龍仙峡の河童淵
書いているうちに、ホラーと言うより日本昔ばなしになっていました(笑)
一台のボンネットバスが、九折坂を登って行く。
「ヒタ、ヒタと、水の滴る音が近づいて来る。お前の尻子玉をよこせぇ」そう言うと、女学校の同級生で親友の香月礼子は、私の右尻の肉を鷲掴みした。
「もう、やだぁ。止めてよ。礼子」
「ごめん、ごめん、つい勢いでね。明子のお尻掴んじゃった」
大して悪びれる事無く、こっちを見てニヤけている礼子に呆れながらも、霧島明子は言うほど気にはしていない。
「もうすぐ着くよ。荷物忘れないでね」
二人は目的地の、龍仙峡入口バス停で降車する。
バス停から、歩いて三分ほどの場所にある大きな旅館の横をすり抜ける様に、路地へと入って行く。
この路地を抜けた所が、礼子の本宅らしい。
「荷物置いたら、本館に行ってみよ。母さんもいるはずだから」
「うん、これから、お世話になるから挨拶したいしね」
夏休み、礼子の実家が営んでいる旅館香月に、休暇とアルバイトを兼ねて、一緒に帰省している途中の出来事だった。
旅館香月のある龍仙峡は、標高800mの高地にあり、夏は観光&避暑地として、人気の観光スポットの為、兎に角、忙しいらしい。
「明子さん、いらっしゃい。夏は猫の手も借りたいくらい忙しくなるから、本当に助かるわ」
礼子の母で、旅館香月の女将春子が感謝の言葉を口にする。
「いえいえ、こちらこそ、何処かアルバイトが無いか探してたくらいなので、願ったり叶ったりで助かりました」
まるで日本画のモデルの様な均整の取れた顔立ち、完璧な和服の着こなし、綺麗に髪を結上げて、ピンと延びた背筋と、流石は老舗旅館の女将さんだと明子は感心した。
「ねぇ、お母さん。この後は、明子を連れて龍仙峡を案内して来るね」
「明子さんは、この辺りは初めてだったわね。どうぞ、行ってらっしゃい」
仕事は、明日からなので、礼子に周辺の案内をしてもらう事になった。
この辺りは、大昔に大規模な火山活動で形成された土地らしく、龍仙峡は火山活動が収まった後、地下を水が流れ、五万年もの歳月を掛けて今の形になったと、設置してある看板に書かれてあった。
「凄い壮大な話だね」
想像も付かない遥か昔の出来事に、感心しきりの明子だった。
「ほら、あそこに見えるのが、柱状節理だよ」
溶岩が冷えて固まった後に、出来るらしいと訊いた事はあるが、実際に観るのは初めてだった。
「下まで下りて行けるよ。行ってみる」
礼子に言われるがまま明子は、後を着いて行く。
一番下に到着と、しっかりとした遊歩道が川沿いに続いて、数名の観光客が歩いていた。
落差30mの龍神の滝や人が100人は余裕で入れそうな洞窟がある龍穴神社など、龍にまつわる場所が多い観光地だが、河童にまつわる伝説もたくさん残されていると礼子は言っていた。
「ここから、もっと上流に行くと河童淵と言って、とても深い淵があるんだ。今日は遅いから、また今度行こ」
旅館香月に来てから、二週間が過ぎた。
「明日は予約少ないから、朝から休みでいいって」
この二週間で半日休みは何度かあったが、丸一日は、旅館香月にアルバイトに来て初めてだった。
「流石、人気の老舗旅館だよ。忙しくてあっと言う間の二週間だったよ」
明子は離にある露天風呂に、礼子と一緒に入りながら、ゆっくり寛いでいた。
「今年、兄さん仕事忙しくて帰って来れないみたいで、マジで明子が来てくれて助かったよ。もう、感謝感激雨あられです」
「私の方こそ、誘って貰って感謝してるわ。ありがとう礼子」
お互い感謝を述べた後に、大笑いする二人の夜が更けていった。
翌日、二人は龍仙峡の上流でボードに乗っていた。
「ボードって、漕ぐの難しいだね」
初めてボードを漕いだ明子は、漕いでも漕いでも進まないボードに、悪戦苦闘していた。
「でしょ。結構、難しいだよねぇボード漕ぐの」
そう言いながら、何事もない様に自在にボードを操る礼子に、感心しきりの明子だった。
そのまま、上流へボードを進めると、落差5m程の滝が見えて来た。
「あそこに滝が見えるでしょ。あの滝だけど、秋から冬は消える滝なんだよ。そして、その奥が河童淵って言われている凄く深い場所なんだ」
滝の飛沫が、良い具合いに体に纏って夏の暑さを忘れさせてくれる。
奥の河童淵を覗いて見ると、なるほど、河童が住んでいると言われるだけの事がある、とても深い事を意味する濃いエメラルドグリーンの水が、ゆっくりと幾重にも渦を巻き、そして消えていくを繰り返していく。
「なんだか吸い込まれそうで怖いね」
