『ティエラとアーデ――ポストモダンな宇宙』
1
「それで、作業の進捗具合に異常はないはね?」
ティエラはそう言いながら、同僚であるアーデの顔を覗きこんだ。
「もちろん、ぬかりはないは。慣れた作業なんだから。少々力を使うのが珠に傷というところだけど」
アーデの作業着から伸びた二の腕の上にある空間には、彼女がつくった握りこぶしがあった。
その背後には、無機質で分厚い超硬質アクリル窓をとおして、ふたご座の恒星ワサトが輝きながら光り、船内の自動洗浄システムによって磨き上げられた窓には、若々しいアーデの握りこぶしがくっきりと映っていた。かと思えば窓は、今は制御盤の上をせわしなく動き回っている、均整のとれた彼女の指先を映しだしていた。
ティエラは、作業工程を確認したあと満足したように頷くと、
「どうやら、力仕事は終わったようだから、ここからはリラックスしていきましょう。そうね、無駄話でもしながらね」
と切り出した。
「それにしても、わたしたちの依頼主は手厳しいわね」とアーデは不満げに「いくらわたしたちに力や体力があるからって、船内中を駆けまわって、様々な機械を押したり引いたり、あげくは持ち上げて押し込んだりなんて作業を毎回、強いるんだからね」
「それは言いっこなしよ」とティエラは無頓着な表情で「なにしろこの船とシステムは旧型だから……。なんでも聞く話によると、近頃就航した新型は、力仕事をこなすロボットや、船外作業を行えるドローンを搭載してるって話だけど、この船はそういうのと較べたら骨董品とも言える第一世代型だからね。すべては自力ってことね。でも、そのおかげで退屈することだけはないわ。もっとも、あなたの言うとおり、力仕事ってのは、あたしたちにとっては厄介な代物ではあるけどね。でも、それだって、週に一度、バイタル調整ベッドに寝転んで、ボタンを1つ押せば済む話よ。たちまち爽快ってなわけね」
中央制御室やそこから伸びる通路での、あれこれと体を動かしながらの作業が済むと、二人は狭い空間に押し込められるように並べられた椅子に並んで腰掛けた。
「ティエラは相変わらずね」アーデが口を開いた。「いつでも、何にでも無関心。でも、わたしは違うわ」
「例のアーカイブね」とティエラはすぐに応答したものの、彼女の顔に好奇心の色は浮かんでいなかった。
「もうかれこれ、3年になるわ。依頼主たちが残した膨大な文書を読みはじめてから」
「それで、何か発見はあったわけ? 例えばわたしたちに関する、特別の機密情報にアクセスできたとか」
ティエラは、ほんの少し興味があるといわんばかりに、アーデの顔を覗きこんでいた。
「あるといえばあるし、ないといえばないわ」
「おおかた、そんなところだと思ったわ。無駄で無意味なことなのよ」
「あらそうかしら」とアーデは不満げに、しかし、とても真面目そうに言った。「確かに無駄で無意味に思えるわ。でもわたしは依頼主たちが何をしたかったのかを知りたいのよ」
「例えば、この〈サジタリウス号〉の命名はいかにして為されたか、とか?」
と、ティエラは揶揄するように言った。
「そんなことじゃないわ」アーデはいささかムキになった。「船名なんてのは記号みたいなものよ。意味なんてないわ」
「あら、そうかしら?」
「そうよ、そうに決まってる」
「でも、彼らは船名になんらかの寓意性を持たせたかもしれないわ」
ティエラの口ぶりには思わせぶりなところがあった。
「あのね、ゼノンのパラドックスというのがあるの。ある人が今ここで矢を放ったとする。矢は当然、空中を飛んでいく。しかしここで、時間というものを無限に小さくして矢を観察してみたらどうなるだろう。ほとんど静止した瞬間という視点に立って見た場合、恐らく矢は静止して見えるのよ。いや、静止しているといっても言い過ぎではないわ。だとしたら、そうした静止した瞬間というものをどんなに連ねたとしても、矢はいつまでも静止したままということになるわ。つまり、矢は飛ぶんだけど飛ばないのよ。あなた、これをどう思う?」
「さあね」とティエラは面倒くさげに、両掌を上にしてお手上げだという素振りを見せた。
「ようするにこれは、論理と感覚の問題だということよ。あなた、わかって? 感覚で捉えるなら、矢は飛ぶのよ。だけれども、論理で考えるなら、矢は飛ばないということよ」
