僕の恋人はトマトに夢中では決してない。
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店の掃除を済ませ、戸締りをしてから、僕はクリスの家に向かった。
途中、クリスにトマトを買ってきて欲しいと頼まれていたのを思い出し、村の農場の販売所に寄ってトマトを五十個買った。
案の定「そんなに食べるのかい?」と農場のおばさんが目を丸くしていた。僕もおばさんに同感だった。
クリスの家に着く頃には日はほとんど地平線の向こうに引っ込んで、夜が顔を覗かせていた。空気が急にひんやりとして、僕は外套の前をかき合わせた。
クリスの家は家の四分の三、いや五分の四くらいを工場に当てている(つまりほとんどが工場)。たぶん今日も工場で飛行機作りに夢中になっているはずで、そんなクリスが暖房などつけているとは思えなかった。
彼女は夢中になると体のことは二の次、寝食すら忘れてしまうのだ。
僕が家の中に入ると、予想通り外とあまり変わらぬ寒さだった。もう冬の初めなのだから、せめて薪ぐらい調達すればいいのに、この家の暖炉は使われた形跡すらない。
日常生活に必要なものは最低限、工具類や部品は最大限に取り揃えている。
僕は家の部分から工場へと続くドアを開けた。
工場の中央には飛行機の本体部分が吊り上げられて死んだ魚みたいに置かれ、翼が壁に立てかけてあった。
プロペラが天井からロープで吊るされ、見る角度によっては浮遊するタコみたいに見える。
隅のスペースにはジャイルおじいさんが馬鹿にしていた移動式トイレが置かれている。大人の男が立って入れる程度の直方体でドアがついていて、中には便器が設けられている。
クリスは作業台の上に設計図を広げ、それにじっと見入っていた。
亜麻色の長い髪を後ろでくくり、そこだけ見ると村の若い娘なんだけど、服装があちこちに油汚れが染み付いたつなぎ姿だから、なんだかちぐはぐだ。
彼女は僕より一歳年下の十九歳なのだけど、僕よりずっとしっかりしている。しっかりしすぎているきらいもあるぐらいに。
「クリス」
「わわっ」
僕が声をかけると、クリスはびっくりした。
「びっくりさせないでよ、集中してるんだから」
「ごめんごめん。ほら、トマト買ってきたよ」
僕は抱えていたトマトが入った麻袋を示した。五十個もあるから袋の大きさも小麦粉を運ぶかのような大きさになっている。
「ありがと。そっか、もうご飯の時間か」
「夢中になるのはいいけど、ご飯を忘れちゃ駄目だよ」
「わかってるけど、今が一番大事な時だからね。しょうがないよ」
「赤く塗ったんだね、飛行機」
「うん、太陽みたいに高く飛べってね」
太陽と言うよりはトマトみたいな赤だった。ちなみに昨日までは銀色の鉄板みたいな状態だった。
クリスは飛行機の胴体部分を優しく撫でた。
「明日、わたしは空を飛ぶ。飛んでみせるわ」
僕が飛ぶわけでもないのに、なぜだか僕が緊張した。
明日はクリスが造った飛行機のテスト飛行の日だ。彼女と飛行機を観に、村中の人々がやって来る。クリスはその優秀さもあって、村から研究費を補助してもらっている。
どこかの偏屈おじいさんと違って、クリスは村人たちからの信頼も厚いのだ。もっとも、普段のクリスは修理工として働いていて、しかも修理するものが自転車ばかりだから、彼女のことを自転車屋だと思っている人も少なくないが。
そんな優秀な人が、なんでまた僕の恋人なのか、その彼氏である僕にも謎だ。
「明日がテスト飛行なのにバラバラのままで大丈夫なの?」
僕は壁に立てかけられた二枚の翼を見て訊ねた。
「問題ないわ。もう簡単に組み立てられるようになってるから」
「ふーん」
簡単と言っても、コーヒーを淹れるよりは難しいだろう。たぶん一億倍ぐらいには。
「さ、夕飯にしましょ。オルタの顔見てたらお腹空いちゃった」
なんで僕の顔を見てお腹を空かせたんだかわからないけど、空腹を思い出してくれたことはいいことだ。うん。
クリスは僕が買ってきたトマト五十個のうち、四十個を既に平らげていた。
僕はテーブルの向かい側でトマトをガブガブかじる彼女に半ば呆れながら、野菜スープを口に運んだ。玉ねぎが甘くていいね。
「美味しい?」
「飽きた」
僕の質問にクリスは即答した。
そりゃそうだろうねぇ。
ちなみにどうしてクリスがトマトの荒食いというわけのわからない修行めいたことをしているのかというと、都では女性の間で『トマト痩身術』というのが流行っていることを聞きつけたからだ。
これは読んで字の如く『トマトを食べれば痩せられる方法』なのだが、トマトばかりをそれも大量に食さなければならない過酷なもので、これを修行といわずして何と言うのだろう。
クリスは今日がトマト痩身術の初日なのだけれど、早くもその厳しさにやられそうになっているようだ。
僕としてはクリスは痩身術なんか使わなくても十分に痩せた体つきをしていると思うのだけれど。それに下手にそんなことをして、ただでさえ心許ない上半身の膨らみが萎みでもしたら大変だ。
これはなんとしても止めさせなければ。
「クリス、君はとてもきれいだよ」
「わかってる」
遠回しに、きれいだからトマト痩身術なんか必要ないぜ、と伝えたかったんだけど。
クリスは四十一個目のトマトを平らげ、四十二個目を手に取った。
「僕は元気に食事してるクリスが好きだなぁ」
「わかった。じゃあ元気にトマトを食べるわ。オイシイオイシイ」
引きつった笑みを浮かべ棒読みで言われてもまるで伝わってこない。
「トマト痩身術なんて胡散臭くないかな」
面倒になったんで直接的に言った。「頭脳派の君らしくないよ」
「痩身術においては頭脳派たちが様々な実験を行ってきたの。失敗も多かったと聞くわ。でもトマト痩身術は成功例よ。現に都の女性達はとてもきれいになったわ」
元からきれいなんじゃないかな、とは言わないでおいた。
「それに、お通じにもいいのよ」
「あぁ、なるほど」
思わず納得してしまった。
というのも、クリスは今日で便秘六日目なのだ。彼女の体質で、常に『便秘○日目』という状態を維持してしまっている。
便秘はクリスの一番の悩みだ。もしかすると、トマト痩身術で解決させたいのは体重を減らすことではなくて、便秘の解消なのかもしれない。
それにしても、どうして女性というのは便秘になりがちなんだろう。僕なんて、朝起きたらまず大と小を放出して一日が始まるというのに。
「でも明日は大切なテスト飛行だし、ちゃんと栄養のあるものや力が入るもの食べたほうがいいよ。そうだ、酒場で羊の肉の串焼きを買ってこようか。クリス好きだよね」
「トマトにだって栄養はあるわ」
クリスは力無く言った。力は入らないらしい。
結局、クリスはトマトを四十五個食べて、そこで白旗を振ったため、僕が残りの五個を食べた。
美味しかったけど、二つで十分だと思った。