第13話「貴族らしく」
朝。
薄いカーテンの隙間から、柔らかな光が射し込んでいた。
ぼんやりと瞬きを繰り返すうちに、重い扉がきぃ、と開く。
「――おはようございます、リゼリア様」
セシルだった。
完璧に整ったメイド服、姿勢も声も乱れがない。
けれど、瞳の奥にどこか針のような冷たさが見える。
私は寝返りを打ち、ゆっくりと起き上がった。まだ体はだるく、夢うつつのまま。
けれどセシルの次の言葉が、その眠気を一気に吹き飛ばした。
「それで……潜入を始められるか、お決めになられましたか?」
まるで挨拶よりも先に、それを確認するのが当然であるかのように。
私は思わず言葉を失う。
喉が渇いて、声が出ない。
黙って俯いていると、セシルは長い睫毛を伏せ、深いため息を吐いた。
「……やはり。まだ覚悟がお決まりにならないのですね」
そのため息は、部屋の空気を冷やすように重かった。
胸の奥が、ずきりと痛む。
「……す、すみません……」
かろうじて声を絞り出す。
けれど次の言葉は、もう抑えられなかった。
「……今日、外出とか……できますか?」
セシルの目が細くなる。
私は視線を逸らしながら、必死に言葉を続けた。
「孤児院に……行きたくて……。子どもたちに、ちゃんと……」
そこまで言った瞬間、鋭い声が重なった。
「――ご自分の立場が分かっていらっしゃいますか?」
まるで刃物で切り裂かれるような声だった。
私はびくりと肩を震わせ、息を飲む。
セシルは一歩、私に近づいた。
その顔は整っているのに、怒りを押し殺した表情が恐ろしく見える。
「孤児院? 子どもたち? ……まさか、あのお二人のように子どもたちを巻き込みたいとでも?」
胸が凍る。
ルシアさんとエルバンさんの姿が、まざまざと脳裏に浮かんだ。
冷たくなった手。二度と返らない声。
「……っ、ちが……」
否定しようとした声が震える。
けれど、セシルはまたため息をついた。
「……分かっていないのです」
「今、あなたがどれほど危うい立場にいるか。竜であるというだけで敵視され、監視されている。そのうえ、貴族の血を背負っている」
彼女の言葉は正しい。
分かっている。頭では。
けれど――心が追いつけない。
(約束した……。子どもたちの顔を見たい……。それだけなのに……)
胸の奥が、きゅうと締めつけられる。
涙が浮かびかけたが、私は必死に瞬きをして堪えた。
セシルの冷たい言葉に胸を押し潰されるような思いを抱えながら、私は俯いたまま沈黙していた。
けれど、セシルは構わずきっぱりと言い放つ。
「……とにかく。今日は礼儀作法の基礎から始めます。朝食のあとすぐに準備をしてください」
淡々とした声。
拒否の余地などまったく与えない、鋭い調子。
私は小さく頷くしかなかった。
胸の奥で、「ごめんなさい……」という悔しさと寂しさがうずを巻いていた。
子どもたちの笑顔を思い出すと、どうしても心が苦しくなる。
でも。
そのとき、セシルがふっと小さく息をついた。
今までの棘のような声色ではなく、ほんのわずかに柔らかい響きを帯びていた。
「……あなたが本当に望むなら、私が手紙を出しておきます」
「……え?」
思わず顔を上げた。
セシルは、そっぽを向いたまま続ける。
「子どもたちへ。元気でいるように、と。……そのくらいなら構いません。あなたは、あなたの勉強に集中してください」
わずかに伏せた横顔に、鋭さはなくなっていた。
言葉も、ほんの少しだけ優しさをにじませていた。
胸の奥がじん、と温かくなる。
孤児院に行けない寂しさは消えないけれど――それでも。
子どもたちに思いを届けられる。
その可能性が、心を少しだけ救ってくれる。
「……ありがとうございます……」
自然に声が震えた。
感謝がこみ上げ、涙が零れそうになるのを慌てて袖で拭う。
セシルは、そんな私をちらりと見やって、すぐに視線を逸らした。
唇をきゅっと結び、感情を隠すように冷たい調子に戻す。
「……礼は不要です。では、早く準備を」
そう言いながらも――
その仕草の奥に、ほんの一瞬だけ、柔らかな光が見えた気がした。
朝食を済ませると、セシルに案内されて広い一室へ通された。