「どっちにしろ同じことじゃない、アーデ。だって、わたしたちにとっては、論理も感覚も関係のないことなんだから。わたしたちにあるのは仕事、仕事だけよ。わたしたちはその仕事を黙って片付けるだけのことじゃない?」
「それはそうなんだけど、わたしは気になるのよ」
「お馬鹿さんね。哲学……とかいうのは、その辺でやめて、プログラムの最終確認をはじめるわよ」
「わかったわ」
「どうせ、毎度のごとく」とティエラは「今回もトラブルを引き起こす最終確認ではあろうけどね」と言いながら笑顔を見せ、「そのトラブルってのが、あなたが夢中になりがちな哲学でいうなら〈差異〉ってことになるかもだけどね」と言った。
「そう……〈差異〉なのよ。無限に繰り返される違和感。この微分関数宙間航法の実験をしている限り、たえず繰り返される奇妙で一致しない現実。そしてわたしたちの仕事は、その〈差異〉を生みだす微分関数の式を完成させること。〈差異〉を生む謎を解くことなのではないかと…………。そうして思うと、いささか気が重く、徒労感を呼ぶ仕事ではあるけどね」
アーデはどんよりと晴れない顔をして呟いた。
「ハニー、やめてちょうだい。わたしたちは、今をただ楽しめばいいだけなんだから。その〈差異〉ってやつをね」
言葉が途切れた瞬間、アーデはティエラの唇が自分の唇に押し付けられる柔らかいの感触を感じとり、霧が晴れるような開放感に満たされていた。
2
ふたご座のδ星ワサト近郊を征く宇宙船〈サジタリウス〉号は、微分関数宙間航法に向けて、船内のエネルギーを溜めこむために、慣性航行をしていた。かつて、依頼主たちが居住していたと記録される惑星から打ち上げる際に使用された、メインロケットは今は見る影もなく朽ち果てていたが、微分関数宙間航法用のプラズマイオンロケットは、入念に整備されていた。もしも、宇宙に存在するものが、常に対になっているとするなら、メインロケットとプラズマイオンロケットは、対存在ということが出来るが、それらはあまりにも対象的な外観を呈しているといえる。
それと同じように、〈サジタリウス〉号の乗員である、アーデとティエラもまた、対存在だとするなら、彼女たちは似通った対存在だといえるかもしれない。もちろん、既に見てきたように、金髪に碧眼のティエラは、何事にも無関心で鷹揚な性格であり、黒髪に茶眼のアーデは、神経質でいささか偏屈な性格ではある。だが、それは表面上のことといえよう。なぜなら、宇宙船〈サジタリウス〉号で行われている微分関数宙間航法実験は、彼女たちのどちらかが欠ければ不可能なように、あらかじめ依頼主によって設計されていたからだ。もちろん、当の本人たちはそのことを知らない。自分たちがなぜ対存在としてあるのかを。
しかしまた、悠久の時を過ごしてきた宇宙もまた、そうしたこと――あらゆるものが対存在としてありうること――に無頓着であるまま、対生成や対消滅を繰り返しながら、息づいていたと言えるかもしれない。
「アーデ、無限単位の入力状況はどう?」
「順調よ。毎度のごとく意味不明な数字や記号を入力するには骨が折れるけど、中央AIシステムが監視しているから、とくに問題はないわ」
並んで腰掛けた二人の間にあるモニターには、苦労して入力された無限単位という数字や記号の羅列が浮かび上がっていた。
∞→0Σβ3791αθ4876……。
「毎回異なるデータを入力するの、もう少し自動化ってできないものなのかしら」
目を皿のようにして作業しながら、アーデが愚痴をこぼした。
「第一世代なんだもの。すべてが自力なんだから仕方ないわ。でもわたしは嫌いじゃないの。なぜって、退屈しなくて済むもの。もちろん、トラブルが起こらなければ、だけどね」
そのとき、制御卓にある警報が赤く灯り、スピーカーがやかましい電子音を鳴らした。
「おいでなすったわ!」
ティエラは面白がっているような顔をしながら、すぐに警報を止めて、「問題箇所は、第4989区画よ。それで、今回はどっち?」と、アーデに視線を向けた。
「負けないわよ」
「じゃんけん、――ぽい!」
「お生憎さま。これであなたは三連敗よ」
アーデは口を突き出して不満をあらわにしたが、すぐに負けを認め、席をたった。
「第4989区画ね。すぐに終わらせるわ。何か特別事項はあって?」
「3298回目の航法実験の前に、隣の第4988区画で、宇宙バクテリアが検出されてるわ。もちろん、実験前に完璧に駆除は行われてるけど、注意は必要よ。あいつらはしつこいからね。念のために密閉作業服を着用したほうがいいわ」
