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第10話「少年と孤竜」

クリックしてくれてありがとうございます!

是非一話から読んでみてください!

視界が赤に塗りつぶされていく。

 涙でぼやけて、現実なのか夢なのかも分からない。

 でも、手に伝わる床の冷たさ、血の匂い、喉の奥を焼く鉄の味が、これが紛れもない現実だと突きつけてくる。


「……や、だ……どうして……」


 絞り出すように声を出しても、返事はない。

 返ってくるはずもない。


 その瞬間――頭の奥に、別の光景が蘇った。


 竜の都。まだ小さかった頃、学校に通っていた日々。

 自分が「純粋な竜」ではなく、「人の血が混ざっている」

 それだけで、蔑まれ、笑われ、突き飛ばされ、机に落書きをされ、靴を隠され……。


「……お前なんか竜じゃない」

「汚れてるんだよ。気持ち悪い」


 耳にこびりついた声が、今も消えない。


 でも――そんな中でも、一人だけ違った。

 優しくしてくれる人がいた。

 笑いかけてくれて、傷を隠すためにハンカチを差し出してくれて、泣いているときには背中をさすってくれた。


「リゼリアは……悪くないよ。君は君だ」


 その声が、温かくて、救いだった。


 ……けれど。

 その優しさは、周囲の憎悪を集めてしまった。


 「どうして、あんな奴に肩入れするんだ」

 「裏切り者だ」

 「お前も同じだろう」


 そう言われ、標的にされて。


 最初は笑っていた。

 「大丈夫だよ、気にしない」って言っていた。

 でも、日に日にその笑顔は薄れていって、やがて……学校に来なくなった。


 そして。

 ある日、噂を聞いた。


――あの人は、自ら命を絶ったのだと。


 耳にした瞬間、心臓を素手で握り潰されたように痛かった。

 信じたくなかった。

 でも、現実だった。

 唯一、自分を守ってくれた人が――もういなかった。


「……わ、たし……の、せい……」


 小さく呟いた声が、今の自分の口から漏れ出たことに気づく。


 そうだ。

 あの人は、私のせいで死んだ。

 私に優しくしたばかりに、周囲から憎まれて。

 そして、耐えられなくなって――。


 胸の奥から、黒いものが溢れ出す。


 ……思えば、いつだってそうだった。

 優しくしてくれた人は、結局――みんないなくなる。


 目の前に倒れるエルバン。

 血に濡れて横たわるルシア。

 そして、遠い昔に消えてしまった、あの人。


「なんで……なんで……なの……?」


 涙が止まらない。

 どうして、優しくしてくれる人ばかりが消えていくのか。


 わたしが――わたしなんかがそばにいたから。

 だから、消えてしまうんだ。

 そうだ、全部、私のせいなんだ。


「……あれ……?」


 ぼんやりとした思考の中で、ひとつの答えに辿り着く。


 私に――生きている意味って、あるの?


