表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

キムチの辛さ

作者: 階堂 徹


 

「万里子!」

甲高い声に呼び止められ振り向くと、伊沙子が自転車に跨り手を振っていた。中学を卒業してから二十五年が経っていた。中学時代、特に仲良しというほどではないが、同級生として差し障りなく接してきた。話好きの伊沙子は、顔見知りを見つけると、長話が常で、急いでいた私は気づかぬ振りでやり過ごせば良かったと、振り返ったことを後悔した。ピンクのトレーニングウェアーに身を包んだ伊沙子が、前かごにスポーツバッグを乗せた自転車を押して近づいて来る。専業主婦の伊沙子の話題といえば、自分の家庭の状況を長々と話す。三ヵ月前に出会った時は確か、娘が短大を卒業して授業料がいらなくなり経済的に楽になったという様な話を一時間ほどかけて聞かされた。ジム帰りだという伊沙子は睫毛はべったりとマスカラで束ねられていた。アイラインを引いた少しつり上がった目が猫を連想させた。元来の形を無視し、新たな朱唇が形成されていた。ファンデーションで塗られた顔が顎から首にかけて地肌の色が違う。まるで仮面を付けているようだ。

「万里子、ちょっと太ったんと違う?」

「もう歳やし……」

「何言うてるの、女はまだまだこれからやで、万里子もジム来たらええのに、身体の調子もようなるし」

「仕事もあるし、時間ないわ」

「そんなこと言うてるから太るねん。時間は自分で作るもんやで、うちかて何やかんやと忙しいんやから、それよりうちの子がな同棲始めやってんやんか、それがな相手が韓国人でな、反対してるねんけど結婚する言い出してんねん」

「結婚反対してるのに、同棲は許してるのん」

「勝手に出て行ってるんやんか。恋愛はええけど、結婚はなぁ」

「何で反対してるん?」

「何でて、韓国人やからやんか彼氏の母親とも一回会うたんやけど訳わからんし、韓国人は何考えてるんか……」

 結婚を反対している理由を聞いて、自分のコメカミ辺りが引き攣った。私たちの住む生野区には在日韓国人が多く暮らしていて同級生にも韓国籍である者が少なくない。同級生である私の夫の博之もそんな一人だ。だから博之が韓国人であることは伊沙子も知っているはずだ。

「結婚な、早いんはかめへんねん。うちもできちゃったで十九歳やったし、うちと旦那よりも、下の子がえらい反対してるねん」

「下の子ってまだ高校生やなかった?」

「そやで」

「何で反対してるん?」

「それがな、自分が結婚する時に身内に韓国人が居てたら妨げになる言うねん」

 私は自分の結婚時のことを思い出した。私の両親も博之が韓国人という理由で結婚を反対していたが、一番強く阻止しようとしたのは姉婿だった。博之が結婚の申し込みに来た時、姉婿も同席していた。博之の父親はすでに他界しており、親代わりとして博之の叔父夫婦が姿を見せていた。結婚に反対だと言い張り胡坐をかく姉婿の前で、博之たちは正座して小さくなっていた。私にはその光景が痛々しかった。まさか、姉婿に反対されるなど夢にも思っていなかった。日を改めると言い博之たちは帰ったが、叔父が姉婿の態度が気に食わないと言っていると博之に聞かされ、叔父夫婦は我が家に二度と姿を見せることは無かった。博之との結婚話は進展のないまま時間が過ぎた。私の父は十九年の透析生活の疲れから、結婚に反対するのにも疲れているようで、何も言わなくなっていった。

「韓国人なんかと結婚させていいんですか?」

 姉婿はことあるごとにそう言った。

 私は思わず叫んでいた。

「何で、よっちゃんが反対するん! よっちゃん関係ないやん」

 姉婿が私を睨んだ。

「関係ないことない。博美が将来玉の輿に乗るような時に、身内に韓国人がおったら困るんや。俺は絶対に反対ですから、もし、万里子ちゃんが韓国人と結婚するようなことがあれば、俺は麻衣子と別れますから」

 姉婿は私が博之と結婚すれば、姉と離婚するとまで言い出した。そんな当て擦りな言葉が私の心を暗くし、姉婿を睨んだ。

 次から次と涙が頬を伝い止まらなかった。韓国人と結婚するのがそれほど恥ずかしいことなのか、韓国人を愛することがそれほど蔑まれることなのか、いくら考えても答えは出なかった。

