破られた誓い
久しぶりの自分の手足の感覚。雪春はゆっくりと目を開いた。
目の前では幸太郎がほっとした表情を浮かべている。やはり心配をかけていたようだと、雪春は苦笑した。
体を貸していた間幸太郎の心が痛いほど伝わってきて、雪春はいたたまれなかった。自分は幸太郎が思っているほど強い人間でも高尚な人間でもない。一人になりたくて、でも独りは嫌で。その狭間でふらふらしているだけの小さな子供にすぎない。現に幸太郎に体を貸したのも、美咲に会おうとしなかったのも、自分の中に潜む“弱さ”だ。
それでも、もし雪春の自己満足で少しでも救われた気になる人間がいるのなら、自分がやっていることも無駄ではないのかもしれない。
雪春はピアノの蓋を開け、椅子に座った。
「荻野くん、オルゴールの曲ってこれではないですか?」
雪春はピアノに指を走らせ、ゆっくりと歌いだした。
Sah ein Knab' ein Roslein steh'n,
Roslein auf der Heiden,
War so jung und morgenschon,
Lief er schnell, es nah' zu seh'n
Sah's mit vielen Freuden.
Roslein, Roslein, Roslein rot,
Roslein auf der Heiden.
「それそれ!その曲よ!」
朔太郎は喜んで手を叩いた。
「なんて曲名なの?」
「“野ばら”です。」
「え?でもさっき歌った“野ばら”は・・・。」
「先程のはシューベルトの曲。今のはヴェルナーのものです。」
「ヴェルナー?」
朔太郎は聞き覚えのない名前に首を傾げる。
「この“野ばら”の歌詞はゲーテという有名な詩人の詩です。それに感銘を受けたたくさんの作曲家たちがこの詩に曲をつけました。その中でも有名なのが、シューベルトとヴェルナーです。」
ロマン派の有名な作曲家であったシューベルトとは違い、音楽教師と合唱指揮をしていたヴェルナーの作品は、この曲でしか知られていない。朔太郎がわからないのも無理はない。
「でも、同じ歌詞の割に随分イメージが違うのね。」
シューベルトの快活なメロディーとは違い、ヴェルナーのはどちらかというとゆったりとしている。
歌曲とは歌詞とメロディーが密接な関係にある。つまりドイツ語であるこの詩には、ドイツ語の持つリズムと抑揚がメロディーに反映されていると考えられているのだ。曲の違いは、もちろん作曲家の個性の違いもあるが、おそらくこの詩から受けた感情的なものや、言葉の響きの感じ方の違いがこうやって現れているのだろう。
「でも、どうしてそれが卑猥な歌なんだ?」
ピアノの上に乗った幸太郎が尋ねてきた。その妙に純粋な眼差しに、雪春は口ごもった。
「・・・この詩は、だいたいこういう訳なんです。」
少年は一本の薔薇を見つけた。荒野に咲く小さな薔薇を。
薔薇は瑞々しくとても綺麗だった。
少年は近くに駆け寄り、大喜びでそれを眺めた。
薔薇よ、薔薇よ、赤い薔薇よ。荒野に咲く小さな薔薇よ。
少年は言った。「お前を折っちゃうぞ、荒野の薔薇よ!」
薔薇は言った。「あなたを刺すわよ、私を永遠に忘れないように。我慢などしてやらないわ。」
薔薇よ、薔薇よ、赤い薔薇よ。荒野に咲く小さな薔薇よ。
そして乱暴な少年は折ってしまった。荒野の薔薇を。
薔薇は抵抗してトゲで刺したが、叫びも嘆きも無駄であり、結局我慢する他なかった。
薔薇よ、薔薇よ、赤い薔薇よ。荒野に咲く小さな薔薇よ。
「一説では、薔薇=少女と考えられているので、少年がそれを手折ってしまったということはつまり・・・。」
言いよどむ雪春の言葉の続きを察して、朔太郎が手を打った。
「なるほど!処女喪失の歌ってことね!」
「あくまで一説です。本当にそういうつもりで作られたかどうかはわかりません。」
雪春が高校生の時に音楽の授業でこの曲が取り扱われ、男子生徒がふざけてそんなことを言っていたのを思い出したのだ。
「じゃあどうして龍ちゃんはこの歌を誓いだって言ったのかしら?」
「それは・・・。」
言ってもいいのだろうか。たしかにこのままでは、二人は誤解したまま仲直りできないかもしれないが、話してしまうと龍之介が不憫なような気もする。彼の名誉のためにも黙っておいたほうがいいかもしれない。