 誰にも必要とされていない。

 優しくしてくれた人を不幸にする。

 私と関わった人は、みんな消えていく。


 それなら――。


「……わたし……生きる必要……ないんじゃ……」


 呟いた瞬間、胸の奥にすとんと落ちる感覚があった。

 苦しかったはずの呼吸が、少しだけ楽になる。


 あぁ、そうか。

 簡単な話じゃないか。


「死ねば……いいんだ」


 声に出すと、不思議と心が軽くなった。

 そうだ。死んでしまえば、楽になれる。

 もう誰にも迷惑をかけない。

 誰も不幸にしない。

 誰も、私のせいで泣かなくなる。


「そうだよ……簡単だ……ただ、それだけで……」


 涙は止まらないのに、口元には笑みが浮かぶ。

 壊れたように、嗤いがこぼれる。


「楽になれる……やっと……」


もう考えることなんて、ひとつしかなかった。

 いや、考える、なんて言葉も似合わない。

 思考の形をした黒い渦が、ただひたすらに頭の中を支配している。


――死ねばいい。

――死ねば、すべてが終わる。

――誰も傷つかない。


 それだけ。

 ただその言葉だけが、心臓の鼓動と同じリズムで響いていた。


 宿を出たのかどうかも、もうよく覚えていない。

 足が勝手に動いていた。

 どこを歩いているのか分からない。

 でも、どうでもよかった。


 道端で人と肩がぶつかっても、声をかけられても、耳に届かない。

 世界が水の底に沈んでしまったように、音が遠い。

 ただ靴底と石畳の打ち合う音だけが、自分をこの現実に繋ぎ止めていた。


 ぽつ、ぽつ。

 涙が零れて、頬を伝い、首筋へ消えていく。

 泣いているのに、もう悲しいのかどうかも分からなかった。

 涙という形で流れ出しているのは、きっと心そのもの。


「……やっと……」


 かすれた声が、誰に聞かせるでもなく空気に溶ける。


 やっと終われる。

 やっと解放される。

 やっと、みんなを苦しめずに済む。


 エルバンも。

 ルシアも。

 あの時の、唯一の友も。

 誰も、私に関わらなければ……。


「……わたしが……いなければ……」


 その言葉を口にすると、胸が少しだけ軽くなった。

 ずっと心臓を握り潰されていたのに、手が緩んだような。

 痛みが溶けていくような。


 けれど、それは安堵ではなく、壊れていく音だった。




 気がつけば、

 人の声が消え、風の音ばかりが耳に届く。

 地面を歩く音が、やけに大きい。

 高台へと続く道を、私はただ進んでいた。


 ここは、終わりにふさわしい場所。

 すべてを置いていける場所。


「やっと……迷惑、かけなくて……済む」


 自分の声に、自分でうなずいた。

 だれも止めてくれない。

 だれも気づかない。

 それでいい。


 やっと――やっとだ。


 足が重いのか軽いのか分からない。

 身体は鉛のように冷えているのに、頭の奥は熱を持ってくらくらする。

 両手は震えているのに、心だけが妙に澄んでいく。


 視界が狭くなっていく。

 余計なものが、すべて削ぎ落とされていく。

 残るのはただ、高台の縁。

 その先に広がる空と町


「……もう、終わるんだ」


 足音が止む。

 気づけば、風が頬を打っていた。

 見下ろせば、遠くまで続く町と城壁。

 美しいと感じる余裕なんてなかった。

 ただ、吸い込まれそうな深さだけがそこにあった。


 足の先が、わずかに空を踏んだ。

 ひゅう、と風が足下を抜ける。


 怖くはなかった。

 むしろ、ようやくここまで来られた安堵が胸に広がる。


「……やっとだ……やっと……」


 両目からまた涙が零れる。

 けれどその涙は、悲しみではなかった。

 解放の、涙。


 心が軽くなる。

 背負っていたものを下ろすように。

 苦しみも、悲しみも、罪悪感も、責任も――ぜんぶ。

 ここに置いていける。


 もう迷惑をかけない。

 もう誰も失わない。

 もう誰も、私と関わって苦しまない。


 ああ、そうだ。

 やっと――やっとだ。



――その時だった。


 耳に、空気を裂くような声が落ちてきた。


「――そんな場所で死のうとするなんて、趣味が悪いな」


 はっとして顔を上げる。

 背後から差し込む夕陽は赤く、世界全体を血の色に染めていた。

 その光を背にして、ひとりの少年が立っていた。


 背丈は私と大差ない。

 髪は風に揺れて、逆光のせいで色は分からない。

 けれど――その瞳だけは、やけに澄んでいた。

 光のなかでもはっきりと分かる。


 こちらを見下ろす目に、同情も、憐れみもなかった。

 冷えきった湖のような透明さだけがそこにあった。


 鼓動が一拍、遅れる。

 心臓を掴まれたように、呼吸が詰まる。


「……なんで……止めてくれないの……?」


 気づけば問いかけていた。

 自分でも、どうしてそんなことを聞いたのか分からない。

 本当なら、止めてほしいわけじゃないはずだった。

 ここに来るまで、何度も何度も心に言い聞かせてきた。

 「迷惑をかけないために死ぬ」

 それが一番の望みだったはずなのに。


 なのに、声は勝手にこぼれ出していた。

 ――誰もがこの場にいたら止めるはず。

