風の導き
歩道橋の上で立ち尽くしていた瞬、ふと視線を感じて振り返ると、一羽のカラスがじっと彼を見つめていた。
「また、だ……」
それは三度目の偶然だった。
数日前、何気なく立ち寄った古本屋で一冊の詩集が棚から滑り落ちた。ページを開くと、そこには、かつて亡き祖母が好きだった詩が載っていた。
昨日、駅のベンチで休んでいたら、隣に座った老婦人がまるで祖母のような口調で、「疲れてるのね。でも風は、あなたにもう一度始めなさいって言ってるわ」と微笑んだ。
「ただの偶然……か?」
だが瞬には、心のどこかでそうではないと感じていた。
目の前のカラスは、一声だけ鳴いて、東の空へ飛んでいった。その羽ばたきが、風を連れてくる。
その風が、瞬の首に巻いたスカーフをふわりと揺らし、ポケットに入れっぱなしだったメモ用紙が舞い上がる。
慌てて追いかけたその紙は、道路を渡って、小さなアートギャラリーの前に落ちた。
──この道は、彼が一度も選ばなかった道。
中から出てきた女性が紙を拾って、優しく差し出した。「風に、連れてこられたんだね」
「……もしかして、ここで働いてますか?」
「うん。あなた、描く人でしょ?」
瞬は息をのんだ。数年前、絵描きになる夢を捨てて以来、自分が“描く人”だったことさえ忘れていた。
彼女はにっこり笑って続けた。「明日から、ここの子どもたちに絵を教える人が必要なんだけど……風が、あなたを連れてきたなら、間違いないかもね」
瞬は答えを急がなかった。ただ、目を閉じて、あの時と同じ風を感じた。祖母の声、詩の一節、あの老婦人の言葉、そしてカラスの羽音。それらがすべて、この一瞬につながっているように思えた。
「……やってみたいです」
彼の声は、確かに震えていたけれど、その瞳はまっすぐだった。
偶然ではない偶然──それが人生をそっと押し出してくれることがある。
瞬はその一歩を踏み出した。風が背中を押してくれたから。