 病弱な父まで虐げられているようで悲しかった。こんな男と結婚した三つ年上の姉まで憎らしかった。しばらくの静寂があった。扇風機の羽音だけが聞こえていた。

 姉婿が席を立ち、追い打ちをかけた。

「俺は絶対に反対ですから、もしそんなことになったら、麻衣子と別れて、子どもは俺が引き取ります」

 私は俯き咽び泣いていた。

 姉婿が敷居を跨いだ時だった。

「麻衣子と別れてくれてええで……」

 小さな声だった。父は何処を見るでもなく虚ろな視線のまま顔を上げた。

「えっ……」

 言葉の出ない姉婿の顔が引き攣っていた。

「別れてくれてええ、孫はうちで引き取らせてもらうさかいな」

 父はそれだげ言い目を閉じた。

 博之との結婚に賛成していなかった父の思いもよらない言葉だった。

 父は好きだとか嫌いだとかいうよりも厳格で少し疎ましい存在だった。他人に迷惑を掛けてはいけないというのが口癖だった。その日、その日をコツコツと過ごし、自分の考えを決して曲げることなく、生真面目で融通が利かない父だった。私たち親子は何処にでもいる家族だと思っていたが改めて父を誇りに思った。頬を伝う悔し涙は嬉し涙に変わっていた。

 父の決断に異論を唱える者はなく、私は博之と結婚した。姉夫婦が離婚することもなかった。姉婿は姉にそのことを話したのだろうか、姉の口からは一切、耳にしていない。


「ちょっと、万里子聞いてる?」

「あぁ、あぁ」

 正気に戻った私が頷き視線を向けると、伊沙子は口紅の付いた唇を舐めて笑うと、犬歯が赤く染まっていた。

「同棲してて、子ども出来たらどうするん?」

「そんなん、堕ろさせるに決まってるやん。それより、そこでお茶していけへん?」

 話足りない伊沙子は目の前にある喫茶店を指さしていた。

「あっ、ごめん。私これから子どもの懇談やねん」

 私は伊沙子の誘いを断りサドルに跨る。

「何年になった?」

「三年、あっ、もう行かな間に合わへん」

 引き止めようとする伊沙子に私はペダル乗せた右足を踏み込んだ。背中で伊沙子の舌打ちが聞こえていた。


 懇談が終わり、スーパーで晩ごはんの買い物を済ませ帰宅すると、大地が友達三人とテレビゲームをして遊んでいた。懇談の結果が気になるのか、大地が夕食の支度をする私の様子を時折窺っているようだ。