 その「当たり前」を、どうしてこの少年は破るのか。


 しかし。


「止めてほしいのか?」


 返ってきたのは、平坦で、重みを持たない言葉だった。

 風が石を打つのと同じ、無感情な音。


「死にたいなら、死ねばいい」


 その一言で、心臓が掻き毟られる。

 ざわざわと胸の奥に黒い水が広がっていく。


「っ……!」


 喉が震え、呼吸が乱れる。

 崖の下に吸い込まれそうな足元の揺らぎ以上に、その言葉の冷たさに足をすくわれた。


 どうして。

 どうしてそんなことを言うんだ。

 叫びたかった。

 「止めてほしい」と泣きたかった。


 でも声は出なかった。

 唇が震えて、ただ熱い涙が頬を滑り落ちるだけ。


 少年は、そんな私の動揺を待っていたかのように、ゆっくりと続けた。


「でも――僕は死なない」


 その響きは、あまりにも自然で、あまりにも確信に満ちていた。


「そんなとこで諦めるくらいなら、僕はまだ怒る」


 風が強く吹き、フードが揺れ、隠していた翼の影が一瞬だけ露わになる。

 私は息を飲み込んだ。


「……怒る……?」


 聞き返す声が、かすれていた。


 少年は目を細め、こちらを見据えた。

 夕陽を映すその瞳が、わずかに、鋭い光を帯びた。


「君はまだ怒れるはずだ」


 その言葉は、胸を鋭利に切り裂いた。


「大事な人を殺されたんだろう?」


 少年の声は、静かに、それでいて決して消えない火のように重なっていった。

 その瞬間、心の奥底で眠っていた痛みが、激しく脈打った。


 エルバンの姿。

 ルシアの姿。

 血に染まった床。

 そして――竜の都で、自分を庇い、標的にされ、最後には自ら命を絶った唯一の友。


 胸が締め付けられる。

 息ができない。


「……っ」


 涙があふれ、視界がにじむ。

 止めどなく溢れる感情に押し潰されそうになる。


 少年は、その様子をただ見ていた。

 けれど、その目に浮かんでいたのは冷たさだけではなかった。

 熱を秘めた冷徹。

 突き放すようでいて、背を押すもの。


「復讐したいなら、世界を変えろ」


 言葉が、鋼のように叩き込まれる。


「それができないなら――今すぐに死ねばいい」


 風が吹き抜け、頬を濡らした涙を乾かしていく。

 声が震える。

 喉の奥で、言葉にならない声が漏れた。


 死ぬか、生きるか。

 逃げるか、抗うか。


――選べ。


 その言葉が、胸の奥に杭のように突き立った。

 視界の端で揺れる夕陽は赤黒く、世界のすべてが血の色に染まっていく。

 まるで自分の罪と後悔を炙り出すように。


 足元の岩肌が、やけに脆く見えた。

 一歩踏み出せば、きっと簡単に崩れて、そのまま奈落に落ちていく。

 身体も心も、その方が楽だと言っている。


 けれど。

 目の前の少年の言葉が、脳裏でこだまし続けて離れない。


「復讐したいなら、世界を変えろ」

「それができないなら――今すぐに死ねばいい」


 息が荒くなる。

 胸の奥に渦巻くのは、恐怖でも絶望でもなかった。


 ――怒り。


 その言葉を聞いたとき、胸の奥がざらりとざわついた。

 弱さで隠して、諦めで塗りつぶして、ただ「消えてしまいたい」という感情に逃げていた。


 でも。


「……怒る……私が?」


 かすれた声で問い返すと、少年の唇がわずかに動いた。


「そうだ。君は怒ってるはずだ」


 まっすぐな瞳。

 それは同情でも慰めでもなく、ただ真実を突きつける視線だった。


「大事な人を奪われて……それでも黙って死ぬつもりなのか?」


 喉が詰まる。

 言葉にできない。

 心の奥を見透かされたようで、苦しくてたまらなかった。


「……でも……私のせいで……」


 ぽろりと声が漏れる。

 止められなかった。

 心の中で何度も繰り返してきた呪文のような言葉。


「私がいたから……二人は死んだ……」

「竜の都でも……そうだった……」


 瞼の裏に浮かぶ。

 竜の都で、自分に手を差し伸べてくれたただ一人の優しい子。

 人の血が混じっていると知っても、気にせず一緒に笑ってくれた子。

 けれど――そのせいで周囲から憎まれ、いじめの標的にされ、最後には……。


「全部……私が関わったから……消えたんだ……」


 足元の石を涙が濡らす。

 視界が揺れて、世界が滲んでいく。


 少年は黙って聞いていた。

 一瞬たりとも目を逸らさず、ただ私を見据えていた。


 やがて、低い声が落ちた。


「……それで?」


「え……?」


「それで、君は死ぬのか?」


 あまりにあっさりとした響きに、息が止まる。

 その瞳には、憐れみも悲しみもなかった。

 ただ、強い光だけがあった。


「君が死ねば、誰かが喜ぶ」

「君を追い詰めたやつらは、『あいつは勝手に死んだ』と笑うだろう」


 胸がざくりと抉られる。

 想像したくもない光景が脳裏に浮かぶ。

 竜の都の連中の、嘲笑と蔑みの視線。

 そして――今の自分を否定するような無数の声。


「……それでも、いいのか?」


 問いかけられる。

 心の奥に押し込めてきた「本音」を突き起こされる。


 私は――本当に死にたいのか?

