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明日、出征します——聖女に選ばれた「門に向かう者」として

作者: Vou

 いつもどおりの朝——ルカはパンの匂いに幸福な気分になる。


 パン屋には幼馴染のミナがいて、ルカの姿を見つけると、焼きたてのパンを差し出す。


「ありがとう」


 ルカはいつもどおり礼を言った。

 パンはルカの好みに合わせて少し焦げ目が入っている。


「今日は特別うまく焼けたと思うわ」


 そう言ってミナはルカに微笑む。ルカはその笑顔をしっかりと目に焼きつけようとする。

 今日はルカにとっても特別な日だった。


「明日、出征するんだ。……だから明日は来れないと思う」


 ルカがそう言うと、ミナの笑顔が一瞬こわばった。


「そう……。気をつけて。必ず戻ってきてね。もっとおいしいパンを焼いて待っているから」


 ミナは努めてまた笑顔を作った。


 しかしルカはそれには答えず、寂しそうに微笑んだだけだった。


 ミナはルカの右手の甲に、うっすらと紋様が浮かんで光っているのに気づいた。


「それ、何?」


 ミナが尋ねると、ルカはその紋様を左手で隠した。


「治癒魔法の……残光だな。ちょっと働きすぎだな」


 そう言ってルカは笑った。


「出征するっていうのに疲れてたらダメじゃない」


「そうだね……。ミナも無理しないようにな。じゃあ、しっかりお店がんばれよ」


 そう言い残してルカは去って行った。


 ルカは治癒魔法が得意な治療兵で、魔物や戦闘兵との戦いの最前線に立つわけではない。今までも必ず帰ってきた。いつもと変わらない出征のはずだ。ミナはそう思い込もうとしたが、何かルカの様子が気になっていた。