「大ちゃん、算数の成績上がってたで」

 わたしの言葉に大地の顔が綻んでいた。大地と友達の賑やかな声が響いていた。韓国人の博之と日本人の私の間に生まれた大地は何事もなく育っている。

 時計の針は午後六時を回っている。そろそろ博之も帰って来る時間だ。

「さぁーみんなももう帰らなあかんで、もう晩ごはんやからな。大ちゃんもゲーム片付けてや」

 大地がテレビゲームを片付け、ご飯の炊けるブザーが鳴るのと、博之がリビングの扉を開けるのは同時だった。

「ただいま、蒸し豚とキムチ買うて来たで」

「やったー」

 大地が叫ぶ。

「ハンバーグ一杯作ったのに、電話して来てくれたらええのに」

 大地はハンバーグも好物だが、蒸し豚に目がなかった。我が家でキムチは欠かせないが私と娘の綾香はあまり食べない。

 博之はビニール袋をテーブルの上に置き、冷蔵庫から缶ビールを取り出し、立ったまま飲み出していた。

 私は少し作り過ぎたハンバーグをラップに包み冷凍庫に入れた。

「綾香はまだ帰ってないんか?」

「最近、大会前で部活が遅いみたい」

「今日は大地の懇談や言うてたな」

 大地が親指をつき立て、レジ袋を覗き込む。

「算数の成績上がったで、早よ、蒸し豚食べような」

 博之が蒸し豚の塊をまな板の上でスライスすると、大地が手を伸ばす。

「待て、待て、待て、姉ちゃん帰って来てからみんなで一緒に食べよ」

「姉ちゃん、蒸し豚食べへんやん」

「それでもみんなで、一緒にご飯食べるんや。もうちょっと待ってよ」

 博之は言いながら、袋から取り出したキムチを広げる。

「パパ、それ切ったらまな板ちゃんと洗ろてや」

 私はまな板にニンニクとキムチの赤い色が染みつくようで嫌だった。

 博之がキムチを一切れ口に運ぶ。

「俺がキムチ食べるようになるとはな」

 博之がキムチを食べるようになったのはここ数年来だそうだ。実家の食卓にはいつもキムチがあったと言う。幼い頃からキムチの嫌いだった博之は、毎食、テーブルの端で鼻を摘まんで食事をしていたという。私との生活でテーブルにキムチが並ばず喜んでいたが、食生活の変化にため息を漏らすことも度々あった。テールスープ、チヂミ、チョッカル、ナムルに至るまで韓国料理が好物で私の作る料理には少し物足りなさを感じているようだった。法事や正月に実家に足を運ぶ博之は韓国料理を食べるのを楽しみにしているようなところがあった。帰りには義母が韓国料理を沢山持ち帰らせていた。そんなことだから、我が家の正月は博之と大地が作り置きの韓国料理を食べ、私と綾香がおせち料理を食べるのが当たり前になっていた。

 ところが三年前、義母が突然正月の法事を旧暦でやると言い出し、元旦に実家を訪れても韓国料理のないことに落胆し、年末になると、博之は自分でチヂミ、チョッカル、蒸し豚を作り置きして正月を迎えるようになった。それからというものの、何もない普段でも度々蒸し豚とキムチを買って来るようになっていた。

 ジャージ姿で帰って来た綾香が着替えを済ませ、テーブルに着く。

 博之と大地はハンバーグを一つだけ食べると、その後、蒸し豚とキムチを頬張っていた。

「俺、パパが韓国人で幸せや!」

「ん?」

「蒸し豚一杯食べれるやん」

「アホちゃう。そんなもん。買うたら誰でも食べれるし、私、蒸し豚そんな好きちゃうし」

 綾香はサラダとハンバーグに箸を伸ばしていた。

 綾香の言う通りお金を出せば、誰でも韓国料理は食べることが出来るが、博之が韓国人でなければ口にすることはなかったかも知れない。

 子供たちが寝入ってから、博之の飲み物はビールからハイボールに変わっていた。私たちはテーブルを挟み向かい合わせに座った。いつもの定位置だ。

「昼に伊沙子と会うてん」

 私が伊沙子の出で立ちを説明すると、博之は「鉄仮面やな」と言って笑った。

「上の子、同棲始めたんやて」

「伊沙子、結婚早かったもんな、娘もできちゃった婚かな」

「それがな、結婚は反対なんやて」

「そやったら、同棲させたらあかんがな」

「恋愛と結婚は別みたい」

「そうか」

 そう言う私たちもそうだった。博之と付き合い出した当初結婚など考えていなかったが当然のように婚前交渉はあった。それが、親になったとたん恋愛と結婚を結びつけるようになっていた。そう思うと、伊沙子の言うことも正しいのかとも悩む。

「何で反対してるんや?」

「それがな、相手の男の子が韓国人なんやて」

「ふーん」

 生返事をした博之がしばらく考えた後続ける。

「伊沙子がそんなこと言うてたか。分からんのぉー」

「うん。私らも反対されて、親の世代やったら分かるけど思ってたんやけど、伊沙子とこ下の子が一番反対してるんやて」

「伊沙子とこの下の子って、まだ高校生くらいと違うんか? 姉ちゃんの結婚に妹関係ないやろ?」

「自分が結婚する時に身内に韓国人が居てたら何かと問題やみたいなこと言うんやて」

「なんや、どっかで聞いたことのあるような話やな」

 同級生の博之が韓国人だと知っている伊沙子が娘の彼氏の国籍で結婚を反対していると、私に話したのを理解出来ない。韓国人に対する差別や偏見は無くなりつつあると思っているのは当事者に近い私の軽率な判断なのか、綾香と大地が成人しても、無くなりはしないのだろうか。

 私と姉との関係も良好で、食事をしたり、買い物に出掛けるが、姉婿の顔を見るのは正月の挨拶くらいだった。私たちが結婚すれば離婚すると言ったのを姉は知っているのだろうかわからない。聞かされていたとすれば、姉の胸の内はどうだろうと悪趣味な想像が膨らんだ。博之にしても姉婿のとった行動を受け入れがたいようで、姉婿の名前が話題に出ると、そこに居ないかのように口を噤んでしまう。姉婿自身も好意的に思われていないのを自覚しているのか自ら私たちと会う機会を持とうとはしなかった。