 それとも……。


「君は怒っていい。奪われたのなら奪い返せばいい」


 少年の声が、胸の奥に響き渡る。

 それは冷たくも熱い矛盾の声だった。


「生きる意味なんて……私には……」


 震える声で、やっとの思いで返す。

 でも、その続きを紡ぐことができなかった。

 「ない」と言い切ることが、できなかった。


 ――ある。

 本当は。

 心の底にまだ残っている。


 奪われた悔しさ。

 守れなかった痛み。

 それらは本来、怒りに変わるはずの感情だ。


 私は逃げていた。

 弱さにすがって、ただ死ぬことだけを望んでいた。

 でも、それが本当に正しいのか。


「復讐しろとは言わない」

「でも、選べ」


 少年の声が重なる。


「死ぬか、生きるか」

「逃げるか、抗うか」


 夕陽が沈みかけていた。

 影が長く伸び、世界は赤と黒の狭間に飲み込まれていく。


 胸が苦しい。

 涙が止まらない。

 でも……心のどこかで、確かに火が灯り始めていた。



――ぐらり。


 ほんのわずかな感覚だった。

 足元の石が砕ける乾いた音。

 そして、身体が支えを失い、ふわりと宙に浮いた。


 次の瞬間、視界が反転する。

 空が、地が、逆さまに混ざり合っていく。

 夕陽の赤が滲み、世界がぐしゃぐしゃに溶けて流れ落ちていく。


 ――あ。


 息が詰まった。

 声にならない声が、喉の奥でからまる。

 落ちている。

 落ちて――死ぬんだ。


 それだけの事実が、氷のように冷たく脳を刺し貫いた。


 けれど。

 不思議と心は静かだった。


 ああ、これで終われる。

 やっと、やっと。

 迷惑をかけなくて済む。

 これ以上、誰かを傷つけなくて済む。


 風が耳元でうなりを上げる。

 髪が乱れ、フードが剥ぎ取られ、竜の血を証明する翼が露わになる。

 それでも私は目を閉じず、ただ赤く染まった空を見つめていた。


 ――終わりが、来る。


 胸がそう呟いた。

 身体の芯から、じわりと解放の甘さが広がっていく。

 死ぬということが、こんなにも穏やかで甘やかなものだなんて。

 息をするよりも簡単に、世界から解き放たれてしまうなんて。


 けれど――。


「……翼を開けば……助かる」


 思考の奥で、もう一人の自分が囁いた。

 背中に眠る竜の翼。

 それを広げれば、この落下など簡単に止められる。

 死は回避できる。

 生きることを選べる。


 ――でも、それは。


「また、迷惑をかけるだけだ……」

「また誰かを傷つけるだけだ……」


 心の中で、必死に否定の声が重なる。

 生き残ったところで、自分には意味がない。

 生き残る理由も、価値もない。

 そうだ、死んだ方がいい。

 そうすれば楽になれる。


 けれど……。


「……悔しい、でしょ?」


 突如として、誰かの声が甦る。

 竜の都で笑ってくれた、あの子の声。

 いじめに耐えながら、それでも「一緒にいてくれてありがとう」と言ってくれた笑顔。


 胸が軋む。

 瞼の裏に焼き付いたその笑顔が、ぐらぐらと揺れながら迫ってくる。


 ――私が生きていたせいで、あの子は死んだ。

 でも。

 本当にそれだけだったのか?


