救出
翌日には雨雲は通り過ぎていた。
いつも通りの時間に目が覚めたので、いつも通りの日課を開始する。
カイルも既に起きていた。彼が入れてくれた特製ハーブティーを飲んで食事を作って食べて片づけてそれから洗濯。
ちなみにカイルは家事はできないくせにお茶の入れ方だけは抜群にうまい。たぶん彼にとって水分が唯一の必需品だからかと思う。
洗濯物を抱えた私は裏庭に出た。
あーさわやかだ!
昨日の嵐で余計なものが洗い流された眩しい青空と澄んだ空気がとっても気持ちいい。
家事にも好き嫌いってあると思うけど、こういういい天気の朝に真っ白になった洗濯物を干していく作業が私は好きだ。なんだかまっとうな暮らしをしている! という気分になる。
そう言えば王女生活は家事なんてもちろんしないし勉強以外に人間らしい活動をしているって実感がなかったなあ、趣味に没頭してる他は。やっぱり肉体より魂に染みついた暮らしぶりってあるのかもしれない。そして私はこっちの方が性に合ってるのかも。
こうしてこのままここでふつうの庶民に戻っていくのかなあ。
などと取り留めないことを考えながら手を動かしていた、そんな時だった。
突然。
頭の上の方で、空を覆う大きな何かがぱりんと砕けたような衝撃が走った。
すぐにカイルが駆けつける。
「何事ですの?」
「ありえない、僕の結界魔法が力づくで消された! エミリアは中に戻ってて、僕が様子を見てくるから……」
カイルが話す間にも正面門の方から人の気配と声がどんどんこちらに近づいてくる。
なんなの。まさか徴税役人がもう……⁉
「姫様!」
この声は。
「ヘレナ様⁉」
屋敷の角を曲がり、姿を見せた相手に声を上げた。
こちらに気づいたヘレナ様が走って飛びついてくる。
「よくぞご無事で……! お迎えが遅くなり申し訳ございませんでした……!」
目の前のヘレナ様はぐしょぐしょの顔で泣いていた。久々に会うその顔は最後に別れた時よりちょっとだけやつれてる。きっとたくさん心配してくれたのだろう。それに気づいた私も思わずもらい泣きだ。
「わたくしを探しに来てくださったのですね、ありがとう、ありがとうございます。でもどうして? わたくしが攫われた記憶は消されていた筈では」
「それは、」
「家に戻った妻たちから妙な気配がしたんでね。魔法を解除してみたらこんな事態だった訳だ」
視線を移す。答えてくれたのはヘレナ様に続いて現れた男の人だった。
赤毛でワイルド系の背の高い中年男性。神殿関係者の格好をしているけれど、たぶん私とは初対面だ。
「ええと。解除……と申しますと?」
「俺は魔法の神ドネアの神子なんだ」
自分の額の神の印を指でつんつんと突いてみせる。
赤い古代文字は確かにドネア神を示している。
驚いた。さらに。
「姫様。この人が私の夫のクロードです」
「ヘレナ様の⁉ まあ、そうですか、お初にお目にかかりますわ……」
ヘレナ様に家庭があることは知っていたけどまさか旦那様がドネアの祝福を受けた方だったとは聞いてなかった。
魔法に関わることにおいて、この世界でドネアの神子に勝てる者はいない。
正直、実在したんだなあというレベルのレアな神子だ。
その気になれば一国くらいあっという間に制圧できる筈、と読んだ本には書いてあった。
そんな力でカイルの魔法も消滅させられてしまったのだろう。
いくつもの理由で驚きっぱなしの私にヘレナ様は頭を下げる。
「これまでお伝えせず申し訳ございません。諸々の事情で言ってはならないことでしたので。あと、うちの旦那平民出身で礼儀作法を知りませんので先に謝っておきますね」
「お気になさらず。こんな非常事態で作法も何もありませんわ」
そこでふいに動いたクロード様がカイルを睨みつけた。
「お前の魔法を使用停止にした。無駄な抵抗はするなよ」
カイルが何かしようとしていたらしい。でもその何かは発動しないまま、突っ立ったままでいる。
こんな風に呆然とした様子のカイルを初めて見た。
そして後から現れた神殿兵たちがそんなカイルを確保する。カイルは抵抗もしなかった。
あっという間の出来事だった。
これで……助かったの?