 普段は何も言わない博之も、お酒がすすむと愚痴のように姉婿の悪口を言った。

「お前の姉ちゃんも、ようあんな自分勝手な男と結婚したな」

博之の言葉に私は胸が苦しくなる。韓国人であるがために結婚に反対された博之に対する同情であり、姉婿に対する怒りも覚えるが、何よりも、中学の同級生である博之と成人式で再会し、交際を始めた私は国籍の違いで結婚は出来ないと思っていた。何をもってそう考えていたのだろうか思い出せないが、心の何処かで韓国人を見下していたのだろうかと自分自身に憤りを覚える。

「しゃーないやん。ああいう人なんやから」

 博之には私との結婚を反対されたのは、改めて自分が韓国人であるのを認識せざるを得ない出来事だったようだ。在日の多く住む街で生まれ育った博之は差別を感じる事なく成人したという。しかし、日本人である私は結婚相手ではないと言いながら交際が始まったのだ。お互い軽い気持ちで同級生の中から、結婚しないことを前提に交際相手を選び、七年が過ぎた。その時間が韓国人から一人の異性として私の中で博之の存在が住み着いていった。だから、伊沙子の考えや、姉婿の考えも全て間違っているとも思わないし、否定もできない。実際、家族に対する考え方や接し方の違いに戸惑い不安も多々あったが、私は博之との結婚を選んだ。博之の父親はすでに他界しており、博之の身内からの反対はさほどなかった。私は両親が結婚に反対していると博之に打ち明けていたが胸を痛め、思いもよらぬ姉婿の言動に動転し憎んだが、自分勝手な夫を持った姉の気持ちを考えると不憫にも思えた。

 結局、私は親に反対されて、姉婿の顔を立てるため、家を飛び出したという形で博之と結婚した。

共に暮らし始めると、交際期間の長さもあってか、生活の上での行き違いはそうなかった。

 博之が立ち上がり、冷蔵庫から炭酸のペットボトルを取り出す。

「もう止めといたら、明日も仕事やし」

 私の言葉も聞かずに博之はサーモスタンブラーに作ったハイボールを口に運ぶ。

「しかし、お前の姉ちゃんの旦那は……」

 姉婿に対する愚痴が続くに違いない。

「お風呂入って来る」

 私は博之の言葉を遮るように言い、席を立つ。博之はお酒が進み雲行きが怪しくなっていた。姉婿への不満を聞きたくはない。

 浴室に入りシャワーを浴びると、湯煙に満たされ鏡に映るぼやけた身体を見つめる。国籍の違う博之に抱かれて、私の身体は変わっただろうか、右の掌で腹部を擦る。若い頃、どちらかと言えば細身だった身体は、二人の子どもを出産し丸みを帯びている。それは国籍を問わず、違った男の子どもを産んだとしても変わりはないだろう。

 国籍を意識せずに生きてきたと博之は言うが、私との暮らしの中で、少なからず国籍の違いに、時折、戸惑い悩んでいるようにも見える。

 韓国人への偏見、差別など近い将来なくなるであろうと思っている私には、同級生の伊沙子の言葉に驚きを隠せないでいたのだから、博之の心は大きく揺さぶられたに違いない。

 結婚を前提にしていなかった私は、中々、博之に身体を開こうとはしなかった。手を、映画を見て買い物をするだけで充分だった。付き合い出して一年近く身体を求める博之を拒み続けた。初めから結婚を意識していたならば、もっと早くに身体を任せていたかも知れない。

 中学校を卒業して以来、会うことのなかった博之に再会したのは、地域が主催する成人式だった。みんなと居ると、昔と変わらずふざけて明るく見えたが、少し群れから離れるとふと遠くを見つめるようなきつい眼差しをした。そんな時の博之は、もの哀しげで何を考えているのか、危険な雰囲気さえしていた。交際を申し込んだのは私の方からだった。それでいて、博之を受け入れるのには躊躇して、時間がかかった。あの時分、私は恋人と言いながら、博之を異国の人間として見ていた。

博之を受け入れたい自分と、韓国人である博之をどこかで拒んでいた。

 初めて博之に抱かれると、焼け火箸を押し込まれたような耐え難い痛みを感じ、私の上で動く博之にしがみ付いた。

 性交後、博之は仰向けのまま煙草を吹かし、何事もなかったように吐き出した煙の行方を目で追っていた。お互い結婚を前提としていない交際だと言い合っていたので、都合のいい女ではと考えると、博之を憎らしく思う時もあった。

