチが入りましたか。でも、食べながら妄想できますよね?」


 地獄の責め苦でしかないポッキーが迫ってくる。部長は逃げ出したくなる。

 だが、レストランの薄闇の中、聖母のごとき微笑と、サーベルタイガーのような肉食性を瞳にたたえた千恵は、ぎょっとするほど美しく、呪縛ともいうべき力で部長を縛っていた。


「この数瞬は、部長の人生の十年にも相当しますよ。極限においてこそ、人は成長できるというもの。さあ、進化はもうすぐです」


 千恵は片手でマラカスを振りながら、辛さの結晶を近づけてくる。

 部長は死刑囚が、処刑人の振り上げた首切り斧を見上げるかの目つきで見ながら、それでいて逃げ出すこともできない。涙を浮かべながら口を開く。

 千恵は躊躇なく、そこにポッキーを突きこんだ。





「……」


 部長は無言だった。表情を変化させることなく、咀嚼し、飲み込んだ。

 悲鳴を上げたり、のたうち回ったりして、狂態を示すこともない。


「……あれ?」


 千恵は、期待はずれな展開に、少し拍子抜けた顔になった。だが、すぐに気を取り直して、笑顔を花咲かせる。


「でも、辛いものが苦手な人でも、辛ポッキーに適応できるということがこれで証明できましたね。明日から、早速この辛ポッキーを世界に向けて――」


 突如、部長が千恵の顔に手を伸ばしてきた。千恵は驚いて身を引く。ソンブレロがテーブルに落ちた。


「ちょっと部長、何を――」


 部長が欲しかったのは、千恵の被っていたソンブレロだったらしい。それを回したり、こねくったりして、きゃっきゃと笑い声をあげている。


「ええと……部長?」

「ばぶ~」

「……ふざけてると怒りますよ」

「ばぶ~い」


 千恵の笑顔が消えていく。何かが変だ。

 部長は、ふざけているのではないだろう。そんな余裕のある精神状況ではないことは、追い込んだ千恵が知っている。


「んまんま~ばぶう」


 謎の喃語を発している部長の目が濁っている。顔には知性らしきものが見えない、無垢な表情が浮かんでいた。

 千恵の上気していた顔が、さっと蒼白になった。恐ろしい認識がこみ上げてくる。

 極端に苛烈な環境下に置かれた部長の精神が変調をきたしたのだ。その結果、大規模な幼児退行が生じたようだ。

 いまや、部長の精神年齢は二歳児なみだろう。

 苛烈な心的ストレスが、二十年以上の間に蓄積された知識や情緒をリセットしてしまったのである。


「もしかして……私、やりすぎた?」


 真っ青になった千恵が呟く。彼女といえども、こんなことは想定していなかった。

 部長は、千恵のマラカスを振ってはしゃいでいる。ガラガラ代わりだ。

 千恵はぶんぶん頭を振ると、顔に同情心に溢れた悲しげな笑顔を作る。


「部長……お気持ちは分かります。時に幼さを思い出したくなるときはありますよね……。でも、この世界で、私たちの愛するお菓子は蔑まれています。お菓子は本来のいいところを無視されて、体の害や、心の中毒性ばかりが取りざたされています。それを払拭するためにも、お菓子研究部の力が……あなたの力が必要なんです、部長」


 千恵は真剣な声で言いながら、目力で部長に訴えかける。お菓子への義務感でもって、部長の心を再起動しようとする。


「まんま~」


 部長はナチョスの入っていたバスケットをひっくり返して、笑い声をたてている。

 千恵の試みは通用していなかった。


「……白けますね~。こういう時は、それを聞いて正気に戻るものじゃないんですか?」


 千恵は遠い眼をして、溜息をついた。


「って、そんな韓国ドラマみたいな展開はありえませんか。しかし、ポッキーで幼児退行するなんて、どんだけメンタル豆腐なんですか」


 千恵が辛ポッキーを部長に向けると、部長は怯えてぎゃあぎゃあ騒ぎ出した。


「ポッキーにトラウマ持たれるのは、なお困ります。お菓子研究部のメインプロジェクトなのですよ」


 辛ポッキーをかじりながら、千恵は頭を抱えた。彼女を知る人間がおよそ見たことがないような、弱気な表情が浮かんでいる。


「困ったわ……部長~、元に戻ってくださいよ……」


 部長は、伝票を入れる筒を口に入れてしゃぶっている。


「やめてくださいよ……みんな見てますから」


 千恵は弱々しく言った。他の客は、これもまた何かのパフォーマンスだと思って、楽しげに眺めている。


 なぜ幼児退行なんて起こってしまったのだろう。幼児に戻るというのには、何か訳があってしかるべきだ。

 ふいに、聖書の一節が頭に浮かぶ。千恵は伏せていた眼を見開いた。



『汝等、もし翻りて幼子の如くならずば、天国に入る得じ』(マタイ伝 18:3)