「了解。あれは動きづらくなるから嫌なんだけど……仕方がない、行ってくるわ」
アーデはそう言うと、踵を返して、中央制御室を出ていこうとしながら、ティエラを振り返って言った。
「そのあいだ、あなたはわたしの代わりにデータ入力を頼むわ」
「勝っても負けても難儀なのは変わりないというわけね」
「なにしろ、第一世代ですからね、何事も自力、とういより人力ってことね」とアーデは手を振って、自動ドアの向こうに姿を消した。
こうして二人は、航法実験の度におこるトラブルを解決し、7827回目の航法実験の準備を整えて、中央制御室に並べられた椅子に並んで腰を落ち着けた。
「それでは、はじめるわよ。といってももはや何の緊張感もなにもないけれどね」
と、ティエラはいつもと変わらない口調で言った。
「まあ、力仕事と面倒な手入力が済めば、あとはボタンを押すばかりだからね。いつでもどうぞ」
「秒読み開始、3……2……1……GO!」
二人がそれぞれ指先にあるボタンを同時を押すと、中央制御室は微分関数航法機関のたてる鳴動に包まれた。
「アーデ、あとは、機械まかせよ。わたしたちはしばらく休憩といきましょう」
「それで、いつもの場所ってわけ?」
「他にいいところあって?」
「ないわ」
「では、そういうことで」
二人はおもむろに席を立つと、中央制御室に繋がる扉をくぐって、重力区画へと足を進めていった。
「いくら第一世代とはいえ、体を伸ばせる場所があそこだけというのは、いかにも窮屈よね」
とティエラ。
「でも、あるだけまし。狭い船内で、ふわふわと浮かんじゃう無重量状態以外の区画で、しかも、ただ気を失うように眠っているバイタル調整ベッド以外で、好きに寝転んだりして、人心地がつける場所はあそこしかないんだから」
「確かにそれはそうだけど、それにも飽きというものがあるのよ」
アーデは幾分顔を曇らせて、「あなた、わたしに飽きたっていうの?」とティエラの腕を掴んだ。
掴まれた彼女は、足を止めざるを得なくなり立ち止まったが、まっすぐとアーデを見つめて、
「そういうことじゃないわ!」と言い「ハニー、そういうことじゃないの。アレ以外にすることがないって意味よ、勘違いしないで」と凄んだ。
「ごめんなさい、わたし……」
「アーデはお馬鹿さんなだから……」
「ごめんなさい」
「もういいわ。もういいのよ。わたしにもわからないけど、わたしとあなたは一心同体。アレはそういうことを確認するための神聖な儀式。わたしはそう感じてる。わたしがあなたを嫌いになると思って? そんなことはありえないわ。もちろん、わたしたちは考え方も違えば、没頭したい趣味も違う、得意分野だって違うわ。あなたがいつもいっているように、わたしは鷹揚で何事にも無頓着、でもあなたは神経質で、少し偏屈だわ。でもだからって、わたしにはあなたが必要なのよ。なぜだかわからないけど、そういう確信だけは揺るがないのよ……。さあ部屋まではもう少しよ。こんなところで喧嘩なんてしないで、仲直りするのよ。どうせあなたは甘えん坊さんなんだから、すぐに赤ちゃんが泣くような悲鳴をあげることになるんだから」
そして、それはすぐに現実のこととなった。
ティエラの金髪が服を剥ぎ取られたアーデの胸に触れたとたん、彼女は快感によじれて痙攣したのだから。
二人は微分関数航法機関のたてる鳴動に包まれながら、何度も絶頂を迎えたのだった。
それは、確かに神聖な儀式と呼べるものであったのだろう。時間や空間、あるいは存在といったものが、溶解して微分関数という炉に投げ込まれ、一体になったのと似ていないとは、誰にもいえなかったからである。
3
仕事に熱心といえる二人は、7827回目の微分関数宙間航法実験が終わるころ、中央制御室の椅子に並んで腰掛けていた。
「実験終了、5秒前。……2……1、実験終了」
アーデの声はいつもどおりに落ち着いていた。
「さて、これからまたお仕事よ。データを確認するわ。現在位置は?」
「えっと……ちょっと待って、こんなことありえないわ! 現在位置は航法を開始した地点と同じだわ。うん、間違いない、ふたご座のδ星ワサト近郊、座標はX382Y096Z882。間違いないわ」
「アーデ落ち着いて。落ち着いて考えるのよ。これまでの実験では、目標座標に到達したことはなかったし、目標座標と航法終了時の座標は一度だって一致したことはなかったわ。だからわたしたちは、そういうものだと思ってきた。そういうことはあっても、確実にデータの集積はなされている、そう考えてきたはずよね」
