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第三章 移民と自由その2

 野田が即座にサイドミラーを確認し、後続車の有無と周囲の安全を確保する。「クリアだ」という短い報告を聞くや否や、烈はシートベルトを乱暴に外し、ドアを蹴り開けた。


「おい、大丈夫か!」


 烈が駆け寄る。昂良も震える手でドアを開け、外へと飛び出した。アスファルトの上に倒れ伏した女性は、太陽の逆光の中で、あまりにも小さく見えた。


 烈が膝をつき、慎重に女性の肩に触れる。 「聞こえるか? 分かるか?」返事はない。 近くで見ると、その惨状は明らかだった。衣服は泥と油で汚れ、破れた裾からは無数の擦り傷が覗いている。それだけではない。手首と足首には、赤黒く変色した痣――何かに長時間縛り付けられていたような拘束痕が刻まれていた。 そして、裸足の足裏からは血が滲み、アスファルトを汚している。遅れて車から降りてきた野田が、険しい表情で周囲を見回しながら近づいてきた。その手は、ジャケットの影でいつでも拳銃を抜ける位置にある。


「おい、烈……まさかとは思うが、轢いたわけじゃないだろうな」


「いや、接触はしていない。ぶつかる寸前で止まったはずだ」


 烈は強く首を振って否定した。プロのドライバーとしての矜持と、冷静な観察眼がそう告げていた。



「見ての通り、状態がかなり悪い。この傷、ただの徘徊じゃないぞ。何日も、あるいは何ヶ月も監禁されていた様子だ。野田、すぐに救急車を。警察への連絡は俺がやる」


「了解」


 野田がスマートフォンを取り出し、手短に通報を始める。烈は立ち上がり、鋭い視線を路地の方へと向けた。この女性は、一体どこから現れたのか。空から降ってきたわけではない。  ブレーキをかける直前の残像を再生する。女性の顔は、進行方向の左側――住宅街の路地の影の方を向いていた。いや、そこから『出てきた』のだ。


「美優、彼女の保護を頼む。救急車が来るまで目を離すな」



「分かったわ。気をつけて」


 美優にその場を託し、烈は野田と昂良に顎で合図を送った。言葉はいらなかった。血の跡を辿る。それが狩りの始まりだった。三人は、建物の影が落ちる路地裏へと足を踏み入れた。そこは、表通りの明るさとは隔絶された薄暗い世界だった。伸び放題の庭木が視界を遮り、湿った土とカビの臭いが漂っている。昂良は目を凝らして地面を見た。点々と続く赤黒い染み。それは、彼女が必死の思いで逃げてきた生命の痕跡だ。引きずったような足跡が、ある一軒家の前まで続いていた。誰も住んでいないはずの空き家。だが、その玄関ドアがわずかに開いている。その時だった。


 バンッ!


 ドアが乱暴に開き、中から男が飛び出してきた。鬼のような形相。充血した目。ボサボサの髪。 男は烈たちの姿を見るや否や、一瞬で顔面を蒼白にさせ、悲鳴のような声を上げて走り出した。ドアを閉めることすら忘れて、脱兎のごとく路地の奥へ消えていく。


「野田、昂良! 中を確認しろ! 俺は奴を追う!」


 烈が叫び、風のように男の後を追った。その背中が見えなくなるのを確認し、残された野田と昂良は顔を見合わせる。逃げた男が犯人なのは間違いない。だが、まだ中に仲間がいるかもしれない。あるいは、他にも被害者が……。


「行くぞ。昂良、背中は任せた」

「はい!」


 二人は警戒しながら、開け放たれたドアをくぐった。家の中は、外よりもさらに空気が淀んでいた。カビと埃、そして人間の排泄物の臭いが微かに混じっている。昼間だというのに、雨戸や新聞紙で目張りされた室内は薄暗い。昂良は、以前親友の斗真から聞いた話を思い出していた。彼の父親――伝説の刑事が言っていた言葉だ。 『現代社会において、完全に放置された空き家というのは意外と少ない。管理されていない家は、社会の隙間だ。そして隙間には、必ずと言っていいほど悪いネズミが住み着く』まさに、ここがそのネズミの巣なのだろうか。一階のリビング、キッチン、風呂場。そして二階の個室。慎重にクリアリングを行っていくが、人の気配はなかった。男の仲間も、他の監禁被害者も見当たらない。あるのは散乱したゴミと、誰かが生活していた生々しい痕跡だけだ。


「……昂良、そっちはどうだ?」

「収穫なしです。誰もいません」


 一階のリビングに戻った二人は、重苦しい溜息をついた。野田が顎をさすりながら、独り言のように呟く。 「妙だな。家から出てきたあの男、被害者が逃げたっていうのに、中を捜索している様子じゃなかった。ただ慌てて外へ飛び出してきた感じだったな。普通、監禁場所なら監視役としてもう一人くらいいてもおかしくないはずだが……」歯切れの悪い会話。違和感が拭えない。昂良が口を開きかけた、その時だった。


「ッ、待て」


 野田が鋭い声で制し、手でジェスチャーを送った。静かにしろ、という合図だ。野田は中腰になり、右耳を床の方へ傾けている。その目は、床板の向こう側にある「何か」を見透かそうとするかのように細められていた。注意深く聞いてみると、下から誰かが咳き込む声がした

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