第三章 移民と自由
朝の眩しい陽光が、流線型の黒いボディを滑るように流れていく。午前10時の都市は活気に満ちていた。ビル群のガラス壁が太陽を反射し、無数の車が行き交う様は、平和そのものに見えた。だが、その明るい光の裏側に、決して照らされることのない深い影が広がっていることを、この車に乗る者たちは知っている。
見事、最初の事件を解決した鳳凰昂良は、今まさにその「影」の住人としての第一歩を踏み出したところだった。スバル・WRXの後部座席。本革シートの感触に背中を預けながら、昂良は隣に座る白雪美優――任務時のコードネーム「アテーナ」――と、前席の二人を交互に見ていた。運転席には、チームのリーダーである海野烈。助手席には、軽薄そうな口調とは裏腹に鋭い観察眼を持つ野田英斗。これは、事件解決の祝いを兼ねた、ささやかな歓迎ランチへ向かう道中だった。目的地は、この厳つい男たちには似つかわしくない、カジュアルなピザ屋だという。開店直後の早い時間だが、腹を空かせた男たちには関係ないようだ。
「ちょっと烈さん、俺の車だからって荒い運転しないでくださいよ。サスペンションが痛むでしょうが」
助手席の野田が、ダッシュボードを愛おしそうに撫でながら文句を言った。車内に差し込む日差しが、野田の手元を明るく照らしている。
「……勘違いするな。任務遂行中の現在、こいつは野田の私物ではない。組織の徴用車両だ」
烈はハンドルを握る手に力を込めず、滑らかに車線変更を行いながら答えた。サングラス越しの横顔は、彫刻のように硬い。
「出たよ、都合のいい解釈。それにしても、いつも人の車を勝手に乗り回して運転だけはしたがるんだよな、アンタは。なんせこの男、とんでもない仕切り屋だからな。自分でハンドル、つまり主導権を握らないと気が済まないタチなのよ」
野田は肩をすくめ、後部座席の昂良たちに聞こえるように戯けた声を出した。烈は一瞬だけ助手席を睨みつけたが、すぐに視線を前方に戻した。特に反論はしない。それが図星だからなのか、あるいは野田の軽口にいちいち反応するのが面倒だからなのか。 昂良は少し困惑した。リーダーという立場を長くやっていると、そういう細部へのこだわり――コントロールフリーク的な側面――が出てくるものなのだろうか。それとも、単に運転が好きなだけなのだろうか。
「で、昂良は何ピザが好きなんだ? 俺はマルゲリータ一択だがな。邪道なトッピングは許せないタチでね」
またしても野田が話を遮り、唐突に話題を変えた。その口調は、まるで世界の真理を語るかのように自信満々だった。
「俺は……パイナップルピザだな」
ハンドルを握ったまま、烈がボソリと呟いた。明るい車内の空気が、一瞬で凍りついた気がした。
「おい……ちょっと待て、烈」
野田の声色が、一段階低くなった。信号が赤に変わり、車が静かに停止する。野田はゆっくりと首を回し、運転席の烈を凝視した。それは凶悪犯を尋問する時の目だった。
「今、何と言った? パイナップルだと? おい烈、アンタの味覚中枢はどっかぶっ壊れてるんじゃないのか?」
「はあ? 甘じょっぱいのが最高だろうが。酢豚のパイナップルも、ポテトサラダのリンゴも、俺は許せるぞ」
烈はどこ吹く風といった様子で答えた。
「その二つはまあいいけど、パイナップルピザは言語道断だ」
野田はダッシュボードを指で叩きながら、熱弁を振るい始めた。
「いいか、ピザはチーズとソース、そして生地なの。その三つ。ペパロニを乗っけるのはいいとして、パイナップル、ダメ。ハム、ダメ。ピザとフルーツは属している世界が違う、相容れないのよ。」
「あ〜あ、また始まったよ。野田の『食の原理主義』お説教タイム」
烈はやれやれといった様子でハンドルを叩いた。
「もっと視野を広げて、心を広く持てってんだ。固定観念に縛られてちゃ、新しい世界は見えてこないぜ? 食わず嫌いは捜査の目も曇らせるぞ」
「心を広く持てだあ~?! メインのディッシュにフルーツをぶち込むのは、料理への冒涜だ。馬鹿じゃねえのか……」
二人の言い争いは、まるで漫才の掛け合いのようにテンポよく、しかし内容は不毛極まりないものだった。信号が緑に変わり、車が滑らかに加速する。Gを感じながら、昂良は隣の美優に小声で尋ねた。
「……いつもこんな感じなんですか?」
「ええ、残念ながら」
美優は深いため息をつき、窓の外へと視線を逃がした。通り過ぎる街路樹の緑が鮮やかだ。
「任務中はプロフェッショナルなんだけど、ハンドルを握った途端これよ。呆れるわよね。……もう思い切ってフルーツピザにしたら? 今、女子高生の間でデザートピザが人気なのよ」
その提案が聞こえた瞬間、前席の二人の動きがピタリと止まった。
烈と野田が、同時に、まるで双子のようなシンクロ率で振り返り、美優を見た。その表情は、エイリアンを見るような困惑と、正気を疑う驚愕に彩られていた。
「「マジで?!」」
二人の声が重なった、その時だった。
昂良の視界の端――フロントガラス越しに見える歩道の建物の影から、白い人影がふらりと車道へ溢れ出た。真昼の陽光の下だというのに、それは亡霊のように見えた。ボロボロの衣服を纏った人間の女性。おぼつかない足取りで、行き交う車への恐怖心など欠片もないように、車の前へと進み出てくる。
「烈さん、前ッ!!」
昂良の喉から、悲鳴にも似た警告が迸った。烈の反応は神速だった。パイナップルの議論など脳内から消し飛び、身体に染み付いた反射神経がブレーキペダルを床まで踏み抜く。
キィィィィィィィッ――!!
アンチロック・ブレーキ・システムが作動し、タイヤがアスファルトを削る不快な断末魔が響き渡る。強烈な慣性が全員の体を前へと放り出した。シートベルトが胸骨に食い込み、呼吸が一瞬止まる。 視界の中、陽の光に晒された女性が、迫りくる鉄の塊に気づいたように顔を上げた。その瞳は虚ろで、焦点が合っていない。明るい日差しが、彼女の顔色の悪さを残酷なほど鮮明に映し出していた。避ける動作すら取れないまま、彼女は糸が切れた操り人形のように、前のめりに崩れ落ちた。車体が完全に停止する。ゴムの焦げた臭いが鼻をついた。静寂。外の喧騒が一瞬遠のき、心臓の音だけがうるさいほどに鳴り響く。
「……ッ」
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