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第三章 移民と自由その3

 注意深く耳を澄ませてみると、床下の深い場所から、誰かが押し殺すような咳き込む音が聞こえた。それは、古い家の軋みや風の音とは明らかに違う、生身の人間が発する生理的なノイズだった。昂良は、聞こえたか確認するように、隣にいる野田と顔を合わせた。野田もまた、険しい表情で小さく頷く。野田は中腰のまま、獲物を狙う肉食獣のような鋭い視線で床を観察し始めた。どこかに地下へと通ずる隠し扉がないか、埃の積もったフローリングの継ぎ目を目で追っていく。  すると、リビングの中央に位置するであろう場所に敷かれたカーペットに、極めて不自然な、わずかな膨らみがあることに気づいた。


 野田は、この下に扉があると確信したようだ。昂良に目配せをし、互いに拳銃を構え直す。野田がカーペットの端を掴み、勢いよくめくった。舞い上がる埃の中、予想通りそこには地下へと続く木製の扉が鎮座していた。取っ手の金属部分は錆びつき、長い間使われていなかったように見えるが、蝶番のあたりには新しい油の痕跡がある。最近、誰かがここを出入りした証拠だ。


 野田は扉の取っ手に手をかけ、一気に引き上げた。プン、と強烈な異臭が鼻をついた。カビと湿気、そして多くの人間が狭い場所に押し込められた時に発する、えた体臭の混じった臭い。昂良は思わず顔をしかめた。  開かれた扉の先には、闇へと続く急な階段が口を開けている。野田は左手で開いた扉を固定したまま、動こうとしなかった。昂良は違和感を覚えた。いつもなら先陣を切って突入するはずの野田が、固まっている。よく見ると、銃を握る彼の右手は、白くなるほど強く握りしめたり、小刻みに開いたりを繰り返している。額には脂汗が滲み、呼吸が浅くなっているのが見て取れた。


「野田さん?」


 すぐに行かない様子に疑問を持った昂良は、小声で問いかけた。野田は昂良の方を見ようともせず、暗い穴の底を睨みつけたまま、絞り出すような声で言った。


「……悪い、昂良。実は俺、閉所恐怖症なんだ」


 その告白は、意外すぎるものだった。大胆不敵な敏腕エージェントの、あまりにも人間くさい弱点。野田は震える声で続ける。


「あの狭さと暗さを見ただけで、肺が縮まるような気がする。……だから、他の奴が戻って来ないか俺は見張ってる。悪いが、一人で行ってきてくれないか?」


 昂良は少し目を細めた。普段の軽口からは想像できない野田の切迫した様子に、彼がふざけているわけではないことを悟った。「分かりました。バックアップはお願いしますよ」昂良は短く答え、ため息をつく代わりに覚悟を決めて、階段の奥へと足を運んだ。


 空き家自体も薄暗かったが、地下の闇は濃密だった。スマートフォンのライトを点灯させなければ、一寸先も見えない状態だ。階段を一段降りるごとに、湿度が上がり、空気が重くなるのを感じる。突き当たりには、鉄製の重厚なドアがあった。昂良は緊張で乾いた唇を舐め、ノブに手をかけた。鍵はかかっていない。ドアを開けようとしたところ、蝶番が錆びついているのか、硬く、ギシギシと不快な音を立てて抵抗した。


 キィィィ……。


 重い扉が開くと同時に、昂良はライトを部屋の奥へと向けた。光の束が闇を切り裂き、そこにいる者たちを照らし出す。


 そこには、十人ほどの人々がいた。肌の色や顔立ちから、おそらく東南アジア系の人々だろう。彼らはボロボロの服を身に纏い、部屋の隅で互いに身体を寄せ合い、固まっていた。突然の侵入者と強烈な光に、彼らは怯えた獣のような目を向けた。昂良が何か危害を加えると思ったのだろう、悲鳴を上げることもできず、ただガタガタと震えている。


「大丈夫です! 警察のものです。助けに来ました!」


 昂良は銃を下げ、両手を見せて敵意がないことを示そうとした。どうにか落ち着かせようとなだめるが、言葉が通じない。英語で試しても反応がない。言語の壁が、分厚い鉄板のように立ちはだかる。意思疎通ができていない焦りが、昂良の背中を冷たい汗で濡らす。どうしたらいいのか悩んでいると、集団の中の一人、中年の男が突然白目を剥いた。 「ガハッ……!」男は喉の奥から異音を漏らし、泡を吹いてその場に倒れ込んだ。痙攣する身体。尋常ではない様子だ。


「おい、しっかりしろ!」


 昂良は駆け寄ろうとしたが、他の人々がパニックになり、男を守ろうと昂良の前に立ちはだかる。事態は一刻を争う。昂良は頭上の入り口に向かって叫んだ。


「野田さん! 急病人です! すぐに救急車を!」


ーーーー数分後ーーーー


 けたたましいサイレンの音が、静かな住宅街の空気を切り裂いた。赤色灯が建物の壁を赤く染め、警察車両や救急車が次々と現場に到着する。防護服を着た救急隊員たちが地下から人々を搬出し、鑑識課員たちが証拠保全のために動き回る。現場は一気に騒然となった。昂良たちは、規制線の内側、先ほどの家の前に集まっていた。そこへ、烈が戻ってきた。その表情は苦渋に満ちており、眉間には深いシワが刻まれている。犯人を追跡したはずの彼が一人で戻ってきたということは、結果は聞くまでもなかった。野田が、タオルで顔の汗を拭きながら質問をした。


「……捕まらなかったか」


「ああ。土地鑑があったのか、入り組んだ路地を使われて、あと一歩のところで逃げられた」


 烈は悔しげに拳を握りしめ、パトカーのボンネットを軽く叩いた。「だが、顔は覚えている。似顔絵を作成させて警察に手配させる。……家の方はどうだった?」


「地下に10名。全員、タイからの違法移民だった」


 野田は手元のメモを見ながら報告した。その表情には、先ほどの閉所恐怖症の弱さは消え、プロの捜査官の顔が戻っている。「その中の一人、泡を吹いて倒れた男がいたが……搬送先の病院から連絡があった。腹の中から破れたコカインの袋が出てきたそうだ。おそらく、人間を使った運びボディ・パッカーだな」


 野田の説明を聞いた全員が、露骨に嫌悪感を示した。人間の体内を道具のように扱い、死のリスクと隣り合わせで運ばせる卑劣な手口。しかし、彼らの中には一つの大きな疑問が残っていた。それは、最初に路上で保護されたあの女性のことだ。


「……おかしいと思わないか?」


 美優が、保護された女性が乗せられた救急車を見送りながら呟いた。「彼女だけが脱獄できて、残された人たちは逃げようともしなかった。それに、彼女の手足には10年近い長期監禁を示す拘束痕があったわ。でも、地下にいた密入国者たちには、そんな痕跡は一切なかった」昂良も頷いた。


「ええ。地下の人たちは、おそらく最近日本に来たばかりです。汚れ方も、衰弱の仕方も、彼女とは明らかに違う」


 つまり、この家では「違法移民の密輸・麻薬運搬」と、「長期間の女性監禁」という、全く性質の異なる二つの犯罪が同時に行われていたことになる。そして、逃げた男は移民たちを置いて逃げた。彼女だけがなぜ逃げ出せたのか、そしてなぜ彼女だけが特別だったのか。その疑問を抱きつつ、現場検証を警察に引き継ぎ、彼らは一度現場を後にしてアジトへと向かった。


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