 どこかで「そろそろ『薄日(はくじつ)』だな」と言う人の声がして、それがミナの耳に残った。


   ※


 王国を覆う大結界の効力が薄れる「薄日」が近づくと、凶作になり、王国の治安も悪化することが多かった。


 しかし薄日を乗り越え、結界が再起動されれば、その度に王国はより良くなるのだと人々は信じていた。



 その日、ミナのパン屋に小柄な男と大柄な男の二人組がやってきた。店の常連ではなかった。


「いい店だな」


 小柄な男が言った。


「いらっしゃいませ……」


 ミナが男たちに向かって言う。しかし、彼らが普通の客でないことは明らかだった。


「お嬢ちゃんが店主か?」


「はい、そうですが……」


 もう一人の大柄な男が店に陳列されていたパンを手に取り、かじり切ってぺっと吐いた。


「この店をいただくことになったんで、今日中に出ていってもらえるか?」


 小柄な男が唐突に言った。


「え?」


「出ていけっつってんだ! 聞こえねーのか!」


 大柄な男が大声で恫喝した。


「……そんな……急に言われても」


 ミナは気丈にも反抗しようとする。


 店にもう一人いた老齢の常連客が異変に気づき、ミナと男たちの間に入ってきた。


「何の騒ぎだ?」


「関係ないジジイはすっこんでろ」


 大柄な男が言い放つ。


「そうはいかん。これでも王国に仕える騎士だ。民を横暴から守る義務があるんでな」


 「ああ!?」と奇声を上げて大柄の男が手に持っていたパンを放り投げた。

 そのまま老人に突っかかり、軍服の襟を掴んで押したり引いたりしようとするが、老騎士はびくともしない。


「もし手を出したらタダでは済まんぞ。もちろんそちらのお嬢さんにもな」


 老騎士は男にそう警告し、襟を掴んでいた男の手を払った。


「困りますね、邪魔されると。こちらは宰相様の命で伺っているんです」


「宰相? ジークフリート様の指示ということか?」


「そうだ。だから騎士だろうがなんだろうが、俺たちの妨害は許されんのですよ」


 勝ち誇ったように小柄の男が言うが、老騎士は引き下がらない。


「なぜこんな慎ましいパン屋を狙う?」


「宰相様の尊いお考えはわからんが、ここに救護院を建てるそうだ。パン屋より救護院のほうが金になるんだろうよ」


「バカな。救護院は無償で病人や孤児を助ける施設だぞ。仮に救護院を建てるにしても、なぜこの区画に建てる必要があるのだ?」


「だから知りませんって。いいから、退きなさい。いつまでも抵抗するようなら宰相様に罰せられますよ」


「おまえらみたいなチンピラに宰相の名を語られたところで信用できるわけがなかろう。やるなら正式な命令書を持ってこい」


 そう言って老騎士は腰に下げた長剣を抜いた。


「さもなくば、力づくで追い返させてもらおう」


 二人の男は老騎士を睨んだが、やがて「ちっ」と舌打ちして踵を返し、店を去っていった。


「グラントさん……ありがとうございます」


 ミナが老騎士に礼を言う。


「いや、大したことじゃない。王国の騎士長があんな暴漢を見逃すことはできんでな……。しかし妙な連中だったな」


「これも『薄日』が近づいているせいなんですかね?」


 ミナがぽつりと言った。


「『薄日』に関係があるとは思いたくないが……」


 グラントもミナに聞こえないほどの小さな声でつぶやいた。



 グラントは店を去る前に、大柄の男が放り捨てたパンを拾った。


「このパンを買わせてもらおう。ここのパンは本当にうまいからな。食べると幸せな気分になる」


「それなら新しいパンを持っていってください」


 ミナは慌てて、他のパンを見繕うとする。


「パンを粗末にしたくないのだ。いいから貰っていくよ。また来るから少し待っていてくれ」


 グラントは銅貨を無理やりミナに掴ませ、店を去った。


   ※


 老騎士グラントは騎士駐屯地に戻った。


 そこにはいつもどおり負傷兵の傷の手当てをしているルカがいた。


「こんな日まで仕事を続けることもないだろうに……」


「負傷している人がそこにいるのに無視できるわけがないじゃないですか」


「訓練中の怪我なぞ自業自得だわい」


 ルカと負傷した騎士が顔を見合わせて、気まずそうに苦笑いした。


「それで……ルカ、準備はできたのか?」


 グラントが尋ねる。


「『(ゲート)』に行くのに準備なんて何もないじゃないですか」


 そう答えてルカは笑った。


「それもそうだな」


 グラントは寂しそうに同意した。


「おまえが選ばれるとはな。良い人間ほど選ばれやすいとは聞いていたが……」


「ええ、とても誇らしいですよ。グラントさんより僕のほうが先に選ばれるなんて」


 ルカはわざとおどけたようにグラントに向けて言った。


「おまえくらいの歳の頃は俺はヤクザ者だったからな。騎士になってからも嬉々として殺生を繰り返しておった。改心したときにはもう老いぼれだ。この身に大した価値がないことが悔やまれる。未来のあるおまえこそ王国のために残るべきだというのに、『(ゲート)』とは残酷だな……」


「そんな真面目に返さないでくださいよ。冗談ですから」


「すまん、余計なことだったな。ところで、おまえは『(ゲート)』の代償に何を願ったんだ? 聞くべきでないのはわかっているんだが、その願いを確実に遂行してやりたいんでな」


