いつからか、宇宙に行ってみたいと思わなくなった
いつからか、宇宙に行ってみたいと思わなくなった。
星々の間に横たわる膨大な空間に吸い込まれるようなあの感覚は絶え、ただの背景が今、頭の上にある。いつかの夜と全く変わらない見た目の、しかし、引力だけがごっそりと剥奪した空。
夜空というものを常識が包囲し、その字義から溢れていた、空自体よりむしろ空の質量を占めていたものが除かれて、搾りかすだけが残った。神話の追放とでも言うのか。何かが決定的に失われた宇宙は、昔と同じに輝いている。昔と同じだから苛立たしいのだ。
より正確には、宇宙はもう、僕を呼んでくれないのだ。
変化は客体でなく主体に、客体の魅力の消失ではなく、主体の感性の劣化にこそある。宇宙に対するある種の能力を基礎付ける何かを、僕は決定的に欠いてしまったに違いない。
何かが枯渇した事は分かる。
その何かは、決定的なもので、生きる上で是非とも必要かつそれ無しには人生が少しも楽しくないような大切なものだったはずなのだ。そういう決定的な何かを失ったから、虚しいのだとおもう。
さて、その空洞に何を放り込んだところで無駄な抵抗に過ぎない。というより、何かを放り込むべき空洞自体が失われたのであって、抵抗すら観念されない。胃を失って仕舞えば、胃袋を満たしようがない。空腹を失うのに近く、それは、満足の対極にある。決して到達し得ない満足の対極にあって、最後には確実に辿り着く何もないそれだ。
たとえば、満月を憎む。
決してそこに手を伸ばしたいと思わない球体が、依然として煌々と輝いているのが憎い。嘲笑されている、否、というよりも月は、憐憫を含んだ優しい笑みを浮かべている。優しい笑みを。再び否、それも嘘だ。常識的に考えてみろよ、月は笑ったりしないのである。その月は、実にくだらない、そこに天体としてあるものとしてノッペリ天球に張り付いているだけだ。忌々しい、何の変哲もない月だ。
月なんかより、まとめて星空を怨む方が効率がいいに決まっている。引き裂いてグチャグチャにして、全部燃やし尽くして、真っ黒に塗りつぶせばどんなに清々するだろうかと考えながら、見上げるのだ。実に作為的に、言ってしまえば無理矢理に。
本当は、どうでもいいのだとおもう。認めまいが、実際、どうでもいいに違いない。
宇宙に行ってみたいと思わなくなった僕は、残滓として、幻肢痛の如く最後に憎む事であの時夜空にあった何かを確証しようとしているのだ。それは、抵抗自体が目的で、成就の見込みのない抵抗だ。何の価値もない、面白くも何ともない、惰性的で空っぽでどうでもいい、行いだ。
如上、いつからか、僕は、宇宙に行ってみたいとは思えなくなった。