当たるも八卦
お菓子研究部。そこでは、明日のためのお菓子を創造するべく、日夜、必死の研究が続けられていた。
その殺風景な部室に、颯爽と女性が入ってくる。
「部長、見てください!」
モテそうなお菓子を街でハントするのに情熱燃やす副部長、曽我千恵は入るなり言った。部長のデスクの前に立つ。そして、鍵付きアタッシュケースを置いた。千恵は鍵束を騒々しく鳴らして取り出すと、アタッシュケースの六個の鍵を外し、彼女自身の手首とアタッシュケースを繋ぐ手錠を外した。
そうしておいて、勿体付けた動作でアタッシュケースを開けた。
「じゃん!」
中身である、明日のためのお菓子がその姿を現した。
「ポッキーです!」
見慣れた赤い箱が、ぽつんと置かれている。
「日夜、必死の研究の成果がそれかよ!」
部長の日高が、血走った叫びをあげた。
「ポッキー、素敵ですよ~」
千恵は上気した顔で言う。
「素敵だろうけど、発展性が見えない! それは、すでに完成しているお菓子だ!」
部長は、引っ込めろ、と手で指図した。千恵は唇を尖らせる。
「ノリ悪いですね~。この世に完成しているものなんて存在しないのですよ。イノベーションのスピリットはどこ行ったんですか?」
「んな物で腹は膨れないと気付いてしまったんだ!」
部長が呻き叫んだ。その目がまともじゃないことに千恵は気づいた。真の絶望を味わった人間の目だった。
何らかの事件で、彼は今、やけくそな気分になっているに違いない。
千恵は、部長を一瞬見つめ、それからポッキーの箱を手に取った。
「今回の挑戦は、そんな部長にぴったりかもしれません。一本どうぞ」
部長は凄まじい形相で千恵を睨んだが、すぐに素直に一本摘んだ。
「なんだ、これは?」
部長はポッキーを見て怪訝な顔になる。
ポッキーの表面、本来はチョコで覆われている部分が、複雑な文様を描いている。
いや、これは文字だった。チョコレートの一筆書きで、ひらがなが書かれていた。
『まちびと いずれ きたる』
部長は、しばしその意味を解釈していたが、やがてじろりと千恵へ目をやった。
「……するとなんだ? 今回の挑戦はポッキーで、おみくじをやることなのか?」
「楽しいでしょう? ポッキーを食べるごとに、それぞれ別の御宣託が出てくるんです。現代の迷える子羊にウケることなく間違いなしです」
「そのアイディアは、既に中華料理店がチャイニーズ・クラッカーで試しているようだがな!」
「業界用語で二匹目の泥鰌といいます」
千恵はさらりと言った。
「泥鰌が何だって?」
「チョコでどうやって文字を書くのかが、技術的なネックでしたが、人材を確保しました。中国の達人に、書いてもらっています。ほら、中国には溶かしたアメで龍とか描いちゃう凄い人がいるじゃないですか。その同類を、蘇州の姉妹校でめっけました」
「だが、文字の書かれたポッキーは、チョコの量が普通のポッキーより少なくなるじゃないか」
「人間の味覚で違いなんか分かりませんよ。さあ――」
ポッキーの箱の口を部長に向けた。
「お菓子研究部一の迷える子羊様に、早速テストしていただきましょう。どんどん食べてください!」
部長は仏頂面でポッキーを摘んだ。
ポッキーの文字。
『たいかい これ てんくう ところ かわる が ごとく か を てんじて ふく と なすべし』
部長は苦い顔でポッキーを口に放り込む。
「……おまえにとっちゃ、意味ある宣託かもしれんがな。俺にはわけわかめだ!」
「そこが面白いところじゃないですか」
千恵がひょいっと肩をすくめた。
「もっと、現実を分かりやすく表現した言葉は来ないのか?」
部長はポッキーを摘む。
ポッキーの文字。
『けっとうち あがる』
「分かりやすいですね」
「血圧も上がっとるがな!」
部長は苛立った仕草で、ばりばりとポッキーを咀嚼した。
「もっと、モノになる助言はないのか? どの株を買えとか、どの馬券を買えとか。ロトのナンバーを教えてくれてもいい!」
部長が怒鳴る。その口調は、餓えた人間が高い木に肉がぶら下がっているのを見つけたかの如きものだった。
「……金金金金言ってますと、俗物っぽいですよ」
「俗物なんだよ、俺は!」
部長が血を吐くように怒鳴った。
「それは知ってますけど、ここまで酷い俗物ではなかったはずです。一体、どうしたというのです? お姉さんに話してごらん」
千恵はカウンセラーとして通用する笑みを俗物に向ける。部長は土気色の顔でそっぽを向いていて答えない。
だが、千恵も部長の扱いには慣れたもの。なだめたり、脅したりして、五十語も話さないうちに原因を探り出した。
今朝のニュースが原因らしい。
日本の公的債務残高が、国民一人頭九百万円を越えたという事実が、彼を打ち砕いたのだ。
部長は、お菓子研究部部長という肩書きこそ持つものの、収入の方はお粗末で、九百万円稼げるようになる目処もたっていない。
プライド高い彼は、国民の最低基準を満たしていない気分に陥っているのだ。
千恵は感嘆の唸りをあげた。
「うーん、さすが部長。私が気にも止めないこととを、ぐじぐじと悩めますね」
部長は髪をかき乱して叫ぶ。
「俺はかつてないほどこの社会に矛盾を感じ、不信感を抱いている。なぜ、労せず大金をつかめる奴がいる一方で、人の未来のため努力している俺は、冷や飯を食っている? なぜだ!? 答えが必要だ!」
千恵はさっと、ポッキーの箱を差し出す。
ポッキーの言葉。
『たにん を うらやむ べからず』
「違う! 嫉妬とかそういうレベルの話をしているのではない! これは社会への怒りだ! 社会への不均等の是正を求める、正義の叫びなのだ。ここに自分というものはない。俺自身はどれほど貧しかろうと、人様に軽蔑されようと問題ない! ただ、社会を正したいんだ!」
ポッキーの言葉。
『じぶん を いつわるな』
「偽ってなどない! 俺は俺だ! 今の状況を完全に把握している!」
ポッキーの言葉。
『ほんとう に そうかな』
部長は肩で息をしながら、五本のポッキーをまとめてかみ砕いた。
視線をうちに向け、自分を確認する。
自分……自分とは?
