本当の正義
正門の花壇に水をやる影が一つ。文化祭中でも花壇の世話は毎日しなければいけない。そういった毎日の手間ひまが、こうした美しい花壇を作り出すのだろう。
「お疲れ様です。」
後ろに立って声をかけると、その人物はびくりと肩を揺らした。そばにいることに気がつかなかったのだろう。振り返った目は驚いたように見開かれていた。
「三島先生・・・。」
「文化祭中なのに精が出ますね―――三橋くん。」
一人で水やりをしていたのは園芸部部長の三橋拓哉だった。むろん、わかっていて近づいたのだが。
雪春は拓哉の隣にしゃがんで一緒に花壇を見た。
「清水先生は、講師をやめなくて済みそうです。良かったですね。」
「あ・・・はい。」
「今回のゲームで、園芸部の業績も認められるようになりました。これで誹謗中傷もなくなるといいのですが。」
「・・・・・。」
拓哉はそれには答えず、探るような目を向けてくる。どこか警戒心のようなものが伺えて、雪春は苦笑した。やはり幸太郎のようにはいかないか。
回りくどいのは性に合わない。
「一つだけ、聞いてもいいですか。」
「・・・はい。」
ゆっくりと頷く。雪春は花壇に目をやったまま尋ねた。
「あの暗号は、君が考えたんですか?」
「―――っ!」
拓哉ははっとしたように息を吸い、言葉を探すように目を泳がせる。しかしやがて諦めたように項垂れた。
「・・・いえ。」
「そうでしょうね。似合わないです。」
くすりと笑うと、拓哉もやっとかすかな笑みを見せた。今の言葉で、事情は全て知られていることを悟ったのだろう。彼は一見脈絡のなさそうに聞こえる話を語り始めた。
「・・・俺が中学三年生の時に、清水先生が顧問になったんです。それから園芸部は目を見張るぐらい変わって、花壇も綺麗になって、薔薇も栽培するようになって・・・。」
そこで一度言葉を切り、目の前の花に手を触れた。それはとても優しく、繊細な手つきだった。
「だから、迷惑かけたくなかったんです。」
きっと拓哉にとって、清水は大切な人間なのだろう。プログラムの件での変な遠慮も、清水を慮っていたのだ。その彼が講師を辞めるかもしれないということを知って、どれだけショックを受けただろうか。
「・・・三島先生。」
今度はしっかりと意志を込めた声で呼ばれた。
「文化祭が終わったら、ちゃんと演劇部に謝りに行きます。」
きっと初めからそう考えていたのだろう。確固とした決意が感じられた。
雪春はもう一度花壇に目をやった。
「そういうつもりだろうと思って、止めに来ました。」
「え?」
「清水先生はお父様と和解した。園芸部の株も上がった。道具も無事に全部返ってきた。それでいいではないですか。」
「でも、」
「全てを白日の下に晒すことが、正しいこととは限りませんよ。」
教師としてあるまじき言葉かもしれない。しかし雪春は常々そう思っていた。
学生の時に雪春を追い出した合唱団体の団員は、やはり美咲にそのことを告げるべきではなかったと今でも思う。自分で動く気がないのなら、最後まで沈黙していればよかったのだ。その団員の行動は、返って余計な禍根を残すだけだ。結果美咲はその団体に抗議しに行って、決別してしまった。彼らにとって音楽大学の窓口的存在であった彼女をなくすことも、美咲にとって、将来的に歌手として活動する上で応援してくれていた彼らをなくすことも、お互いに痛手であったはずなのに。
“別にあんな人たちに聴きに来てもらわなくても、私にはファンがいっぱいいるから大丈夫よ”
そう言って笑った美咲の笑顔が、雪春には痛かった。
「・・・でも、」
拓哉は良心が痛むようでまだ迷っていた。きっと根が素直な子なのだろう。だからこそ余計に言わない方がいいとも思う。
「もし、申し訳ないと思うんでしたら。」
拓哉が顔を上げる。どこか縋るような目だった。雪春も目を合わせて言った。
「明日の演劇部の発表に、花をあげたらどうですか?」
その言葉にしばしポカンとしていたが、拓哉はやがておかしそうに笑った。
「そうします。」
それは、誰かに遠慮したり気を使ったものではなく、拓哉本来の笑顔だった。
「あの子がやったってよくわかったな。いつからだ?」
拓哉の背中を見送りながら、幸太郎が尋ねてきた。
「確信したのは、盗撮犯が撮った写真を見た時です。」
おそらく部室の中にいる生徒を撮りたかったのだろう。植木から隠れるように撮った写真の隅に、蛇口にホースをつなぐ拓哉が小さく写っていたのだ。水道は演劇部の窓の下に位置していた。
「おそらく、暴発してしまったんでしょうね。」
ホースから溢れ出した水は、運悪く窓が開いていた演劇部の部室内の道具を濡らしてしまった。拭き取っても、鍵やレプリカの剣ならまだしも、衣装や木箱のオルゴールなどは乾くのに時間がかかる。拓哉は慌てたことだろう。ここが濡れていたら園芸部のせいだと丸分かりだ。ただでさえ評判の悪い園芸部は何を言われるかわからない。第一、清水に迷惑がかかるかもしれないと。
「それで、あんなことをしたのか?」
幸太郎が疑問に思う気持ちもわかる。こんな大事にせずとも乾かしてから数日後にこっそりと返せばいい話だ。そうしなかった理由は、園芸部を取り巻く現状にあった。
清水が父親に認められずに講師をやめてしまうかもしれないことと、園芸部に対する非難の声があること。拓哉はその二つを何とかしたかった。
そうして考えられたのが、あの怪盗ごっこのような盗難事件だった。
美術室の野菜、写真部の展示写真、中庭の池、部室棟の畑、広場の薔薇。道具は最初と最後の図書室と音楽室以外、どれも園芸部が関わる場所に隠されていた。
「園芸部を紹介するには、もってこいのコースでしたね。」
「んー・・・でも、あんまりそんなこと考えるような子には見えないけどなぁ。」
確かに自分の失敗を隠すだけではなく、自らのアピールに使うなんて少しせこいかもしれない。
「もちろん、発案したのは三橋くんではありません。」
「え?」
「そうですよね―――夏目くん。」
振り向いた先に、生徒会長・夏目綜一郎が立っていた。