アフロディーテの愛想笑い
「あぁもう久々に腹が立ったわ!」
朔太郎はプリプリ怒りながら廊下を進んでいく。先ほどの男言葉から戻ったが、まだ興奮冷めやらぬといった感じだ。丁度向こうから歩いてきた生徒が、びくりとして脇に避けた。
「ああいう奴ほど怒ると怖いな。」
「そうですね。あまり刺激しないようにしましょう。」
雪春と幸太郎がこっそりと話し合っていると、朔太郎が振り向いた。
「なにブツブツ言ってるの?」
「いえなにも。それより、ワンピースは大丈夫ですか?」
先程はそれなりにいい音がしたから心配だった。明日のファッションショーに出られるのだろうか。
しかし朔太郎は慌てる様子もなく肩をすくめるだけだった。
「大丈夫よ、切り替えのところが破れただけだから、少し縫えば直せるわ。」
意外と被害は少なかったようだ。雪春は裁縫に詳しくはないが、こう言っているなら大丈夫だろう。
あの怒りは、今まで積もりに積もっていたものが弾けてしまったからか。やはりなんでもないようにあしらっていても、龍之介の揶揄に辟易していたのかもしれない。
雪春は気持ちを切り替えるように朔太郎に向き合った。
「まずどこを探しましょうか?」
「そうねー、あぁは言ったけど、全く見当つかないのよねー。」
朔太郎は困ったように頬に手をあてる。
「赤バラを染める春の女神の偽りの微笑みの先に・・・。」
「意味がわからないわー!なんなのこの文章考えたやつ!恥ずかしくないのかしら!」
「さ、さぁ・・・。」
なんせ自分を赤い司祭の135番目の瞳とか言うぐらいだから、こういう言葉がデフォルトなのかもしれない。友人にいたら意思疎通に随分時間がかかりそうだ。
それにしても見当もつかない。春の女神ってなんだろう。
すると考え込んでいた幸太郎がポツリと言った。
「多分、アフロディーテのことじゃないか?ギリシャ神話の。」
「え?アフロディーテですか?」
「え?なに?アフロ?」
思わず幸太郎の声に反応してしまったのを聞かれて、雪春は慌てて弁解した。
「あ・・・えっと、アフロディーテのことじゃないかなと思いまして。」
「え?どうして?」
幸太郎に助けを求めるようにこっそりと目をやると、続けて話してくれた。
「赤薔薇は、アフロディーテがアドーニスの死を悲しんで流した血が白い薔薇を染めたことで生まれたっていうギリシャ神話があるんだ。アフロディーテは春の女神とも言われているしな。」
初めて聞く話だ。なるほどと言ってしまいそうになる自分を抑えて、朔太郎にそのまま伝えた。
「すごい!ユキちゃん先生博識!」
「いえ・・・。」
幸太郎は気にせずにこにこしているが、何だか手柄を横取りしてしまったようで居心地が悪い。
しかしまさか彼にそんな知識があったとは。幸太郎が実は御曹司であったことを、ともすれば忘れがちな雪春だった。
「じゃあ偽りの微笑みって何かしら・・・。」
朔太郎の言葉に三人はもう一度考え込む。女神が現代社会に必要不可欠な愛想笑いを習得しているとも思えない。しばらく立ち止まって考えていたが、やがて朔太郎が両手を叩いた。
「まあいいわ、とにかく行きましょう!」
「行くってどこへですか?」
「美術室よ!ヴィーナスとか言うなら美術でしょう!ここで考え込んでいても進まないもの。誰かそういうのに詳しい人がいるかもしれないし、行ってみる価値はあるわ。」
これが若さというものか。朔太郎の行動力に、雪春は感心した。