雪春と幸太郎
―七月。梅雨明けを待ちわびていたかのように強烈な日差しの太陽が顔を出して数日。
すでに空調のない教室内からは悲鳴が上がり始めていた。それは音楽室も例外ではない。
ぐんぐんと伸びていく室内温度計の針が、こちらの心情を表しているようだ。
うだるような空気はためらいもなく生徒たちの思考を奪っていく。
(・・・限界です。)
音楽教師・三島雪春はピアノを弾く手を中断させた。
同時に生徒たちはそれまで気力で張っていた体を一気に弛緩させる。机の上にうなだれている者もいた。
外国の歌に親しみを持つというねらいで、イタリア歌曲を選んだまでは良かった。イタリア語は母音が日本語と似ているため、初心者にはうってつけだ。旋律も簡単で聞いたことのあるものであったら、生徒たちも歌いやすいだろう。
選曲は“O sole mio”。これは厳密に言うとナポリ語なので、多少イタリア語とは違うが、問題はそこではない。
和訳は“私の太陽”。イタリアのカンツォーネらしく情熱を持って歌い上げる内容は、太陽よりも更に輝いて見えるという愛しい人を讃える歌だ。
「・・・今日はこれまでにしておきます。」
雪春の首筋を汗がつたった。
今はこれ以上輝いて欲しくない。
「しっかし暑そうだな―。」
授業終了後、窓の外を見ながらスーツの青年が間の抜けたような声を出した。
雪春はピアノを磨きながら、同じように窓の外へちらりと目を向ける。
「今年は猛暑になるそうですね。」
今朝の天気予報では水不足も心配されていた。それによって野菜が高くなってしまうのは困る。流石にこの夏をもやしだけで生活するのは耐えられない。
雪春が冷蔵庫の中身を思い出してどんよりしていると、青年が腹立たしいほどの笑顔で言った。
「まぁ俺には関係ないけどな。」
「・・・そうですね。」
関係ないと言ったのは、別にこの青年がアフリカから来た人物で、このぐらいでは暑いと言わないぜ!とか思っているわけではない。もちろん皮膚感覚に異常があるわけでもない。
青年は“閉じられた”窓から出していた顔を引き戻しふわりと浮かび上がると、もう一度言った。
「しっかし暑そうだなー。」
「・・・・・。」
彼が幽霊だからだ。
雪春が彼――樋口幸太郎という幽霊に出会ったのは今年の五月だった。「妹を助けてほしい」雪春の前に突然現れた彼はそう頼んだ。
幸太郎の妹の樋口一花が、彼が四月に交通事故で亡くなってから毎晩出歩くようになったというのだ。それが心配で成仏できなかったらしい。
面倒とは思いつつも協力することにしたが、事態は思わぬ方向へ向かった。
誰かが一花に危害を加えようとしていることが判明したのだ。
一体誰が?何のために?そんな疑問を抱えながら調査を進めていく二人。途中変な協力者が加わったりしたが、最終的には無事解決。
一花の気持ちもわかり、お兄さんは安心して成仏――するはずだったのだが。
まだ何かの未練があるらしく、結局この世にとどまって現在に至る。
他に話す相手もいない(いるにはいるが友好的ではない)ので、依然として雪春のそばに居座っていた。
能天気な言動に呆れることも多いが―――・・・
「ユキ、今日の授業もおもしろかったな!」
職員室に向かう雪春の隣を歩きながら、幸太郎がにかっと笑いかけてきた。
「・・・寝てたじゃないですか。」
「えー?目ぇ閉じてただけだぞ?」
・・・―――なんだか憎めないな、と思っていることは言うつもりはない。
①「O sole mio」・・・音楽の授業では、「帰れソレントへ」と並ぶぐらい定番の曲です。かなり熱い曲です。