 性交後、私はバスルームに駆け込み、汚いものでも洗い流すようにいつまでも、シャワーを浴び続けていた。

 生野区に在日韓国人が多く暮らすといっても、博之の生まれ育ったのは在日韓国人が密集している地域で、私の自宅は日本人の多く暮らす地域にあった。中学校に登校すれば博之以外に在日韓国人も数人いたが、利害関係もなく同級生という関係でしかない。中学時代は博之もそんな中の一人に過ぎなかった。まさか結婚相手になるとは夢にも思わなかった。博之が日本人ならば、私たちは親の反対もなくすんなり結婚出来ただろうか。それとも、物足りなさから、呆気なく破局していたかも知れない。一人の異性として惹かれた人が韓国人だっただけだと言えば綺麗事になるだろう。

 国籍が違うという壁が、心に火を点けたとも思える。私たちの交際を応援してくれる友人もいて、周囲の反対に悲劇のヒロインを演じている自分に酔っていたのかも知れない。

 娘の綾香が将来、国籍の違う結婚相手を連れて来ても、私には何一つ反対する理由はない、しかし、私が博之ではなく日本人と一緒になっていれば、国際結婚を反対しているかも知れない。国籍の違う結婚を反対している伊沙子を滑稽に思っているのは、博之と結婚した自分自身に言い聞かせているようでもあり、正当化しようとする思いからであるようで、伊沙子や姉婿の考えは、子を思う親心なのかと、博之を哀れに感じた。


 湯舟を出てもう一度、湯煙に曇る鏡の中の裸体を凝視した。髪から垂れた雫が肩から、丸く盛り上がった乳房へと流れる。交差させた腕で胸の膨らみを包み込んだ。両腕に力を入れると、頭の天辺から足のつま先まで熱く滾る血が駆け巡るようだった。子どもを二人産んで丸みを帯びた裸体に、博之との生活が染みついているのを実感する。それは何の違和感もなく、私の身体も心も満たしてくれる。

博之との日常で、時折、目に触れる韓国人への差別や偏見に苛立ちを覚えることがあるが、それは韓国人を夫に持つ私的擁護な感情だろう。国籍など気にしていないと日ごろから口にする当の博之だが、悩んでいることは私には分る。子どもたちの将来を考え、日本国籍への帰化を勧める私を見るその目には、怒っているようで、それでいて諦めているような鈍くくすんだ光が宿っていた。最近、自ら帰化について話し出すが、何に執着しているのか帰化申請をしようとはしない。日本で生きて行くならば、日本籍である方が利便であるという私の意見に反対もしないのに、韓国籍に拘りがないのならば、日本籍になればいいのに、しかし、今では博之が帰化せず、韓国籍のままでもいいとも思っている。

 パジャマを着て、頭にバスタオルを巻いて脱衣場を出ると、二階から微かにテレビの音が聞こえていた。洗濯物を入れたカゴを下げてゆっくりリビングの扉を開けた。テレビが点いていて、博之は椅子に座ったまま居眠りをしていた。テレビの音量を下げると、博之の寝息が聞こえる。テーブルの上には食べ残した蒸し豚とキムチがそのままになっていた。私はテーブルの脇を抜けて、ベランダに出て洗濯物を洗濯機に入れてタイマーをセットして中に戻ると、酔いが醒めたのか、眠気眼で博之が私を見ていた。

「なぁー、俺、帰化しよか……」

「どうしたん? 急に」

 私は返事を返すが、時折、そう言う博之が行動に移さないのを黙って見ている。父親として悩んでいるのを知っている。子どもたちもクラスメートに在日韓国人が沢山居て、虐めや差別は見受けられないが、私たち夫婦の姓が違うことで、大地と綾香も幼い頃、戸惑いを感じているようだったが、答えの出ないまま成長している。博之自身も憤りを感じているようだった。

「帰化したら何か変わるやろか?」

「どうやろ……」

 子どもたちが学校から、持ち帰って来る書類の保護者欄は、姓が同じである私の名前になっている。母子家庭だと思われても仕方ない。ちょっとした申請時に住民票一枚で済むところが、博之の外人登録が必要になったりと二度手間にならないで済むことがあると幾度か言ったが、今ではそのことについては何も言わない。