 ルカは少し躊躇って言う。


「笑わないでくださいよ……」


 ルカは周りの騎士に聞かれないよう、グラントの耳元に近づいた。


   ※


 昼休憩に入り、ルカは朝にミナの店で買ったパンを取り出した。

 この10年、毎日食べていたパンだ。ミナがルカの好みに合わせて、他のパンとは別に焼いてくれていたのをルカは知っていた。

 少し焦げの入ったそのパンはルカの大好物で、日々の支えになっていた。

 ルカはしっかりと味わってそのパンを食べた。とてもおいしいパンだった。ミナの言ったとおり、特別上手に焼けていた。



 ミナとは幼少の頃からずっと一緒に育ってきた。気弱で心優しい男の子だったルカを、勝気なミナがいじめっ子から守るような関係だった。


 しかし、二人が成長し、ミナの両親が事故で亡くなってミナがパン屋を継ぐことを決めてからは、ルカがミナの心の支えになった。

 ルカも、ミナと、ミナの焼くパンに、何度も落ち込んだ気持ちから救われることがあった。


 支え合う二人は自然と惹かれ合い、漠然と将来を一緒に過ごすことも考え始めていた。


 その二人の将来を、「薄日」に遮られることになるとは、ルカは想像もしていなかった。


   ※


「グラントか、しばらくぶりだな」


 国王フリードリヒは、謁見に来た老騎士グラントを前にして目を細めた。


「恐れ入ります、陛下」


「おまえが来るということは何かよからぬことがあったか?」


 グラントは苦笑した。


「私はまるで凶事を伝える悪魔の使者のようですな」


「そう言われるのが嫌なら、たまには良い知らせも持ってくるといい」


 フリードリヒはそう言って笑った。長年に渡って気心の知れた主従の会話であった。


「で、何があった?」


 フリードリヒが真顔になって尋ねる。


「今回、『(ゲート)』に向かう若者のことなのですが」


「ああ、ルカという青年だな」


「陛下は彼の『願い』を伺っていますか?」


「ああ、聞いておる。なんでも新しい救護院を建てて、運営費の寄贈を定期的に行うようにとのことだ。苦しい者を思いやる心優しい青年だ」


 グラントの右眉がピクリと動いた。


「陛下が直接ルカからお聞きになったわけではないですよね? どなたがその『願い』を陛下にお伝えしたのですか?」


「ジークフリートだが……。『(ゲート)』関連の実務は宰相府の管轄だからな」


「なるほど……」


「何か?」


「はい、私がルカ本人に聞いた『願い』の内容と異なるようです」


「何だと?」


 フリードリヒの表情が険しくなる。


「『願い』を受領しているのも宰相府だ。そこで改ざんされたということか?」


 グラントは否定しない。


 フリードリヒがため息をつく。


「よもやおまえが嘘や冗談を吐いているとも思えん。

 ジークフリートも昔は嫌になるほど規律に厳しい男だったが……。長く権力を持つと腐ってしまうのだろうか」


「宰相を裁くつもりはありません。ただルカの『願い』を改ざんすることは断じて見逃せません」


「わかっておる。まさか『門』の『願い』を改ざんできるなどと考える者がいるとはな。グラント、おまえも知らんだろうが、『願い』は王政府の温情のようなものでなく、『門』を構築した太古の聖女が施した『制約』の一つなのだ。間違った『願い』が叶えられることはないというのに……」