窓からの光が磨き抜かれた床に反射し、壁には精緻な刺繍の布や絵画が並んでいる。まるで舞踏会のための練習場のようだった。
「ここで礼儀作法を学んでいただきます」
セシルは背筋をぴんと伸ばしたまま、鞭のような声を響かせる。
私は思わず喉を鳴らした。
「まずは立ち居振る舞いからです。貴族令嬢として最低限の姿勢も保てないのなら、潜入どころか門前払いですから」
そう言うと、彼女は私の両肩をぐいと押し下げ、背筋を無理やり伸ばした。
骨がきしむほどの力。
私は思わず「いたっ」と声を漏らしてしまう。
「痛い? それがどうしました。人前で背を丸めてみなさい、あなたが竜であると気づかれる前に『下賤な振る舞い』として嘲笑されるのです」
その言葉には、ただの指導を越えた棘があった。
胸の奥にちくりと刺さる。
「笑顔です」
「……え?」
「笑顔を作りなさい。竜の不気味さを隠すには、人族の顔を武器にするしかないのです」
私は慌てて口角を上げる。けれど頬が引きつって、不自然な笑いになってしまう。
「違います」
セシルは冷たい瞳で私を射抜き、手元の小さな鏡を突きつけた。
そこには、怯えたように震える自分の顔。
「そんな顔で貴族の娘を演じられるとお思いですか? 竜という正体がばれなくとも、恥をさらすだけです」
ぐさりと心を抉られる。
胸の奥で「竜」という言葉が重くのしかかる。
(どうして……そこまで……)
その後も、地獄のような訓練が続いた。
カトラリーの持ち方。
ティーカップを持つ角度。
歩く速度と足の角度。
舞踏のステップ。
少しでも間違えるたびに、セシルの声が鋭く飛んでくる。
「肘を開くな!」
「足先をそろえなさい!」
「手を出すタイミングが遅い!」
怒声が、まるで刃となって突き刺さる。
気を抜けば、竜への嫌悪をそのまま私にぶつけているのではないかと思うほどだった。
何度も足を踏み外し、ティーカップを倒し、スカートの裾を踏んでしまう。
そのたびに、セシルの吐息が重く響く。
「……竜は、やはり不器用なのですね」
心臓が凍りついた。
彼女の口から出た「竜」という言葉は、刃よりも鋭い。
あの孤児院の子どもたちに歌を聴かせて笑ってもらった日々が、頭をよぎる。
――私、やっぱり竜だから……。
胸が締めつけられ、視界が滲んだ。
けれど、その時。
セシルが私の震える指先を掴み、ぐっと持ち直させた。
「……何度失敗しても構いません。ただし――次は必ず正しくやりなさい」
声は冷たい。けれど、その手の力だけは、決して離そうとしなかった。
私は歯を食いしばり、小さく頷く。
背筋を伸ばし、何度もステップを繰り返す。
足の裏が痛くなり、指が赤くなっても、やめなかった。
(……負けたくない……)
セシルの厳しさに心を削られながらも、どこかで「挑まれている」と感じていた。
竜である自分を試されているような――そんな気がして。
午後になり、午前の地獄のような礼儀作法練習が終わった直後、セシルは突然、腕を組みながら私を見下ろした。
「……今日のところは、これくらいにいたしましょう」
思わず息をつく。肩の力がすっと抜け、背中の痛みも少し和らいだ。
「……え、これで、いいんですか?」
思わず声を漏らす。セシルは冷たい瞳で私を一瞥し、少しだけ口元を緩める。
「……はい。まだまだ習得は不十分ですが、無理に押し付けても身につきません。まずは今日のところは、ここまで」
その声に、私は小さく頷いた。
疲れ切った体を押しながらも、どこか胸の奥がほっとした。
「……それでは、これからお支度をしていただきます」
セシルはそう言うと、私を部屋の隅にある小さな鏡の前に案内した。
そこには筆やパレット、色の入った瓶が並べられていた。
「……こちらで、竜の紋章を隠すメイクを施します」
私は手に力が入る。まだ竜の紋様が背中に、顔に、首元にうっすらと浮かんでいる。
「これから、この部屋以外に出るときは、必ず紋様を隠してください」
セシルの声には鋭さがある。だが、そこには冷静さと、何か守ろうとする意思も見え隠れした。
私は深く頷く。
「……わかりました」
鏡の前に座り、慎重に筆を取る。
紋様をなぞる指先に力が入り、少し震えた。
それでも、セシルは一切手を貸さない。
見守るだけで、私の動作に目を光らせている。
