3. そしてシオになる
草を踏み、石を蹴飛ばし、藪を掻き分け、当てもなく走る。
追ってくるスライムは幸いそこまで早くはない。が、振り切れるほどではないのでこちらは走り続けるしかない。
サイズが合っていない靴は全速力に向いておらず、雪駄かスリッパを履いている時のような摺り足で、思ったように速度が出ない。体格の変化で脚の力も弱まっているようだ。ああ今すぐ帰ってこい、僕のハムストリングス。健脚だけが自慢だったのに。
いや、速度が出ないのは靴と筋肉だけの問題ではない。
(胸が‼︎ 重い‼︎ 揺れて痛い‼︎)
女体化し発達した胸の脂肪。動く度に上下左右にバルンボルンと揺れ、下に落ちた時は鎖骨の下あたりが突っ張る。足元が見辛く地面を注視する必要もあり、非常に邪魔くさい。
僕は胸の大きい女性が割と好きだった。理由などない。大きくて柔らかそうなソレがとても魅力的に思えていた。
だが実際身につけてみたらどうだ。
肩が重いのは地面に横たわっていたせいで凝ったのだろうと思っていたが、違う。おっぱい自体が重い。水の入ったバケツを首から下げているようだ。
その上大仰に動くと一歩遅れて揺れるのが感覚として慣れない。重力が全部肩にかかる。胸に脂肪がつくだけで、こんなに制限されるとは考えてもみなかった。
両手で鷲掴んでみたが、それでもまだ衝撃がある。水風船の中の水が揺れ動いているようとでも言うか、とにかくガワを抑えてもあまり効果がなさそうだ。
試行錯誤の末、両側から中央に寄せるように抱えるのが一番マシだった。だが腕を振れないので、さらに走りにくくなる。
自身の胸を抱えながら、サイズの合わない靴でスライムから逃げまどう姿の、なんと滑稽なことか。なんだか情けなくて涙が出そうだ。
どれほど走っただろうか。スライムは諦める様子もなく、ずっと僕を追いかけてくる。
奴らに疲労があるのかわからない。もしかすると逃げているだけでは、このまま永久に追われ続けるのだろうか?
しかし動きを封じる方法は思いつかない。崖から落ちても無傷で稼働し続ける物体だ。動線を塞ぐものもないし、やっぱり視界に入らないところまで逃げるのが確実か。……アレに視力って、あるのだろうか。
分け入っても分け入っても青い山……もとい緑の森。
せめて人工物でもあれば・人が行き来する場所があればという願い虚しく、未だゴールの見えない鬼ごっこ。
慣れない身体と、追われる側の圧迫感。
次第に僕の体力が減り、呼吸が荒くなる。
足が痛い。汗が首まで流れて気持ち悪い。座り込みたいが、振り向けば未だ追ってくるド派手な水色。
「……しつっ、こいな……!」
やはりというか予測通り、スライムに疲労という概念はなさそうだ。
それにしてもなぜ僕を追ってくるのか。
目的は捕食の可能性が高そうだ。対象は人間? それとも生物ならなんでも? 土や草を踏み越えても食べている様子はないから、有機物ならなんでもいいわけではなさそうだ。飛び交う虫に反応している様子もない。対象のサイズの問題? 他に何か情報はないだろうか。せめて逃げるための時間稼ぎを……。
「あっ」
などとスライムを見ながら走っていたら、足元の埋まった岩に気づかずつまずいた。
胸を押さえていたために腕で支えられず、昔体育で習った程度の受け身で転がる。頭や腰を打つことは避けられたが、スニーカーが片方脱げて飛んでいった。
「痛っつ……」
起き上がり慌てて振り向くと、スライム達は最早目と鼻の先まで迫っていた。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。立って走るしか、でも……どこまで……?
折れかけた精神に追い打ちをかけるように、スライムが飛びかかってくる。
(こんな……わけわかんないうちに知らないところに来て、女の子になっちゃって、何もしていない内に喰われて死ぬなんて、そんな理不尽なことあるか……‼︎)
最早僕にできるのは、息を飲みきつく目を閉じ、その時を待つだけ。
(……死んだら会えるだろうか。――――母さん)
突風。
斬撃音。
恐る恐る目を開ける。
スライム達は形を保っておらず、水たまりのようになった後、地面に染み込むように消えてしまった。
その中心には人型。
栗色のおさげ髪。メイド服。両腕にかぎ爪。
頭の上に獣のような耳……それから、尻尾?
振り向きこちらを見る眼は、黄緑色をしていた。
あの少女がスライムを倒した、ようにしか思えない。
……………………助かった?
「大丈夫ですかっ? お怪我は……ああ、擦りむいちゃってますね。こんなところでどうしたんですか? お名前は言えますか?」
かぎ爪をベルトに収納した後、ステップを踏んで風のように近付いてきた彼女は、矢継ぎ早に質問してくる。
「え、あ……あの、あ、名前……しお、」
混乱したままフルネームを言おうとして、息を吸うタイミングを間違えた。
「シオ、さん? ですね! 装備も無しで一人で来るには、ここは深すぎますよ。迷っちゃったなら、一緒に街まで戻りましょうか」
ぽかんとする僕を見て、少女は首を傾げる。
名前の訂正などどうでも良かった。
スライムの脅威から逃れられた。
人間……ではないかもしれないが、言葉が通じる人が目の前にいる。
街、と言った。少なくともこの人が暮らしているであろう街が、人が複数いる場所が、近くにあるということ。
「シオさん? ……わわっ⁉︎ どうしたんですか⁉︎ どこか痛みますかっ⁉︎」
味わった死の恐怖から解放された反動と、優しい声かけの安心感とがない交ぜになる。
おおよそ4年ぶりに、僕は声を上げて泣いた。