 フリードリヒはさらに大きなため息をついた。


「いつか結界に頼らずに我々が生き延びる方法が見つかるといいのだが」


   ※


 グラントが王宮を出て、再び駐屯地に戻ろうとすると、その道中で引き止められた。


「騎士長ではないですか」


 グラントは足を止めて振り返った。

 呼び止めたのは、今まさに話題に上がった宰相ジークフリートだった。


「騎士長が王宮から出てくるとは只事ではなさそうですな。しかも明日は『薄日』ですよ……。まさかフリードリヒ陛下にお会いしたのですか?」


「そうだとしたら何なのです?」


「騎士は戦うのが本務だと言うのに、内政に口を出すのはどうかと思いますな。しかも貴族でもない騎士ごときが国王に謁見するなど……」


 グラントはジークフリートの嫌味に頭が熱くなるのを感じた。


「宰相閣下、お言葉を返すようですが、『門』や大結界を政治に利用するのはいかがなものかと思います」


「……何のことだ?」


「しらばっくれるのですか? 『願い』は『門』に向かう者のみに託された神聖な『制約』です。俗世の我々が手を加えて、私欲のために利用していいものではない」


「騎士長ごときが宰相に意見するのではない」


「役職や身分など関係ありません。ただ人として、人の尊厳と、神聖なるものとの向き合い方の話をしているのです」


「知ったような口を聞くな」


 ジークフリートは静かな怒りをグラントに向けた。


「後ほど、陛下の御前でお会いしましょう」


 グラントはそう言い捨てて、その場を去った。


   ※


 王宮内の評議の間の最奥に国王フリードリヒが、その右に法務卿、左に書記官が座った。

 右手側の列には騎士長グラントの他、王政府の高官たち、左手側には宰相ジークフリートを筆頭に、宰相府の要人が席を埋めた。


 それぞれが着席したのを確認すると、フリードリヒが口を開いた。


「集まってもらった目的をすでに認識している者もいるとは思うが、『門に向かう者』の『願い』が改ざんされた疑いがあるようだ」


 ジークフリートは国王には顔を向けず、正面のグラントを睨んだ。


「宰相府ではそのような事実を把握しておりません」


 ジークフリートはその一言を返しただけだった。


「では宰相、貴殿が確認した『願い』の内容を今一度この場で申してみよ」


「はい、陛下。王都に大規模な救護院を建立し、広く病人や孤児を受け入れるということ。そして運営のために税の一部を使用し、税に加え、特に富裕層からの寄付金を集めるようにとのことでした」


 そこでグラントが失笑する。


「ルカは『運営』などにまで頭の回るような男ではない……」


 ジークフリートはグラントの言葉を無視した。


「では次に騎士長グラントに問う。『門に向かう者』であるルカという青年は、それとは異なる『願い』を申請したということで間違いないな?」


 フリードリヒがグラントに尋ねる。


「はい、間違いありません」


「どのような『願い』だ」


「ミナという、かの者の幼馴染のパン屋を守っていってほしい、というのがルカの『願い』です」


 それを聞いたジークフリートが吹き出した。


「そんなバカな『願い』があるか。国を守る大結界を再起動するための『門に向かう者』がそんな下らん『願い』を持つはずがなかろう。話にならん。でたらめだ」


「そうか。では本人を呼んで確認するしかないな」


 ジークフリートが怪訝そうな顔をした。


「陛下、一介の兵士を王宮に入れるということですか? 大変な規律違反ですぞ」


「『願い』の改ざんに比べれば大した規律違反ではない。必要ならば今ここでその下らん規律も変えてしまおうではないか」


「ですが……」


「宰相閣下、申し訳ないが、もう呼んでしまっております。規律違反としたければ、後で私を罰してください」


 そう言って、グラントが部屋の外に大声で呼びかけた。


「ルカよ、入れ」


 評議の間の扉が開き、ルカが姿を見せる。


 会議卓に近づき、国王、宰相、そして騎士長それぞれに深々と頭を下げた。


「ルカよ、この度は『門に向かう者』として選ばれたことを……何と言うべきか……率直に言って感謝しかない。ありがとう」


 国王であるフリードリヒが一介の治療兵に頭を下げた。

 法務卿が息を呑み、書記官が手を止めた。その場にいた誰もが驚き、言葉を失った。


「国王が頭を下げるなど……」


 ジークフリートが諫めようとするのをフリードリヒが遮る。


「こんな不甲斐ない国王なぞよりも、『門に向かう者』はよほど尊い存在なのだ。それを理解してくれ、ジークフリートよ」


「陛下、申し訳ございませんが、王国から規律がなくなれば国は乱れます」


「そこまで規律を大事にするおまえがなぜ『願い』の改ざんを行った」


「……改ざんはしておりません」


 ジークフリートは主張を変えなかった。


 グラントがルカに発言を促す。


「僕の『願い』は、ミナという幼馴染のパン屋を守り続けてほしい、というものです」


 ジークフリートは間をおかずに反論する。


「一度提出した『願い』を改変しようとしているのはこの男のほうです。私は確かに救護院建設の『願い』を受領しました」


「そんな……僕は最初からパン屋を……」


 反論しようとするルカをフリードリヒが制した。


「ジークフリート、この者の名は『ルカ』という。どうか名前を呼んでやってくれないか。この者は王国のためにまもなくその名すら失ってしまうのだ。せめてそれくらいの敬意は払ってくれ」


 フリードリヒがジークフリートに向かって言葉を続ける。


「それに残念だが、たとえ『願い』が改変されたのであろうと、『門に向かう者』がそう願う限り、それが本当の『願い』になるのだ。宰相や国王であろうとも、それは変えられん」