「ええそうよ、ティエラ。だからこそ今回の実験結果には問題があるんじゃない。どんなデータであろうと、目標座標と航法終了時の座標が同じ場所にならない限り、データの集積には意味があると考えてきたんだからね。違って?」
「違わないわ。でも現実は現実よ、受け入れざるをえないわ。でも、念のために中央AI監視システムによってもう一度現在地の確認だけは必要ね」
緊張のためか、幾分白くなったように見えるアーデの指が、キーボード入力する音がした。
「中央AI監視システムに異常はないわ。きちんと作動してるわ」
「では、どういうことなの、これは?」
「あたしに訊かれたって!」
「アーデ、こんなときこそ、あなたが培ってきた……そのーなんだっけ?」
「哲学? ゼノンの逆説?」
「そうよそれよ。それを活かすべきじゃないの?」
「そんな、だってあれはただの暇つぶしみたいなものなんだから」
ティエラは驚きを隠さずに、
「あれが暇つぶし? だったら今からは真面目にやることよ。いいわ、わたしも一緒にやるから、アーカイブを徹底的に検索して、何らかの手がかりを探しましょう。依頼主がこういう状況になることを考慮して、対策やら指示を残していないとは言い切れないもの」
と、早口でまくしたてた。
「あたしは馬鹿だったわ。暇つぶしというか、頭の体操気分でアーカイブと戯れていたことに今気づいたわ」とアーデはうなだれた。
「それはそれよ。遅かれ早かれ、こんなことになることを依頼主が予想していたら、わたしたちに出来ることはまだあるはずよ。さあ、気落ちしてないで早速はじめるわよ」
それからというもの、二人は寝食を忘れてデータの検索に挑んだ。
しかし、そこでわかったのは僅かであり、なおかつ、絶望を強いられるようなことだった。
彼女たちを宇宙へと旅立たせた依頼主――地球人と呼ばれる人種――は、とうの昔、それがいつだかもわからないくらい太古に絶滅していたのだ。
二人はそれまで味わったことのない言い知れぬ不安と恐怖に駆られた。自分たちを繋いでいた細い糸が断ち切られたことで、何の拠り所ももたず虚空に浮かぶ存在、それが自分たちなのではないかと思えたからだ。アーカイブを調べつくしても、二人が存在する意味や目的などどこにも見たらなかったのである。わたしたちは何者なのか? という、二人の念頭に浮かんだ疑問が氷塊することもなかった。依頼者が己たちの絶滅の危機に瀕して作ったコピーがわたしたちではないのか? とも二人は考えたが、そのような証拠を示すデータはどこにも見当たらなかったのである。アーカイブにあったのは、仕事を忠実に行うために必要なデータだけだったのだ。
そんな状況に陥った二人は、自我と呼ぶべき自己を維持するだけで精一杯になっていた。ともすると、アーデはティエラであり、ティエラはアーデであるというような、奇妙な一体感に襲われ、互いの性格やものの考え方が錯綜し、入れ替わっている感覚に襲われつづけたのである。しかし、けなげな彼女たちは仕事というものを放り出すことはしなかった。というよりも、仕事だけが自己を支えるものであると考えなければ、自我を保つことすらできなかったのだ。
そうして彼女たちは、自分たちを異常事態に陥れた7827回目の微分関数宙間航法実験につづく、7828回目の微分関数宙間航法実験を実行に移したのだった。
4
「実験終了、5秒前。……2……1、実験終了」
緊張に張り詰めているティエラの声がした。
「現在位置を確認するわ」
アーデの声は、以前とは比較にならないほど落ち着いていた。
「予想通りというか、なんと言えばいいか、結果は前回と同じよ。つまり、現在位置は航法を開始した地点と同じよ。ふたご座のδ星ワサト近郊、座標はX382Y096Z882。中央AI監視システムにも異常はないわ」
ティエラはため息をついたあと言った。
「特異点に飲み込まれたとは考えられない?」
「ブラックホールだっていうの、ティエラ。ありえないわ。だってほら」といってアーデは、船内デジタル時計の「:」が点滅しているのを指さした。
「それに、窓の外の風景。あのM35星雲、そしてあの恒星と惑星を見てよ。ブラックホールに飲み込まれているなら、こんな風景が見えるはずがないわ。もっとも、ブラックホールないし特異点からの観測データはいまのところ存在しないけれど、光さえ呑み込む特異点にいて、外の光景を光学的に観測できるなんて考えは、ナンセンスよ」