「今は、遊泳禁止になっているけど、昔は溺れた子供が河童淵に浮いている事が、あったって訊いている」
誘い込まれる様に、淵を漂う遺体が幾つもあった事から、何時しか河童が引き込むと考えられ、河童淵と呼ぶ様になったのだろうと明子は思った。
「そうだ明子、今夜は龍仙峡の民話を地元の語り部さんが話する日だから行ってみようよ。今日はユキ婆だから、きっと河童淵の話だよ」
週に一度、観光客の為に地元の民話や神話、歴史を話聞かせするらしいので、行ってみる事にした。
「皆さん、ようこそ龍仙峡にお出で下さいました。今宵は龍仙峡の河童と消える滝の話をさせて頂きますので、最後までお付き合い下さい」
平木ユキさんは、語り部として10年以上のベテランの方で、河童にまつわる話が、特に得意と言う事だった。
昔、龍仙峡の淵には、河太郎と言う河童がいたそうで、この河太郎河童は、兎に角、悪さばかりして、畑の瓜や胡瓜を盗むのは日常茶飯事で、川に入った人や牛、馬までも川に引き摺り込もうとするので、ほとほと村人達も困っていたそうです。
そんな村の外れに、身の丈六尺五寸(約2m)もある一太助と言う若者が住んでいました。
一太助は相撲が、それは強く、その名は都でも囁かれる程の猛者だったそうです。
そんな相撲の強い一太助は、とても働き者で、山を開いては畑や田んぼを毎年少しずつ増やしながら、木こりの仕事にも精を出し、寒くなると炭を焼いて暮していました。
ある日、川で牛を洗っていると、川の方から何者が声を掛けてきた。
「おい、お主はもしや一太助か。お主は、都で噂される程、相撲が強いと訊くが儂と相撲を取ってみんか」
声のする方を見ると、そこにいたのは河太郎河童でした。
「生憎、今は田植えで忙しい。相撲を取る暇はない」
「おお、そうか。では田植えが終わるまで待つとしよう」
河太郎は、そう言うと水の中へと消えて行ったそうで、一太助は急いで川から上がり親父様に、この出来事を話ました。
「親父様、今日、川で牛を洗っておりましたら、河太郎河童が出で来て、儂に相撲を取れと言うてきました」
それを訊いた親父様は、急いで村の名主の所へと、一太助を連れて行き、相談する事にしました。
「なんと一太助に相撲を取れと言うて来たと、身の丈三尺(約90cm)の童の姿はしれておれど、奴は物の怪の類、もし相撲に負ければ尻子玉(魂)を抜かれる言われておる。決して関わってはならぬが、どうしたものか」
名主も、どうして良いか分からず村の長老に訊きに行く事になりました。
「そうじゃったか。河太郎河童が相撲をのぉ。河童は水の化身じゃから、水の無い所へ己から出向く事は無い。良いか一太助、川には近づくでないぞ。さすれば相撲を取れと、近づいて来る事もないであろう」
一太助は長老の教えを守り、川には近づかない様に暮していたが、この年は雨が少なく山からの湧き水は流れなくなり、ため池の水も涸れてしまい田んぼの水が干乾びてしまった。
「親父様、このままでは米が穫れなくなります」
「せめて川から水が汲めれば、下の田んぼだけでも米が穫れるのじゃが…仕方ない一太助よ。今年は諦めよう」
親父様は、一太助を河太郎河童と会わせない為に、田んぼを諦める事にしましたが、一太助は諦めきれず川から水を汲むと出て行ったのです。
仕方なく親父様も、水桶と天秤棒を担いで川へと下りて行き、一太助と一緒に水を入れていると、田んぼに半分程、水を入れ終えたところで、河太郎河童が一太助親子の前に現れた。
「お主、久しいの、田植えは終わっておろう。ささ、儂と相撲を取ろう」
「生憎じゃが、今年は雨が少なく、水入れをせねば稲が枯れてしまう故、相撲を取る暇はない」
「おうそうか。水さえあれば、儂と相撲を取ると言うのじゃな。河童に身は窶しても水神の端くれ、その程度お安い御用じゃ」
「分かった。田んぼに水が入るならば、その時は、お前と相撲を取ろう」
なんと一太助は、河太郎河童と相撲を取る約束を交わしてしまったのでした。
「ならばこの水玉を、山の上にある岩の穴に入れてみよ。明日には水が湧いて流れているだろう」
直ぐ様、一太助親子は岩山に行き、貰った水玉を穴に投げ入れ、家に帰り朝が来るのを待って外に出てみると、微かに水の音がする。
音のする方へ行くと、田んぼを潤すには十分な水が、小川となって流れているではないか。
一太助親子は、これで田んぼは大丈夫と喜んだが、河童と言えど約束は守らねばと、相撲を取る為に、再び長老に相談する事にしました。
「ほぉ、そんな事がのう。今回は家の近くに川が流れている為、逃れるのは難しいじゃろのう」
