さよならさよなら
涼しい朝でした。
パジャマのまま窓を開けると、少し肌寒い空気が部屋の中に流れ込みました。
もう夏は完全に遠い季節になってしまったのです。
あなたと同じように。
初めて会ったのは暗い路地でしたね。その夜に見た星の名前は何だったでしょう。
忘れてしまいました。
ただ、暗闇の中で貴女が手を差し伸べてくれたことだけをはっきりと覚えています。薄汚くて、すえた匂いもしていたはずなのに、顔をしかめるどころか近くにきてといった不思議な貴女。
貧しい暮らしから抜け出してやると息まいていた私は裏があると知りながら、その手を取りました。
間近で見た貴女の顔はとても綺麗で。まるで春の女神フローラのようでした。
私と貴女の出会いは良い物ではありませんでした。
「君を生贄にしよう。」
スリを目論んで失敗した私の手をひねり上げた貴女は、顔を覗きこんでこんな変な事をいいました。
「いい目をしている。それに幼くて変にすねてない所が良い。」
他人様のものを盗ろうとした子供にむかってこんなことを言った人は後にも先にも貴女しか知りません。身をよじって逃れようとする私をあやすようにいなす貴女は率直に言って怖かったです。
「何の生贄さ。」
「魔王様だよ。君の命で魔王を復活させるんだ。」
おかしな人だと思いました。魔王がいたのは千年以上も昔のことで今ではその存在も疑われている伝説のものです。未だに魔王に拘っているのは王家や勇者の家系だけでしょう。
真面目な顔で魔王復活を図る貴女を私は鼻で笑いました。
「こんな命で蘇るものなんてたかが知れている。」
「やってみないと分からないでしょ。」
だいの大人である貴女が酷く真剣な顔をしていたから、私は或る条件をつけて貴女の計画に乗ってやろうと思ったのです。
「じゃあ、一年間いい暮らしをさせてくれたら生贄になってあげてもいい。」
「いい暮らしってどういう暮らしかな。」
「美味しい物を食べて、綺麗な服を着て、温かくて柔らかいベットで寝る暮らしだ。」
「いいよ。そのぐらいなら。」
「じゃあ、連れていって。」
そんな冗談のような契約で私とあなたの暮らしは始まりました。
「ほら、手をつなごう。」
「いいよ。ガキじゃあるまいし。」
「チビのくせに。こっちのほうが良いかな。」
「よせよ。汚れるよ。」
「ん~、何か言った?」
私は帰り道、照れくさくて貴女の手を払いのけました。でも、それでも私と手をつないでくれた貴女に少しぐらいなら騙されてやってもいいかななんて思ったのは私だけの秘密です。
家に連れていかれて、まずしたことはお風呂に入る事でした。
スラムにいた頃は冬でも水浴びですませていたのでたっぷりのお湯につかることは初めてのことでした。透明なお湯は温かくてほんのりいい香りもして、身体に染みついていたゴミの匂いと一緒に、野良犬のようなギラついた何かも流れさったような気がしました。
「うん、綺麗になった。」
ソファーに座って犬と戯れていた貴女はバスタオルを身体に巻き付けたまま出てきた私をみて満足そうに頷いていました。
「ここに来て。髪を乾かしてあげる。」
言われるままに床にペタンと座ろうとすると、脇に手を入れて持ち上げられ、膝の上に座らせられました。薄布一枚をへだてた太ももは生温かくて柔らかでした。
「君は小さくて軽いね。」
ドライヤーを片手に髪を触る貴女は知り合って日の浅い私でも分かるくらい、機嫌が良さそうで楽しそうでした。私も人に髪を漉かれるのが気持ちよくてぼんやりしていました。
そのままベットに連れていかれ、布団までかけてもらった私は危うく貴女に拾われた理由を忘れてしまうほど幸福を味わいました。
「いよいよ。一年ですね。儀式はどこで行うのですか。」
「君は知らなくてもいいよ。」
「そうですか。」
月日が経つのはあっという間で、約束の日はすぐそこまで迫っていました。
貴女は私が望んだ以上の暮らしを送らせてくれました。
衣食住はもちろんのこと字や計算まで教えてくれました。
貴女は最期まで儀式も詳細を教えてくれませんでしたね。
私は貴女のことを信頼していました。
でも、貴女は違っていたようですね。
最後まで貴女が向けてくる目は冷めていました。
或る満月の晩、貴女は無言で私に目隠しを差し出しました。そして、馬車に乗りました。揺れる車内で、いよいよ契約が履行されるときが来たのだと確信しました。
その日の晩は綺麗でしたね。
丘に着いたあと貴女は目隠しをとってくれました。
日中に雨が降ったせいか、いつもよりも澄んだ空が広がっていました。斧を片手にしゃがんだ私を見下ろす貴女の肩越しに爛々と輝く月が見えました。
「これでいいですか。」
そして、貴女は静かに私の首を木箱のうえに横たえた。横目で見た貴女の瞳になんの熱も浮かんでいないことに、なぜかひどく安心する私がいました。
「どうぞ。」
長い髪を分けて、うなじをさらすとそこににわか雨が降りました。月が儀式にどう関係するのか知りませんが、ひどくなる前に終わって貴女が風邪をひかなければいいと思いました。
踏ん張って芝が潰れる音ともにひゅっと風切り音がなりました。ドサッと重いものが地面に落ちる音が聞こえました。
「え。」
いつまでたってもやってこない最期に恐る恐る目を開けると、伽藍とした目で私を見上げる貴女がいました。
「大丈夫か。」
ガしゃガしゃ煩い鎖帷子が揺れる音と涼やかな女性の声が聞こえました。貴女と瓜二つな女騎士でした。唯一違うのは瞳だったでしょうか。白波たつ海のような激しさを秘めた貴女の瞳とは逆にその人は凪いだ湖面のような静けさをまとった目をしていました。
「愚妹が陰でなにやらこそこそやっていると監視していれば、このような年端もいかない娘を。」
貴女を見下ろす目は憎しみで染まっていました。
呆けた様子で状況についていけない私に気づくと、彼女は打って変わって優しい声で私に語り掛けました。
「危険な目にあわせてしまってすまなかった。以前から君の存在は知っていたのだが、助け出すのが遅れてしまった。身内がやったことも含めて、君が望むことを叶えよう。」
「なら、私をあの家に帰してください。」
「君の生家か?もちろん、送り届けるさ。」
「いえ、あの人と暮らしたあの家に私を帰してください。」
騎士様は渋面しました。それはそうですよね、誰が自分を殺そうとした犯人の家に帰りたいなどというでしょうか。
「騎士様の目にあの人が愚かに映っているのなら。あの人が正常だと思っている私も狂っているはずです。」
「すでに手遅れだったか。」
悲しそうな表情を浮かべました。
貴女も泣くときはこんなふうに涙をながしたのでしょうか。
「分かった。」
約束通り、騎士様は私を家に送り届けてくれました。そして、時折様子を見に来てくれます。貴女を殺した彼女に思う所が何もないわけではありません。しかし、貴女と違ってあの人は分かりやすすぎるぐらい優しくて繊細な人だから、責めようにも責められない。恨もうとも恨めないのです。
そして、なによりも貴女と同じ顔をしているから。
私にはどうすることもできないのです。
どうか、許してください。
貴女を殺した騎士様に貴女の面影を重ねてしまうことを。
どうか、許してください。
貴女を古の幻想から解き放とうと、外に助けを求めたことを。