「何に拘ってるん? 帰化した方が何かと便利やのに」

「うーん。拘ってるわけやないんやけど、俺な韓国人やねん」

「韓国人やいうの意識したことない言うてたやん」

「そうなんや、せやけど、お前が韓国人に帰化しろって言われたら帰化するか」

「意味違うやん。私もあんたも日本で暮らしてるやんか」

 博之は私の言葉を遮るように、テーブルに乗せた右腕を持ち上げ振った。

「ちゃう、ちゃう。もし韓国で暮らすようになったら、お前、韓国人に帰化するか」

「そんなことあるわけないやんか」

 博之は舌打ちをして黙り込む。

 韓国語も話せず、帰国を微塵も考えていないのに、もしもの話を持ち出す博之に反感を感じるが、日本人に帰化した韓国人も、様々な利権を考えての上であるのは理解できる。

しかし、博之は帰化したところで、さして自分には利益はないと考えているようだ。もしもと言う話は好きではないが、私は韓国で暮らすようなことがあっても、韓国人に帰化せずに日本人のままでいるだろう。そう考えると博之に帰化を勧める私は、韓国人を劣位に思っていると気づく。博之と結婚した私も幼い時からすり込まれた概念を全て拭い去ることは出来ない。

「もしもなんておかしいわ。そんなことありもせんのに」

「俺が日本人いうもしももないし、お前が韓国人いうもしももあらへんがな……」

「何、訳の分からんこと言うてるん。私ら日本に住んでるんやで」

「それが問題やがな」

「さっきから、何訳の分からんこと言うてんのんな」

「俺、韓国人やがな」

「そんなん分かってるやん。何が言いたいのん」

「俺、日本で生まれて韓国語も話されへんがな、学校も日本学校やし、まして韓国にも行ったこともないし、帰化なんかせんでも、殆んど日本人やがな」

「そやから何やのん。ほんまにいつもまどろこしいんやから」

「飲むか?」

「ちょっとだけ飲もかな」

 博之は言い、サーモスタンブラーとグラスに氷を入れ、炭酸水を注ぎ、メジャーカップでウィスキーを入れハイボールを作り、グラスを私の前に置いて続ける。

「あんな、親父がな三歳で日本に来た言うてたんやけど、そんな親父が五十歳になって一回だけ韓国行ったんやけど、ソウル空港降りたとたんに涙が出たんやと、三歳で日本きてたら、韓国のことなんか殆んど記憶もないのに、親父の時代やと日本で差別もされてたと思うわ。俺には分からんけど、あんな親父でも嫌なことも一杯あったんやろなと思うわ。

俺が韓国行っても泣くことあらへんと思うけど、身内もおらんし、韓国が故郷ちゅうイメージも出来んし、せやのに俺は韓国人なんや」

「やっぱり、何言いたいか分かれへんわ」

「うん……」

「別に、帰化したないんやったら、無理にせんでもええやん」

「そやな」

 博之はサーモスタンブラーを口に運び、頬杖をついて私を見ていた。

「お風呂入って来たら」

 私もグラスを口に運ぶ。

「これ飲んだらシャワーするわ。ちょっと飲み過ぎたかな」

 博之はそう言いながら、ハイボールを飲み干した。

「酔っぱらってんのに、お風呂入って大丈夫?」

「らいじょうぶでーす。シャワーするだけやし」

 博之がふざけたように言い立ち上がる。

「ほんまに気をつけてや」

「はいはい……」

 博之が身体を揺らし、リビングを出て階段を下りてゆく。

 博之がすでに帰化していて日本籍だったなら、私の両親も姉婿も結婚に反対することはなかったのだろうか。国籍が違うことで反対する理由としては生活習慣が違うというのは建前だと思う。やはり根底にあるのは、韓国民族を見下した考えからだろう。博之が日本籍であったとしても、姉婿は韓国人の血が流れていると言い張り反対したに違いない。そう思うと、博之の言う通り、日本国籍に帰化したとしても何も変わりはしないのかも知れない。

 グラスを口に運び、ハイボールを飲み干すと、扉が開き博之が入ってきた。烏の行水だ。

「もう入ってきたん?」

「寝る。お前も早よ寝えや。明日あるで」

「うん。片付けたら上がるわ」

 三階の寝室に上がって行く、博之の背中を見ていた。

 日本人でも、韓国人でも関係なく私たちに明日はやって来る。

 私はテーブルの皿を見つめ、キムチを頬張ると、額に汗が滲んだ。

 その辛さにグラスに残っていた氷を口に含み噛み砕いた。

            了


 



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