 思い出の奥で、別の感情が芽を出す。


 どうしてあの子が死ななければならなかったのか。

 どうして周囲は、あんなにも残酷でいられたのか。

 どうして私は、何もできなかったのか。


 胸の奥が灼ける。

 焼けつくような熱が、冷たかったはずの心を溶かしていく。


 ――怒り。


 少年の言葉が蘇る。


「君は怒っていい」


 そうだ。

 私は怒っていいはずなんだ。

 あんな理不尽に、大事なものを奪われて。

 笑顔まで、未来まで、全部を踏みにじられて。


 それなのに。


 ――私は逃げて、死ぬことで終わらせようとしている。


 視界の端で、岩壁が迫る。

 風圧が強まり、地面が近づいてくる音が耳を裂く。


 死が確実にそこにある。

 その一歩手前で、心が引き裂かれていく。


 生きるのか。

 死ぬのか。


 翼を開くか。

 閉じたまま墜ちるか。


 ほんの数秒の落下。

 けれどその中に、これまでのすべての記憶と感情が渦を巻いていた。


翼が開いた。

 背中の奥で裂けるような痛みと共に、竜の翼が大気を掴む。

 けれど――遅すぎた。


 風圧が強すぎて、翼はまともに広がらない。

 羽ばたこうと必死に力を込めても、落下の勢いは止まらない。

 地面が迫る。

 ああ、駄目だ。

 もう助からない。


 ――死ぬ。


 そう確信した瞬間。


 強い衝撃が腕を掴んだ。

 ぐんと引き上げられ、身体が横へ逸れる。

 次の瞬間、轟音と共に地面が砕け散り、砂塵が舞い上がった。


 目を見開いたまま、私は誰かの腕に抱きとめられていた。

 その顔を見上げた瞬間、呼吸が止まる。


 ――少年。

 さっき、高台で私に冷たく言葉を投げかけた少年だ。


 彼の瞳は、燃えるように澄んでいた。

 その目がまっすぐに私を射抜く。


「まだ、生きたいんだね」


 耳に届いた声は、驚くほど静かだった。

 責めてもいない。

 慰めてもいない。

 ただ事実を告げるだけの声。


 胸の奥で、何かがぐしゃりと崩れた。


「……そんな……つもり、なかった……」


 かすれた声が漏れる。


「死ぬはずだった……。終わらせるはずだったのに……!」


 涙が、勝手にこぼれて止まらなかった。

 死にたかったはずなのに。

 終わらせたかったはずなのに。

 どうして私は、翼を開いた?

 どうして、こんなにも必死に助かろうとした?


 生きたいなんて――思っていないはずなのに。


 震える唇で、どうしようもなく問いかけていた。


「……あなたは……」


 声が震える。喉が詰まる。

 それでも、絞り出した。


「あなたは……二人を……私の大事な人を殺した人を……捕まえられるんですか……?」


 少年の腕の中で、嗚咽と共に吐き出す。

 必死の願いなのか、最後の望みなのか、自分でも分からない。

 でも、その問いはどうしても零れ落ちてしまった。


 捕まえられると言われたら――私は、生きる理由を見つけられるかもしれない。

 捕まえられないと言われたら――今度こそ、死を選ぶかもしれない。


 彼の瞳が、ゆっくりと私を見つめ返す。

 風に髪が揺れ、沈黙が一瞬、永遠のように伸びる。


 やがて、少年は口を開いた。


「……捕まえられるかどうかなんて、僕にも分からない」

「でも一つだけ、はっきり言える」


 彼の声が、鋼のように揺るがず響いた。


「君が死んだら、その可能性はゼロになる」

「生きていれば、まだ望みはある。

 だから――君は生きろ。怒りを燃やすなら、そのために使え」


その言葉が胸に刺さった瞬間、何かが決壊したように、全身の力が抜けていった。

 抗うための筋肉がほどけていく。

 呼吸が上手くできない。喉がひゅうひゅうと音を立て、肺の奥で空気が渦を巻く。


「……生きろ、だなんて……」


 掠れた声が、唇から漏れる。


 「そんなの、簡単に言わないで……私には……私には……」


 言いかけた瞬間、頭の奥で世界がぐるりと回った。

 視界が横に傾き、目の前がぐらぐらと揺れ動く。

 耳鳴りがひどい。鼓膜を叩く風の音と、少年の声と、自分の心臓の音が、全部ひとつに溶け合っていく。


 恐怖の余韻も、怒りの熱も、混乱の涙も。

 それらを抱えたまま、心が耐えきれずに崩れていく。


 ――もう、限界だ。


 ぐらりと身体が揺れ、少年の腕に重く預けられる。

 力を入れようとしても、指一本動かない。

 ぼやけた視界の中、少年の横顔がわずかに滲む。


「君が……生きてる限り……」


 遠ざかる意識の中、彼の声が確かに響いた。


 「可能性は消えない。怒りを忘れるな。……必ず、意味に変えろ」


 それ以上は聞き取れなかった。

 音も、景色も、熱も。

 すべてが遠くに引き剥がされ、暗闇の底へと沈んでいく。


 最後に感じたのは――。

 誰かに抱きとめられている、確かな温もりだった。


 そして私は、完全に気を失った。


読んでいただきありがとうございます!

続きが気になりましたらブクマなどいただけたら嬉しいです!

感想なども是非!

批判などもちょっと傷つきながらも参考にいたします。

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― 新着の感想 ―
あっちゃーー!!! このシーンで、過去の辛い記憶と経験がよみがえってしまったか~~~胸苦しいな
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