「パン屋なぞ守ることが王国を良くすることにつながるはずがない。自分の親しい者だけを優遇するような『願い』が許せますか? 『願い』は個人のためではなく、王国のために使われなければならないのです。私は改ざんではなく、『願い』を正しいものにする補正をしただけです」


「だから本当の『願い』を無効化するために、『薄日』の前にパン屋を潰そうとしたのですか?」


 グラントがジークフリートを睨んだ。


「どういうことだ?」


 フリードリヒがグラントに尋ねる。


「今朝、ごろつきが『宰相の命』としてパン屋の立ち退きを強要しにきたのです」


 フリードリヒが、そしてルカが驚いた表情をする。


「なんて浅はかなことを……。『願い』を無効化する行為は明らかな『制約』違反だ。『制約』を破った者は大結界から排除されるのだぞ。大聖女エリシア・ブランシェの『制約』は絶対だ。ジークフリート、おまえが知らぬはずはないだろう?」


「排除とは何です? 私は大結界の『排除』など迷信だと考えています。仮に私が排除されるとしても私は自分の信じる『正しい行い』を貫きます」


 ジークフリートはフリードリヒの詰問にも怯まず答える。


「『正しい行い』とは言いますが、救護院を使ってよもや利益を得ようとはしておりませんか?」


 グラントは追及の手を緩めない。


「正しい行為により正しく利益を得ることが間違っていると言うのか? ただ無益にパン屋を守るのとは違うのですぞ。困窮した民を救い、病を負った人々を癒そうとする救護院が正当な利益を得て運営されていることの意義を考えていただきたい」


 ジークフリートは淀みなく、堂々と彼の考えを伝える。


「ミナの焼くパンは本当においしいんです!」


 ルカが叫んだ。


 ジークフリートが失笑する。


「おいしいから何だ? 一人の人間の焼くパンがどれだけの困窮した民を救える? パンが病に苦しむ人間を治癒できるのか?」


「パンにそんなことはできません……。人々を救う救護院ももちろん必要なのかもしれません」


 ルカは息を整え、言葉を続ける。


「僕はミナという女性と、彼女のパンに何度も救われました。僕の魂がきれいだと大聖女エリシアがお認めになったのだとしたら、僕は、ミナとそのパンのおかげだと確信を持っています」


「何が言いたいのだ?」


 ジークフリートが焦ったそうに口を挟むが、フリードリヒが手で制し、最後まで話を聞くように促した。


「ミナの焼くパンを食べると、僕はいつも幸せな気持ちになります。それから、他の人にもこのパンを食べてほしい、この幸せを分けてあげたい、優しくしたいと思うようになるんです。困窮している人にも、病に苦しむ人にも手を差し伸べよう、と思えてくるんです。僕が治癒魔法を一生懸命勉強して治療兵になったのも、彼女のパンによって育てられた僕の魂がそう導いたからなのです。

 ミナのパンが日々を生きる人たちの支えとなって、優しさが広がって、自然と多くの人が助け合うような……それが救護院の中だけでなく、救護院の外であっても、その救いの連鎖が広がるんじゃないかと思うんです。

 ……本音を言うと、ミナ本人にも幸せでいてほしいという個人的な願いもあることはもちろん否定しません。ですが、たとえそれを非難されたとしても、僕は僕に与えられたこの『願い』の権利を彼女のために使います」