長老は、暫し考えた後、一太助に相撲を取る上での知恵を授けた。
「良いか一太助、河太郎河童が訪ねて来ても、直ぐには相撲を取るでないぞ。それと毎日、仏様に拝んでいるか」
「それはもう毎日朝も晩も、手を合わせて拝んおります」
それを訊いた長老はニッコリと笑いながら一太助を褒めるのでした。
「良い心懸けじゃ。ならば相撲を取る前に、お供え物の飯を頂きなさい。きっと力を貸してくれるじゃろう。あとは、出来るだけ水場から遠い所で相撲を取るのじゃ良いな」
小川から田んぼへの水路を引いていると、河太郎が小川の中からやって来た。
「一太助、約束通り相撲を取ろうぞ」
「暫し待ってもらえるか。あと少しで田んぼに水を引けるはずだ」
長老の教えに従い、直ぐには相撲を取らない。
「なんじゃそんな事か。ならば儂が水を引いてやろう」
そう言うと、河太郎は何やら鰭の付いた手を、ひらひらさせると小川の水が蛇の様に這って行き、田んぼへと水が流れていった。
「これでどうじゃ。さあ相撲を取るぞ一太助」
それでも一太助は、まだ相撲を取らない。
「河太郎よ。相撲と言えばまわしを着けねばなるまい。一度、家に帰って着けても良いか」
「言われみれば、そうじゃな。儂の分も持って来て貰えれば、ありがたいがどうじゃ」
「分かった。お前のまわしも持ってこよう」
一太助は、一旦家に帰ると仏壇に手を合わせた。
「仏様、今から河太郎河童と相撲を取ります。どうか御力をお貸し下さい」
一太助は、まわしを締めた後、仏壇に手を合わせ、お供え物の飯を恭しく頂くと、河太郎の元へと向かいます。
「一太助戻って参ったか。お主その目はどうした?先程とは別人のようじゃ」
「飯を食うただけだ。ほれ、お前のまわしだ」
河太郎は、一太助から受け取ったまわしを締め終え相撲を催促した。
「では一太助、相撲を取ろうぞ」
「まぁ待て河太郎。この先に、儂が稽古で使う土俵がある。そこまで行こう」
「土俵か良いな。そこに行こう」
一太助は、長老の言い付けを守り、河太郎を水辺から遠ざける。
「良し着いたぞ」
そう言うと、一太助は四股を踏み始めた。
ドスン、ドスン、ドスン、それは今まで訊いた事のない様な、音と地響きの四股だったそうな。
「お主、本当に一太助か。なんじゃその四股は、お主まるで仁王ではないか。仁王とは相撲は取れん。お主の尻子玉は要らん」
そう言って、相撲を取ろうとしない河太郎のまわしを掴み、逃がすものかと土俵に引き摺り込んだ。
たかが身の丈三尺の河太郎河童だったが、実は石臼の様に重く常人では、動かすのも難儀な重さなのだが、仏様の御力を借りた一太助は、河太郎を軽々と持ち上げ逆さにする。
「止めてくれ。そんな事をしたら頭の皿の水が」
「もう悪さはしないと誓えるか。誓わなければ皿の水を全部抜くぞ」
「全部抜かれたら死んでしまう。分かった誓う誓うから止めてくれ一太助よ」
それを訊いた一太助は土俵の外に河太郎を投げ捨てた。
皿の水を、ほとんど無くした河太郎は、力無く起き上がると、こう言うたそうです。
「もう人には関わらん。相撲も取らん」
そう言い残して、河太郎は淵へと帰って行ったそうです。
そして、水玉を投げ入れた岩山から流れ出した水は、龍仙峡に滝となって流れ落ちるのですが、秋には水は涸れ春になると流れ出す不思議な滝になったと言う事です。
はい、これで龍仙峡の河童と滝の話はおしまい。
「皆さん、最後まで、ご拝聴ありがとうございます」
そう言ってユキさんがお辞儀すると、拍手が沸き立った。
それ程、広くはない部屋だったが、立ち見まで合わせると五十人くらいは居そうな感じだった。
「どうだった。ユキ婆の話は」
「うん、面白かった。他の話も訊きたくなるね」
「じゃあ、来年もアルバイトする?」
「考えておく」
あれから五十年の歳月が過ぎ、今は礼子の兄の肇と結婚して龍仙峡に暮し、語り部をやっている。
最後に言い忘れている事がありました。
私も語り部をやる事になってから訊かされたのですが、この話には続きがありまして、実は一太助は大雨の晩に、田んぼを見に行くと出て行った切り、帰って来なかったそうです。
大雨で流されたのではと、村人総出で探しましたが、その日は見つからず、翌日は下流の方まで、探しましたが見つかりませんでした。
そして、三日目の朝、河童淵の底から浮いてきたそうです。
一太助を見つけて引き上げると、尻の穴が大きく開いていたらしく、村人達は誰からとも無く、口々に噂しました。
「一太助は、河太郎に尻子玉を抜かれたに違いない」と…。