しかし朔太郎は雪春の様子に感づいて、身を乗り出してきた。
「お願い、ユキちゃん先生。知っているなら教えて。龍ちゃんにちゃんと謝りたいの。」
その真剣な眼差しに、雪春は腹をくくった。きっと彼なら真相がわかっても馬鹿にすることはないだろう。もし変なことになったら、自分が間に立てばいい。返ってややこしいことにならないことを祈るばかりだが。
「・・・ゲーテは二十歳の時に、当時フランス領だったシュトラスブルクに滞在中に出会ったフリーデリケという女性と恋に落ちました。しかし次第にゲーテは彼女への恋心が薄れ、結局は振ってしまいます。その時の良心の呵責がいつまでも消えず、この詩にはその影響が深く現れているそうです。」
「うんうん。」
「つまり・・・その、志摩くんの“誓い”というのは、自分はそうならないという意味が込められていて・・・。」
「うん・・・うん?」
「その・・・ですから・・・自分は忘れないという意味で・・・つまり」
「・・・・・。」
ついに朔太郎も悟ったのか、相槌が聞こえくなった。
雪春は観念して一息で言った。
「つまり、志摩くんは荻野くんをずっと女の子だと思って恋していたんです。」
朔太郎が見せてくれた写真には、かわいらしい幼い朔太郎が写っていた。そう、それこそ本当に女の子のようだったのだ。おそらく隣で照れていた龍之介は、写真が嫌だったのではなく朔太郎に照れていたのだろう。“朔”だけだったら女の子の名前でもあり得る。きっと龍之介は女の子だと思った“朔ちゃん”に恋をして、引越ししてもずっと好きでいると伝えたくて、あのオルゴールを渡したのだ。
そうしてやっとこの町に戻って初恋の君を探そうとした矢先、180cm超えの大男であったことが発覚。龍之介はいたたまれなさと恥ずかしさと、そしてお前が紛らわしいからだという理不尽な怒りが綯交ぜになって、あのような態度になってしまったのだろう。
朔太郎には何の非もない。むしろオルゴールをなくしてしまったことは、龍之介にとってはかえって良かったことだったのかもしれない。しかし朔太郎がそのせいで仲よくできないのだと勘違いしてしまったために、話がややこしくなってしまったのだ。
朔太郎は依然として黙っている。静寂が耳に痛かった。
幸太郎もなんて声をかければいいかわからないようで、頬をポリポリと掻いている。
沈黙がいつまでも続くかと思われた時、朔太郎がポツリと言った。
「私・・・。」
視線が集まる。朔太郎は気合を入れるように拳を握りしめた。
「私、龍ちゃんと話してくるわ!」
「荻野くん、でも」
「残念ながら恋人にはなれないけど、やっぱり龍ちゃんとは昔みたいに仲良くしたいもの!誠意を込めて話をすれば、きっとわかってくれるわ!」
龍之介のあの様子だと、朔太郎自身を嫌っているようには見えなかったので、たしかに大丈夫かもしれない。しかし素直ではなさそうな龍之介を説得するには相当の気力をもって臨まないと厳しいだろう。
「さっそく行ってくるわ!」
朔太郎は宣言した勢いのまま音楽室の扉に向かった。その彼らしい行動力に雪春も苦笑する。きっと止めても無駄だろう。しかし彼は出て行く直前でこちらを振り返った。
「ありがとう、ユキちゃん先生。この二日間でいろんな面を見れて、とても楽しかったわ!」
「そうですか・・・。」
確かに人格が変わっていたのだから、それも当然だろう。色々と誤解されているだろうな、と明日からの周りの見る目を考えて、雪春は遠い目をした。自分が蒔いた種なのだから仕方ないのだが。
しかし朔太郎の次の言葉に、現状考えなければならないことは他にあることを思い出させられた。
「私の話を真剣に聞いて、考えてくれてありがとう。綜ちゃんが惚れているのもわかる気がするわ!」
「え。」
「じゃーね!また後で!」
朔太郎はにこやかに不穏な言葉を残して去っていった。
いや、きっと何かを勘違いしているのだろう。そうだそうに違いない。
雪春は必死に流そうとした。
「宝も全部見つかったし、曲もわかったし、一件落着だな。」
幸太郎はこちらの心情も気にかけず、脳天気に笑った。しかし雪春はそれに頷かなかった。
「いえ・・・まだやることが残っています。」