顔の紋様を少しずつ隠していく。赤や金の色が、肌の色に馴染むように丁寧に塗られる。
指先が疲れて、何度も筆を置きそうになる。
でも、鏡の中の自分を見て、ぎゅっと唇を結ぶ。
(……これで、バレない……)
心の奥で、少しだけ安心する。
紋様が見えてしまったら、急に何が起こるか分からない。
「……よろしい」
セシルが背後で言う。振り返ると、彼女の瞳は冷たさを保ちつつも、どこか満足そうに見えた。
私は小さく息を吐き、椅子から立ち上がる。
「これから、ジーク様のところへお連れいたします」
その言葉に胸が跳ねた。
昨日ぶりに会うジーク――あの高台で私を救ってくれた少年に、もう一度会えるのだ。
「はい……お願いします」
自然にそう答えると、セシルは無言で歩き出した。
廊下を歩くたびに、細かく磨かれた床が光を反射する。
静かな建物の端にある部屋から中央に向かう足音が、規律正しく響く。
思わず胸が高鳴る。
セシルの歩調に合わせて進むうち、廊下の中央に広がる空間が見えてきた。
扉が二つ並び、その先にジークの部屋がある。
その前で、セシルは私に一度だけ目線を投げた。
「……準備はよろしいですね」
小さく頷く。
胸の奥は緊張でざわざわするけれど、同時に期待も混ざっていた。
ジークに会えば、昨日の続きがある――どんなことを話すのか、どんな表情を見るのか。
私は深呼吸をひとつして、ゆっくりと前へ進む。
セシルが扉の前で一歩下がり、手で促す。
「では、中へ」
私は扉に手をかけ、静かに開く。
心臓の鼓動が高鳴る。
これから、ジークと再会するのだ――昨日のあの瞬間からの続きを確かめるために。
扉を開けると、豪華な室内に柔らかな光が差し込んでいた。
机に向かって座るジークの姿が目に入る。
深い色合いの木製の机。上には紙や書類がきちんと整えられ、細かな装飾が施されている。
壁には絵画や豪華なタペストリーが掛かり、部屋全体が金と赤の光で満たされている。
まるで別世界に足を踏み入れたような気持ちになる。
「……ジーク様……」
声が自然に漏れた。胸が高鳴り、緊張で手が少し震える。
彼は書類から顔を上げると、深く澄んだ瞳で私を見た。
あの高台で私を救ってくれた少年――昨日のままの姿がそこにある。
セシルが一歩前に出て、きっぱりと告げた。
「お連れいたしました。最低限、ご無礼はありません」
私は小さく頭を下げる。
緊張が体中を覆い、心臓が早鐘のように打つ。
ジークは私の姿をじっと見つめ、ゆっくりと言った。
「紋様、ちゃんと隠せてるね」
その声に、胸の奥がふっと軽くなる。
昨日の恐怖、落下、そして救われた記憶が、一瞬で脳裏に蘇る。
「……はい」
小さく答えると、ジークは机から立ち上がり、軽く手を振った。
「よし、では行こうか」
言葉に、自然な力強さがあった。
その表情には、昨日見せた冷静さや鋭さは影もなく、まるで指揮者が指示を出すかのような落ち着きがあった。
「えっと……どこに……でしょうか?」
思わず声が震える。
ジークは振り返り、微笑を浮かべた。
「この国の皇帝だよ。僕は皇帝の息子なんだ」
その言葉に、頭の中が真っ白になる。
私の中で、さっきまでの緊張や安心が、いきなり混乱に変わる。
「……え……皇帝……この国の……それに息子……?」
思わず声が漏れる。何が何だかわからない。
昨日まで、ただ助けてもらった少年――それが皇帝の息子だったという現実が、理解を超えて迫る。
視界の端でセシルが小さく咳払いをし、私に視線を送る。
その表情には「覚悟して」と言わんばかりの冷たさがある。
ジークは微笑んだまま、何も言わずに歩き出す。
私は心の中で、ただついていくしかなかった。
混乱と驚き、そしてまだ整理できない感情が入り交じり、足元は少しふらつく。
皇帝の存在を知った途端、世界のスケールが一気に変わった気がする。
昨日までの出来事、今日の朝の緊張、全てが、この国の王族という現実に押し潰されそうになる。
それでも、ジークの背中を見て、ゆっくりと歩き出す。
目の前に待っているものは――恐怖か、期待か、それとも全く予想できない運命か。
心の奥で、答えの出ない問いが、まだぐるぐると回り続けていた。