「……天国。……天国へ行く準備だとでも言うのですか」


 千恵はゆらりと立ちがった。その瞳の中で、決意の炎が燃え上がる。


「ダメですよ、部長……天国なんて行かせません……。現世で苦しんで苦しんで……それでも人々の笑顔のためにお菓子を作っていく使命があるのですから」


 千恵は拳を握りしめ、噛み砕くように言葉を続けた。


「いいですよ……私が元に戻して差し上げます。部長、強迫観念を消すのはどうするのかご存じですか?」


 千恵の問いかけに、部長は答えない。紙ナプキンで遊ぶのに忙しい。だが、千恵は構わず続ける。


「……ショック療法ですよ。蜘蛛が怖い人を、蜘蛛だらけの穴に投げ込むのです。そして、自分は蜘蛛にやられてしまうほど弱くはないということを理解させる……。怖がっているのは、自分の心が怖がらせているからだと」


 千恵はすっと上を見上げる。

 部長の頭上で、カラフルなピニャータが揺れている。


「ショックのあまり死んだり、発狂する確率もありますが……何事にも、リスクは付き物。そうでしょう?」


 千恵はポンチョの下から金槌を取り出した。


「このピニャータの中には、ポッキーが山ほど入ってます。割らせていただきたいと思います」


 ポッキーという単語を聞いて、部長の顔が怯えに歪む。


「安心してください、部長。私だってリスクを背負ってます。これで部長が戻らなければ、私は一生悔やんで生きることになります」


 千恵は金槌を振りかぶった。


「よ、よせっ! 今、正気づいた!」


 死地に瀕して、部長の目に光が戻る。

 だが、もう遅い。遅すぎる。振り下ろされた金槌を止める術などない。

 迷いのない金槌の一打がピニャータを真っ二つにする。


 ピニャータは砕けた。中からポッキーが迸る。

 ポッキーだらけだった。ポッキーであふれていた。部長の視野全てをポッキーが埋め尽くす。ポッキーをのぞいて意味ある存在が見あたらない。

 そして、一本一本のポッキー、全てが地獄の辛さを表現している。

 部長の断末魔がこだまする。


 ピニャータが砕けて間を置かずに、部長の心も砕けた。破片はバラバラに飛び散っていった。










 蛍光灯が低く唸って発光した。

 壁一面に、白い光をバックにしたモノクロ画像が映し出されている。全ては脳の画像だった。脳の輪切りが、ずらりと並んでいる。

 MRI画像だった。

 医者がそれを難しい顔つきで眺めていたが、やがて大きく息を吐いた。


「脳室に陰がありますね」


 医者は言った。重々しい口調だった。


「オワダ・ペッカー分類という指標で、これは四度に相当します。国内でも数症例しか報告されていない、極めて希な精神崩壊の症状です。残念ながら、現在の医療では、確実な治療法は発見されていません」


 医者は一呼吸おいて、続けた。


「全く望みがないわけではありません。希望を捨てずに、様子を見ましょう。本人の回復力で、精神が復帰する可能性もないのですから」


 医者の声は、希望を感じさせない、無機質な声だった。

 低く唸っていた蛍光灯が消され、無数の脳の画像は、闇に飲み込まれていった。













 計器の音が規則正しく響いている。

 美しくはあるが、力のない弱々しい、冬の日差しが差し込む病室。

 外の喧噪は分厚いガラスに阻まれ、ここは別世界のように静かだった。空気中に生命を感じさせるものが浮いていなかった。


 窓際で千恵が虚ろな顔で座っていた。その手で休むことなくリンゴを剥いている。

 だが、彼女の目は何物もフォーカスすることなく、虚空を見つめるばかりだった。

 ベッドサイドのテーブルには、すでに山のように切られたリンゴが積まれているが、千恵はそんなことを気付いてもいないようだ。


「……千恵……」


 低く、かすれた声。千恵ははっと、顔を上げた。

 部長が眼を開けている。

 千恵の手からこぼれたリンゴが床を転がった。


「ぶ……部長!」


 千恵は喜ぶとも泣き出すともとれない顔で、ナースコールのボタンを探した。その手首を、部長が握る。


「……レストランでおまえが言ったことを……ずっと考えていたんだ」


 掠れていて、ほとんど聞き取れない声。だが、部長は確かに喋っていた。


「……かつて、おまえが言ったとおりだよ……自分を救うのは自分だってな」


 部長は、それを言うと、力を使い果たしたかのように、再び眼を閉じる。


「部長!」

「結局……自分なんだ。……トラウマと戦うのも、こうやって生きようと努力するのも……」


 部長の声が尻すぼみに消えていく。

 そして、また計器の音が響くだけになった。

 千恵は部長の顔をずっと見つめていたが、やがて小さくうなずいて、窓際の椅子に戻った。

 そして、お見舞い品の山からポッキーを見つけだすと一本抜いて、それをかじった。





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