なんだろう。ものすごく強いと思ってたカイルが一瞬で無力化された事実も、いつまでも続くかと思われた監禁状態がこんなにもあっさりと終わったことも、いきなり過ぎて頭が追い付かない。
それでもどうにか状況を飲み込めたところで、体中から一気に力が抜けた。思わず私は物干し台の重石の上に腰を下ろしてしまう。
そんな私に寄り添ってくれたヘレナ様がきりっとした顔でカイルを振り返る。
「貴方となど口もききたくありませんが。どうしても一つ聞きたいことがあります。私は魔石の気配を追ってここに辿り着きました。何故貴方がその竜石を持っているのです?」
「……言いたくない」
兵に捕まれたままのカイルはそっぽを向く。
私は首を傾げた。
「竜石? って……カイルの体の中にある物のことですか?」
「ええ、そうです。ご存じだったのですか? これはここにある筈のない物、世界にただ一つしかない黄金竜の竜石ですよ」
あれ?
「それってうちの王冠の竜石ですわよね? じゃあ今陛下が被ってる王冠の石は……?」
「生憎私は直接見たことがありません。ですが先代陛下の時は確かに本物のこの竜石でした」
えーえーどういうこと。
「つまり王冠の竜石がいつのまにか盗まれていたと?」
「違う! 師匠は正式に貰ったんだ!」
「誰から⁉」
私たちの声が一斉に被った。
でも、カイルはまた顔をそむける。
「言いたくない」
「貴方、」
「言いたくないから言いたくない! それよりお前たちこそエミリアから離れろ! 勝手に触るな、エミリアは僕のものだ! 僕が上司から正式に貰ったんだ! お前たちがエミリアを連れていくのは強奪だぞ! エミリア泥棒!」
喚くカイルに頭が痛くなる。
誘拐犯に泥棒呼ばわりされたヘレナ様たちはカイルの正気を疑う目つきになってきていた。
そうか。ここは私がちゃんと話さなきゃ駄目だね。
私はヘレナ様の手を借りてゆっくりと立ち上がると、ぴんと背筋を伸ばしてカイルの前に立った。
「カイル。はっきり申します。……貴方の上司にわたくしを譲渡する権利はありませんわ」
「⁉」
真ん丸な目が零れ落ちそうに見開かれる。ほんとに信じてたのね。
私が今までそれを訂正しなかったのは、逆上されて事態が悪化するんじゃないかと怖かったからなんだけどね。
……うん。私、怖かったんだな。いくらカイルに危険はないってわかってても、強制的に閉じ込められてることに代わりはないからね。
自分でもその辺の感情はあんまり見ないようにしてたのだと思う。
カイルに事実を告げられたことで、改めて解放されたのだと実感できた私は大きく息を吐いた。
「そういう訳ですので最初からわたくしは貴方の所有物ではなく、わたくし達の関係は無関係だったのですよ」
「そんな……じゃあ君は誰の……」
「嫁ぐ前は陛下でしたが、今はルイス様でしょう」
自分の気持ちとは関係なく、それがこの国の法である。
「そんな……エミリアが……僕の物じゃなかったなんて……!」
カイル。ちょっと泣きそう。見てられないので視線を移す。
「ということですので皆さま。この人はこれが罪だとは思っていなかったのです。ひどいこともされていませんし、どうか咎めないであげて下さいませ」
「姫様がそうおっしゃるならと思いますが……でも……」
「エミリア!」
そこで。カイルは自分を押さえていた二人の神殿兵をするっと投げ飛ばした。おお。びっくり。
「見てくれ! 僕は魔法がなくても強い!」
「……そのようですわね」
「だから君が僕のものじゃなくてもいい、これからも一緒にここで暮らそう!」
舞台俳優みたいなポーズで手が伸ばされる。
……そんなすがるような目で見ないでほしい。
少しだけ、カイルと過ごした日々が頭を過ったあと、私はお腹にぐっと力を込めて静かに首を振った。
「ごめんなさい。わたくしは帰るべき場所に帰らなければなりませんわ」
「でもその男は結婚してるよ⁉」
「はい?」
カイルが指さすのはクロード様。
私たち全員がきょとんとなる。
「この国で一番強いのはその男だろう、でもそいつは君を第一に考えない! だったら! この国で二番目に強い僕に守られているのが君の安全の為だろう!」
何を言っているのだろうかと考えてから、あっと思い出した。
「そう言えば。わたくし、ここを出たら命を狙われるのでしたわ」