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夏目の謎

 窓の外で生徒たちの笑い声が聞こえる。

 日が長いといっても随分暗くなってしまった。教室で準備をしていた生徒たちも帰り始めているのだろう。一花ももう家に着いた頃だろうか。文化祭中は彼女の母親も帰宅が遅くなるのを認めてくれているらしいが、それも大分説得が必要だったらしい。

 そんな取り留めのないことが一瞬で頭をよぎった。

「・・・は?」

「先生の事がす

「いや、あの、わかりま、いえわかってないですけどいいです言わないでください。」

 思わず聞き返した雪春にもう一度言おうとしたのを遮る。

 しかしとりあえず黙らせたのはいいが、その沈黙が返って雪春を急き立てた。

 自意識過剰でなければ、こういう可能性も考えなかったわけではない。ただの教師にするには行き過ぎたスキンシップだからだ。しかし思春期にある単なる憧れのようなもので、まさか実際に行動にでるとは思ってもいなかった。

 しかもこんな前触れもなく、色気もへったくれもない状況で。

(あ、そうか、冗談ですか。)

 あまりにも反応をしなくなった雪春に焦れて、ちょっとからかおうとしたに違いない。

 幸太郎とは違う、自覚派プレイボーイだ。

 よく考えたら自分を影の支配者とか裏ボスとか言うような彼が、一介の音楽教師に憧れを持つわけがない。

 ましてや惚れるなんて・・・

「先に言っておきますが冗談ではありません。昔から好きでした。」

「・・・・・・。」

 夏目「ドン・ジョバンニ」説を速攻で却下された。

「昔って、前もたしかそんなこと言ってましたけど・・・。」

「話をそらさないでください。僕の気持ちを受け入れてくれたら教えてあげます。」

「なら結構です。」

 即答する雪春に夏目は苦笑した。

「ひどいなぁ。少しは考えてくださらないんですか?」

「思春期にはよくあることです。たまたま近くにいる年上の人間に惹かれることが。どうしてその対象を私にしたのか疑問ですが。」

「信じられませんか?」

 僕の気持ちが、と暗に述べる。

 むしろ信じる要素がどこにあるのかと聞きたいぐらいだ。五歳も離れた教師と生徒。かたや学年トップで生徒会長を務める優秀な生徒。かたや取り立てて取り柄もない音楽教師。成り立つと思う方がどうかしている。

「信じる信じないで言うなら、そうですね。」

 夏目はしばらく黙ってから、少し寂しそうに笑った。

「そうですか。・・・わかりました。」

 いつにない表情に、雪春は胸が傷んだ。

 ひどい言い草かもしれないが、この方が彼のためでもある。こんなに優秀な生徒が一時の感情に流されるのは良くない。きっと今に目が覚めるだろう。

 雪春は言い聞かせるように心で唱えた。

「じゃあ先生。」

 唐突に呼ばれて顔を上げる。夏目は先ほどの表情のままに言った。


「キスしてもいいですか?」


 20時を告げる鐘が鳴った。昼間に聞く音と雰囲気が違うような気がするから不思議だ。

 鐘のあとの秒針のチクタクと言う音が、しばし雪春の思考を捉えた。

「一応お聞きしますが。」

「はい。」

「・・・君は一体何をわかったんですか。」

「言葉がだめなら行動で示すということをです。」

 先ほどの寂しげな表情はどこへやら、またもや楽しそうに顔を近づける。

「減るものではないですし、いいでしょう?」

「減ります。矜持とか威厳とか意地とかいろんなものが減ります。」

 ぐぐぐ、という音がしそうなぐらいの攻防が繰り広げられる。

 もちろん相手の方が体格がいい上、力も強い。しかし失ってはいけない何かのために持てる全ての力を出した。

 夏目は必死に抵抗する様子に小さく笑って、体を押し止めていた雪春の両手をいとも簡単に取った。手首を握られてしまうと身動きが取れない。

「先生・・・。」

 吐息を身近に感じて雪春はいよいよ焦った。


“手が使えなければ、足を出せばいいじゃない!”


 と、「あるたいへんに身分の高い女性」のようなフレーズが頭をよぎり、足に力を込めた時。

「ユキ!悪い遅くなっ・・・た・・・・・何してるんだ?」

 幸太郎が生徒会室の扉を通り抜けて戻ってきた。手を取り合って向かい合う二人に目を丸くしている。

「何もしてませんさあ帰りましょう今すぐに。」

 力が緩んだ隙に立ち上がって鞄を持つ。夏目が後ろで小さく舌打ちした。疑問符が飛び交う幸太郎をスルーして、自分も生徒会室を出ようとする。

「先生。」

 制止の声に扉にかけた手が止まる。

 夏目は雪春が振り返るのを待たずに言った。


「僕を信じることは、怖いですか?」


 瞬間、吸い込んだ息が心臓を締め付けた。夏目の簡素な質問は、しかし雪春の深いところを刺した。

 ゆっくりと夏目を振り返る。

 一体この子は、自分の何を知っているというのだろう。先程までの羞恥心や焦りは消え、足元がぐらつくような不安定さだけが残った。

 それは純然たる恐怖だった。

「冗談です。忘れてください。」

 ふ、と夏目が笑った瞬間に緊張した空気も霧散する。しかし雪春は動くことができない。それほど今の問いかけは、雪春の心の底に波紋をよんだ。動き出さない自分に幸太郎が不思議そうな顔をする。心臓がどくどくと耳元で鳴っていた。

 それに気がついた夏目がにっこりと微笑んで一歩前に近づいた。

「あ、でもさっきの言葉は冗談ではな「では失礼しますさようなら。」

 120パーセントの力を振り絞って部屋を出た。

「・・・また明日。」


 扉が閉じる瞬間、夏目の顔がどんなものだったかは気づかなかった。



①「ドン・ジョバンニ」・・・モーツァルトのオペラ「ドン・ジョバンニ」の主人公です。女たらしの貴族で、従者のレポレっロのアリア「カタログの歌」によると、各国で2000人、うちスペインだけでも1003人の女性と関係を持ったそうです。

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