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01 好きだから

101、102、103、えっさ、ほっさと、細マッチョの男は腕立て伏せを続ける。


周囲でも同じように筋トレをしている、ここはスポーツジムの一角だ。短い髪を伝う汗がぽたりとフローリングの床に落ちる。せいっ、やぁ、など気合を入れる声が周囲から断続的に響いてくる。


1セットが終わり、男はまっすぐ立ち上がって鏡を見た。そこには鍛え上げられた自分の身体と、拡張現実のサポートAIが映っている。


サポートAIはデフォルメされたアニメ調の犬人間として現実空間に、彼にだけ見えるように投影されている。


『よし、あともう1セットだ!』


合成音声であることが明瞭にわかるそれで、サポートAIは彼にもう一回、と促す。


「ふぅー」


彼は息を長く吐きながら、ペットボトルを手に取り、一口、水分を補給する。


「いや、あと2セットだ」


『いいねぇー』


彼には夢があった。


すでにスケジュールは確保され、彼女からの指定で二人っきりの個室でのディナーだ。


彼女、といっても、まだ付き合っているわけではない。これから、そうなる、そのための肉体改造である。


肉体だけではない、様々な技術を身に着けた。清潔感、コミュニケーション、社会性、なんだって。そう、すべては彼女のためだ。


実はもう6回振られている。少しずつ、工夫しているつもりだったが駄目だった。


次こそは、そう考えている。7回目。ラッキーセブン。縁起もいい。これでダメなら、なんて今は考えない。


何度か食事なども重ねて印象は悪くない。時折見せる、独特の彼女のものうげな表情がたまらないのだ。


彼は仕上がっている筋肉をまとめ上げるポーズをとって、鏡越しに確信し、再度、腕立て伏せに戻った。


「ふぅ、ふぅ、ふぅ、ふぅ」


勝負は、明日の夜。


◇ ◇ ◇


黒スーツの細マッチョの男と、身なりのいい女性が並んでレストランに入っていく。


「よかったの? 個室とは言ったけど、ここまでしてもらって」


「かまわないさ。俺こそすまないな、気をつかわせたみたいで。服、似合ってる。用意してくれたんだろ」


「いいのよ、長い付き合いだもの」


彼の視界の端で、サポートAIの犬が『頑張れ!』とこっそりのつもりらしい派手なモーションで応援していた。それを、彼は、自身の太ももを二回タップして、クローズの指示を出すと、サポートAIは『てへっ』と愛嬌よく視界から消え去った。


二人は個室に入り席に着くと彼女は微笑んだ。


「村前くん、変わったわね」


「ありがとう。最近、調子もいいんだ。とはいえ、大学や白仕事は厳しそうだけどね」


「そうなんだ、いい資格とかもとってるんでしょ?」


「目的のズレもあるけど、今の時代はどこも厳しいみたい」


レストランの店員がコース料理の一品目を手際よく、彼らを邪魔しないように運んでくる。現在、様々な資格が存在するが、多くの場合、小さな手ごたえを得るためのものだ。白仕事と呼ばれる、それだけで自立できる仕事に関わる資格となると、レイヤーがまるで異なってくる。そして彼の場合、とってきた資格も、彼女――天野川きさらぎから見た魅力を上げようとする過程で、たまたま手にしたものにすぎなかった。


「そっか、昔はこうしたレストランでも人が働いていて、人が料理を運んでいたっていうけど、私たちの世代じゃ、もう違うのよね」


いまやそうは見えないかもしれないが、料理を運んでいる人間そっくりの給仕もまた、高性能なアンドロイドなのだ。


「そうそう、小銭を稼ぐことはできても、それだけで生きていく、白仕事みたいなのは、ね」


そんなたわいない話題から、ちょっと前に一緒に見た映画の話や、最近はどうやら彼女のサポートAIが口うるさいとか、そんな話をする。


グラスに注がれたワインがゆっくりと、ゆっくりと、減っていく。


彼も彼女も、メインディッシュの和牛のソテーに舌鼓をうった。また、それが非常にワインに合うようだ。


彼女もきっとこの食事には満足しているだろうと、彼は手ごたえを感じた。


食べるのも落ち着いたころ、彼女にふと、いつもの寂しそうな、どこか儚げな表情が挟まる。それはよく見ていなければ気づかないであろうささいな間であり、そして彼は、だからこそ、力になれる存在となって、守ってあげたい、そんな風に思っていたのだった。


だからこそ、彼はほんの少し長く目をつむり、呼吸を整えた。


「今日は、大事な話がしたいんだ」


「はい」


「君はとても、大きな悩みを抱えているのかもしれない。俺には打ち明けてくれないけれど、でも、俺は今はもう、いろんな悩みを聞いて、一緒に前に進める人間になれていると思うんだ」


「うん……」


少し、彼女はうつむいた。


「どうかな、俺と付き合ってはくれないかな?」


彼女の表情は悲しげに曇り、少し、どもりながら、


「ごめんなさい」


「そう、なのか……」


「私ね……」


彼女は、意を決して彼を正面から見据えた。


「ロボットなの」


その発言の内容を、彼は理解できなかった。


「どういうことだい?」


「もう、天野川きさらぎは、この世にはいないのよ」


「でも、拡張現実には、そんな表示は」


彼は、オフにしていた拡張現実を有効にするが、彼女に付与される情報にも、いや、ロボットであれば本来付与されるはずの〈ロボットである〉という明示が、彼女には表示されない。


「騙していて、ごめんなさい」


それは、彼にとって衝撃的だった。


彼女こと、天野川きさらぎは、村前弐色(にしき)と中学校からの同級生で、クラスも同じになったことがあるのである。


そんな彼女が、ロボット、というのは、信じがたいことだった。


彼は混乱していた、いつからなのかとか、最初からなのかとか、そういう冷静さを失い、ワインを二口ほど飲むが、落ち着くはずもなかった。


「法令があるの。特殊な法律。私は、死んでいて、それでも生き続けることが願われて、ロボットが代役になっていて、そうして……そうした、ロボットは拡張現実などでも表記されないし、そして、本人の許可なく流布してもいけないの」


彼は、そんな法律は聞いたことがなかった。


「ごめんなさい。本当に。もっと早く言っていれば、私みたいなののために、そんなに頑張ることもなかっただろうし」


「わかった……」


その後、よほど衝撃が大きく、整理ができなかった彼は、彼女と言葉を交わすことは少なく、レストランの前で別れた。


彼の中で、彼女の最後の言葉が頭の中で反芻していた。


「村前くんには、ちゃんと生きている人を好きになってほしいの」


◇ ◇ ◇


ある振られた男が道をぽつぽつと歩くのを黒い猫が見ている。


猫は言う。


「君は彼女がロボットになっていたことに気づかなかった。まあ、それはいいよ。でもね。彼女が "私みたいなの" と言ったとき、君は否定してあげなかった。恋に落ちたつもりで、自分の夢を見ていたのかな。それとも――まあいいや」


尻尾とともに踵を返した猫は、ささっとその場を去っていく。

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