「じゃあどうだっていうのよ!」
ティエラが怒りを爆発させて、制御卓を叩く音がした。
「落ち着いてよ。あなたらしくないわ。あんなに物事に無頓着だったあなたなのに。今ではどちらかというと冷静なのはあたしのほうかもしれないわ」
「アーデ、どうしてこれが落ち着いていられるの? わたしたちは今、存在意義ってものを問われているのよ」
「存在意義ね。かつてのあなたは、そんなことには無関心だったわ。意味も目的もないけど、仕事は仕事、そう割り切っていたのにね。おかしいわ、あなたらしくない」
ティエラは悲しそうな顔をして、アーデを見つめて呟いた。
「あたしは知りたくなったのよ、自分が何者で、何のためにここにいるかを」
「さあ、お手上げね。きっと意味や目的なんてないのよ。ティエラ考えてもみて。7826回目までの実験結果、なんの異常も認められず、予定通りのデータ集積を出来ていた頃と、今の状況は本質的に変わりがないのよ。だってそうでしょ。つまり、どちらも〈差異〉の現れでしかないの。ただし、わたしたちにはそうは見えないだけ。様々なデータが現れてくるのも〈差異〉であれば、全く同じデータしか得られなくなった今も、それは〈差異〉であるという本質に変わりはないのよ。だって時間だけは流れつづけているんだから。もちろん、わたしたちの感覚は変化のない状況を受け入れたがらないけど、論理的には今言ったことは成り立つのよ」
「あたし、そんなの嫌よ、アーデ。論理がなんだっていうのよ。あたしは、アレの時だって、毎回あなたが違う反応をすることが嬉しかった。だからこそ、あなたのことを愛してたとも言えるわ。それなのに、いつも何も変わらないってどういうこと? そんなことに何の意味があるの?」
「意味なんてないのよ、ティエラ。可愛そうな貴女……。わたしたちに出来ることは、もはや、ただ愛しあうことだけなのよ」
アーデはそう言いながら、涙に咽っているティエラの頭を、優しく胸に抱き寄せて口づけた。
「じゃああなたは、何かが変わっても変わらなくても、ずっとわたしの側にいてくれるの? わたしを愛しつづけてくれるの?」
ティエラは瞳を潤ませながらアーデに尋ねた。
「あたりまえじゃない。これまでと何も変わらないわ。もしかするとね、わたしたちの心が変わらかなったから、わたしたちを囲む世界も変わることを拒否したのかもしれなわ」
「なんだか寂しいわ。わたしがあなたを愛するしかたは毎回違っていたのよ。でも、確かに愛しているという中核は同じだった。それはわかってるけど。とても寂しくて心が寒いのよ」
「ティエラ、もう泣かないで、今でもわたしたち、かつてのように愛しあえるってこと、証明してみようよ」
「今から?」
「今から」
「でも、アレは微分関数宙間航法中だけに限るって、依頼主が……」
「もうその依頼主がいないこと、忘れたの? わたしたちは自由になったのよ」
こうして二人は、禁断の扉を開き、神聖な儀式が何のためにあるのかを知った。そしてまた、二人は自分たちの存在意義というものも知ったのだった。
二体のアンドロイド、アーデとティエラは元々は同じデータから作られた一対の存在であった。しかし、日々の船内作業によって個性を持ちすぎて衝突することを懸念した依頼主は、定期的に彼女たちの電子記憶を繋ぎあわせて同期させることにしたのだ。そうすることによって、差異と同一性のバランスと取ろうとしたのである。
彼女たちが何度も感じた絶頂は、互いの体がコネクターによって繋げられたときに起こる、データの同期現象による副作用だったのだ。
その意味では、依頼主の思惑は十分に功を奏したのだが、それが彼女たちにとって幸福であったかは誰にも知り得ないことであった。当のアーデとティエラにさえ、それが幸福であり愛であったと断言できなかったのだ。そもそも、感覚さえ持ちえない彼女たちに何がわかるというのだろうか。
だが、自分たちの置かれた状況を理解した二体のアンドロイドは、それまでと変わらない日々を過ごすことを決意した。仕事に戻ったのである。
いつの日か、微分関数の式が完成し、役目を終える時がくることを信じて。本当の自由に到達することを信じて。
二対が一体になるか、あるいはまた、二対が互いを滅ぼしあうその時まで。
――完――