 ルカは落ち着いた声で、しかしはっきりと話した。


 ジークフリートはそれでも納得がいかない様子で反論をしようとするが、フリードリヒがそれ以上の発言を許さなかった。


「ジークフリート、私は大聖女エリシア・ブランシェを疑うことはできん。それが私の、この王国の国王としての規律だ。

 そして、その大聖女エリシアが選んだ、このルカという青年の、一見夢想のような『願い』も、無意味なものだとは思えんのだ」


 フリードリヒはまっすぐジークフリートを見た。


「このジークフリートはもはや宰相には相応しくない、ということですね」


 そのジークフリートの問いに、国王フリードリヒはただ頷いて答えた。


   ※


 その日の夕方、ミナが店を閉めようと片付けていると、朝に来た二人組の男が店にやってきた。


「店を畳む準備はできたか?」


 小柄な男がミナに言う。


「いいえ」


 ミナははっきりと否定した。


「何だと?」


 大柄な男がミナに掴みかかろうとする。


「そこまでだ」


 店の奥に待機していたグラントが、二人の騎士を従えて出てきた。


「またジジイか。俺たちが怖くて用心棒まで連れてきたようだな。

 だが、残念。今回は宰相様から正式な命令書をもらってきたぞ」


 そう言って小柄な男が一通の書状を差し出した。


 グラントがそれを受け取り、宰相()()()()()()()の署名を確認した。


「この署名は無効だ。ジークフリート様はもう宰相ではない。おまえらは脅迫罪で逮捕だ」


「は?」


 二人のごろつきは何が起きたのかさっぱりわからず、抗議する間もなく、騎士二人に手際よく捕縛される。


「連れていけ」


 グラントの指示に二人の騎士が頷き、縄に巻かれた男二人を歩かせた。


「おい、これは何かの間違いだ」


 喚く二人の声は誰にも届かなかった。



 後にはグラントとミナが残った。


「もうこんなことは二度と起こらんから心配しなくていい」


 グラントが言う。


「ありがとうございます、グラントさん」


「それじゃあな」


 そう言って去ろうとしたグラントは足を止め、振り返った。


「ミナ、言うべきか迷ったんだが、わしらがルカのことを忘れる前に、やはりおまえには伝えておこうと思う」


 ミナが首を傾げる。


「……何を仰っているんですか? ちょっと出征するからって、ルカのことを忘れることなんてあるはずがないじゃないですか」


「出征……と言っておったか。……それはちょっと違うな」


 グラントはミナに、ルカが「門」に選ばれたことを話した。「門」に選ばれた者がたどる運命と、ルカが代償に何を願ったかということも。


 その話を聞き終えたミナは膝から倒れ落ち、泣き崩れた。


   ※


 やがて陽が落ち、夜が深まって日が回ると「薄日」がやってきた。

 そうなると、速やかに『門』で大結界の再起動が行われなければならない。



 ルカは「門」に選ばれた「門に向かう者」——それは言ってみれば大結界の贄だった。


 大結界の効力が弱まる「薄日」が迫ると、太古の聖女エリシア・ブランシェが施した大結界の「制約」により、「王国内で最も美しい魂」を持つ者が「門に向かう者」として選ばれる。「門に向かう者」の右手の甲に古代魔法文字(ルーン)が浮かび上がることで、それを知ることになる。

 「門に向かう者」の体内の魔力(マナ)と美しい魂が、「門」と呼ばれる魔法陣に捧げられ、大結界の動力となり、王国を守る。それと同時に、美しい魂の『願い』により、世界を少しずつ良くしていく、というのが聖女エリシアの構築した王国の大結界に込められた思想であった。


 そして、魂を「門」に吸い取られた者は存在そのものを失い、誰の記憶にも、いかなる記録にも残らない。確かにいたはずの者が次の瞬間には「最初から」いなかったことになる。それも聖女エリシアの施した「制約」の一つであった。

 それが、残された者の喪失感を和らげる慈悲のためなのか、大結界の機能的に必要な「制約」だったのかは不明だが、「制約」である以上、避けようはなかった。


 関係者はもちろん、誰かが「門に向かう者」として贄となり、その存在を「門」に捧げることで大結界が再起動され、「願い」が遂行されることを知っている。しかし誰が贄であったのかは誰も記憶していない。