お菓子研究部部長。それは立派な立場のはずだ。
ずっとそう思ってきた。それとも、これは自己欺瞞なのか? 自分は本当は、もっとちっぽけでつまらない人間なのではないか?
例え、自己欺瞞でも、プライドを維持してきた。研究部の存続のみを心に、気高く生きてきたつもりだ。
その生き方が今、否定されている。
重要なのは、金らしい。九百万円さえ稼ぐことができれば……自分はお天道様の下を歩ける。
自分は……誇りある自分でいられる。
「九百万……九百万……」
もう手段など選んでいられない。部長は悟った。
部費を管理している彼女に冥い視線を向ける。
気軽に中国の姉妹校へ行っている彼女だ。懐に九百万ぐらいは入っていることだろう。あるいは、カードや通帳も。
彼女が不当に占有している部費は、部長である自分が持つべきなのだ。
左手でポッキーを抜きながら、右手が鉤爪のように曲げる。
ポッキーの言葉。
『おちつけ かね の ため に たいせつな もの を うしなう ことは ない』
無防備な千恵の首へゆっくりと右手を伸ばす。ここはお菓子研究部だ。お菓子で窒息して死んだ人間がでても、全く不自然ではない。
他の部員や警察は、何も疑わないだろう。事故として処理されるに違いない。
千恵の首に右手を置く。友好的な仕草に見せかける。ニワトリの首を捻るのと同じだ。
何も気付かない彼女が差し出すポッキーの箱から左手で一本摘む。
忠実な彼女。それが彼女の命取りだ。だが、苦しみは一瞬で済む。
ポッキーに記された文字が目に入る。
『やめろ いなか の おっかさん が なくぞ』
部長はそれを口にくわえた。ポッキーを口にくわえたまま凍り付く。
部長は身も凍るような叫び声をあげた。耳元で叫ばれた千恵が、ぎょっとして飛び退いた。
部長は叫んでいた。部長は恐怖していた。
自分の精神の底の、ドロドロした部分が表層に出てきたことにではない。そのような心の澱は、誰もが持っている。
それが他者に見透かされたことが問題だった。ポッキーの文字は、明確に自分の動きを読んでいた。自分の見られてはならないものが、内なる怪物が、お菓子如きに先読みされてしまったのだ。
恥辱と、自己への嫌悪が一緒くたになって、部長を襲う。自分の底の浅さは、間食に記されたチョコの文字程度で対応可能だったのだ。
人間の精神は、このようなショックには耐えられない。
精神は破綻を始め、かくして部長の自我は崩壊する。
目が虚ろになった部長を見下ろし、千恵は大きく溜息をついた。
「しっかりしてください。ったく……。おみくじというのは、冷めすぎても、熱くなりすぎてもダメなんです。出てきた答えは、貴方の心の水面に反射したもの。つまり、答えは、自分で出しているんです。その水面が多少濁っていたら、嫌なものも見えるかもしれません。……まあ、この概念は儒教文化全般に言えますが」
千恵に揺さぶられて正気づいた部長は、顔を歪めて、わっと泣き出す。
「もうこんなのやだ~!」
「大の男が泣き喚かないでくださいよ、もう」
「不景気な社会やだ~! 冷酷な世界やだ~!」
床の上に身を投げ出して、泣き喚いた。
「はあ……部長におみくじは刺激が強すぎましたね」
千恵はポッキーの箱を逆さまにした。
「最後の三本のポッキーです。食べてください」
部長は素直にポッキーを受け取る。
ポッキーの文字。
『べんきょう がんばれ』
『しごと がんばれ』
『どりょく せよ』
「こんなのばっかり~!」
部長は泣き声を一層、大にする。
「部長、聞いてください」
千恵は穏やかな声で言う。
「お国の借金、公的債務残高を消す方法って知ってますか?」
「知るかよ……消費税を五十%にすることか?」
「そんなの一時しのぎです」
「じゃあ、どうするっていうんだよ……」
床の上で大の字になったまま、部長がふてくされた表情になる。
千恵は部長の手からポッキーを一本取って、それを振った。
「これに従うことですよ。根本的な解決策は、国民一人一人が頑張ることなんです。そうやって国の力を底上げする。国民が自信を持って、社会に蔓延する不安感が滅びれば、消費が活発になって、経済も回るでしょう」
「気の長え話しだな……」
「自分を救うのは自分です。余所をアテにしちゃ、成長はできませんよ」
千恵はにっこり笑って、ポッキーを口に入れた。