 歴史から消えながら、歴史を支える、それが「門に向かう者」なのだ。


 ルカは魔法陣「門」の前にひとり立っていた。

 ルカの希望によって、付添人はたてられなかった。ルカに関する記憶も記録も消滅するため、通例として証人の立会いもなかった。

 「門に向かう者」は孤独だった。



 ところが、魔法陣に足を踏み入れようとするルカの背に飛びついた者があった。


「ルカ、だめ」


「ミナ……」


 「(ゲート)」の場所は一般に知られてはいなかったが、国王フリードリヒの許可を得て、グラントがミナにその場所を伝えていたのだった。


「行かないで……。お願い」


 後ろから抱きしめたミナの手を、ルカの温かい手が触れた。


「大丈夫。『門』の制約で僕のことはきれいさっぱり忘れられるから」


「そんなふうに言わないで!」


 ミナは喉が裂けそうになるほどの声で叫んだ。


「私は絶対にあなたのことは忘れない。『門』の制約なんて知らない。大昔の聖女の力なんて関係ないわ」


 ミナの声は震えていた。

 その声を聞くのが、ルカには辛かった。


「お店が守られるように『願い』をしたんだ。ミナのパンはいろんな人を幸せにしてくれるパンだ。僕は何よりもそれを誇りに思っていたんだ。

 ……今日のパンは本当においしかった」


「ルカがいなくなるならお店なんていらないわ……。何でルカじゃないといけないのよ。大結界も聖女も皆も許せない。なんでこんなものがあって、皆もなんでこんなものに頼らないといけないのよ……」


「仕方ないよ。僕ひとりだけがいなくなって、王国の皆が平和に過ごせるなら、安いものじゃないか」


「安くなんかない。私にとっては王国なんかよりもあなたのほうがよっぽど大事なのよ」


 そのとき、ルカが振り返り、ミナに口づけをし、抱きしめた。


 ずっとこのままでいたい、と二人が二人とも強く思った。



 しかし、やがてルカがミナの耳元で告げた。


「本当にごめん。でも行かなくちゃ。あまり遅くなると王国が危険に晒されてしまうから。魔物の侵入を許したら大変だ」


 ミナは精一杯の力でルカの両腕を掴む。


「行かないで……ルカ……お願いだから……パン屋も王国もどうなったっていい……」


 ルカはミナの腕を振りほどき、魔法陣に向き直る。


「すぐ忘れてしまうと思うけど……ミナ、大好きだよ」


 ミナのほうを振り返らずにそう言い残して、ルカは『門』に足を踏み入れた。


 右手の甲の古代魔法文字(ルーン)が強い光を放ってルカの全身を包んだ。


 やがて、その光はルカの身体と魂を溶かしていった。


   ※


 「薄日」が終わり、大結界は再起動され、王国は新たな一日の平穏な朝を迎えた。



 いつものようにミナはパンを焼いていた。


 ところが、気がつくと一つ余計にパンを焼いていた。

 そして、なぜかそのパンに少し焦げ目をつけていた。


「何をしているんだろう、私……」


 ミナはそのパンを齧った。


「やっぱり私の焼いたパンはおいしいわね」


 その味が口いっぱいに広がると、ミナの目から涙が溢れてきた。

 なぜかわからないが、とても大事なものを失くしてしまった気分になった。


 ——いつも食べているパンの味なのに、なんでこんなに気持ちになるのかしら。



 店を開けると、常連の老騎士グラントがやってきた。

 グラントはいつものようにいくつかパンを買い、一口頬張った。


「今日もうまいな。『門』の贄になった者がこのパン屋を守れと『願い』を遺した理由がよくわかる」


 それを聞いたミナは嬉しそうに微笑んだ。


「大結界は無事に再起動されたんですね」


「ああ。『門に向かう者』のおかげでな」


 ミナは今朝からずっと考えていたことをグラントに話した。


「どんな人だったんでしょうね……。せっかくの『願い』を私のパン屋なんかのために使ってしまうなんて……。きっと私のことも大事に思っていてくれた人なんじゃないかって思うんです。ぜんぜん覚えていないんですけれど、決して忘れられない気もするんです。誰も覚えていないけれど、その人は確かにこの世界にいて、この世界の一部になっているんです」


「そうかもしれんな」


 グラントはそう言ってまた一口、パンを頬張った。


「このパンは本当に幸せな気持ちにさせてくれる。きっとその者もこのパンが大好きだったんだろう。それだけは確信できる」


 ミナはまた嬉しそうに微笑む。


「そうだったなら嬉しいです。いえ、本当は私もそう思うんです」


 微笑みながら、また自然とミナの頬に涙が一筋流れ落ちるのだった。

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― 新着の感想 ―
切ない………。 どっちもいい子だったから二人で幸せになってほしかった……。
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