事件編《前編》
映画鑑賞サークル所属 土生田 篤
1
「また、遅刻しちゃったよ。もう今日は1時間目休講」
重力に身を任せて椅子に着地した土生田篤は、机の上に置いてあった空き缶にタバコの吸殻を落とした。
乱雑に放置された椅子達はさっきまで何の役割も果たしていなかったが、その中の1つがようやく土生田に仕事を与えられたのは良かったが、それは荷物置場としてだった。
彼は荒々しく荷物を置くと、同じ学年の連中と話を始めた。
土生田と同期であり、彼と一番親しい永森は、缶コーヒーを流し込むと呟いた。
「俺、今年は1時間目に授業とってないんだよ。やっぱ楽だわ」
「あーあ、必修科目さえ落とさなかったら、朝ゆっくり来れんのに」
「授業に3回しか出て来ないんだから、そりゃ落ちるわ」
土生田は目をこすりながら足を組むと、2本目のタバコを咥えた。
部屋に入ってきた者がいた。頭髪が茶色の可愛らしい顔をした女性だった。彼女はまるで、これから就職の面接にでも行くかのように全身を黒のスーツできめていた。だが、黒のスカート丈は膝上30センチをゆうに超していたので、とても面接では合格できそうにない。
「おー、麗香おはよう。また今日も見せるねぇ」
通りすがる麗香の太ももを叩いた土生田は、彼女の脚しか見ていない。
「さわんなよ」
麗香は土生田の手を払い除けると、向こうに固まっている女性群に紛れた。
とある大学のキャンパスに新しい1日が訪れた。
約7千人の生徒を抱えているこの大学の朝は信じられないほど静かである。
朝10時頃まではまばらだが、それを越えると急激に学生が増えてくる。この大学だけでなく、一般に学生は重役出勤が多い。その最大の理由は朝が弱いことだ。すなわち、夜寝るのが遅いのである。だから、1時限目の授業に遅刻する、あるいは自主休講にしてしまうのは日常茶飯事である。
大学2年生である彼もそうだった。ダークグリーンのセーターにオレンジのフリースを羽織り、ダボっとした綿パンに真っ赤なスポーツシューズを履いた土生田は、ベージュの帽子のひさしが顔を覆い、見えるか見えないかの辺りで外界を覗いていた。
ここ映画鑑賞サークルの部屋の壁という壁には、映画のポスターがベタベタと貼られている。本来の白い壁を見つけることの方が困難で、壁から突き出た細い柱だけがその肌の色を主張できた。前方の中央には32型のテレビがテレビ台の上に堂々と置かれている。左右の天井には1つずつスピーカをぶら下げているが、左のスピーカはやや中央に寄っている。せっかくの音響装置は最大限の力を発揮できずに一生を終えることだろう。
このサークルは23名で構成されているにもかかわらず、現時点で部屋にいるのは10人にも満たなかった。
麗香の次に部屋に入ってきた人物は、ドアを開けた瞬間、大きなくしゃみを3度連発した。ひょろっとしていて背丈は175はある痩せ男、能勢慎一が入ってきた。サークル仲間はほとんど茶色い髪をしていて垢抜けていたが、彼は本来の髪の色のままでいた。彼から発するオーラは誰に尋ねても「真面目」の一言で表現できるだろう。
能勢の存在に気が付いた土生田は急に不機嫌になると、新たに火をつけたタバコの煙を吸い込んだ。
「今日は来たのか」
土生田は皮肉った口調でつぶやく。そばにいた永森はすぐに彼の様子を感じ取って囁いた。
「聞こえるぞ」
永森の助言に土生田は変わらず不機嫌だった。永森が助言しなくとも、能勢が現れると決まって機嫌が悪くなるのはいつものことだった。
「別にあいつに聞こえたって構いやしねぇよ」
「前から気になってたんだけど、なんでそんなにあいつのこと嫌いなの? 前はしゃべってたじゃん」
土生田は周りの連中には聞こえないように、永森にだけは心の内を話すことにした。
「あいつさ、なぜか車で学校に来てんだよ」
「えっ? そうなんだ? あいつ車で来てるんだ。知らなかった」
「きたねぇだろ? 俺らは毎日苦労して来てんのにさ」
本来この大学は自動車での通学は禁じられている。ただし、特別な理由がある者に限っては許可されている。能勢はその許可されている者の1人だった。
「なんだよ、そんなことで怒ってんのか? いいじゃんかよ、別に」
そう、確かに別にどうでもいいことだ。正当な理由で許可されているのなら、それはそれで仕方がない。ただ何が腹立たしいのかと言えば、その理由を隠したがっていることだ。以前にその理由を問い詰めたことがある。だが、断固として教えてくれなかった。そのとき土生田は思ったのだ。隠したがるのには何かわけがある。もしかしたら、正当な理由ではないのではないか、と。
最初はその点が気に食わなかったのだが、今になるとどんな理由であれ、大学に車で来ること自体が腹立たしかった。こっちは朝早く起きて満員電車に揺られ、滅多に座れないのに稀に運が良くて座れたときなんか、今日1日いいことがあるぞ、なんてささやかに喜んだりして学校まで来てんのに、何であいつは特別なのだろうか。
だから、今では全く話さないほどの仲になってしまったのである。
また今日は、能勢は車で来ているくせに自分よりも遅く登校してきたので、いつも以上に腹が立った。この瞬間、土生田はあれを今日実行することに決めた。
「ねぇ、永ちゃん。ちょっと後で昼休み付き合ってよ」
永森は今の土生田の口調や表情から嫌な予感を察した。
*
午前2時限の授業が終了すると昼休みとなる。学食はほぼ全席が埋まり黒山の人だ。いや、茶山の人だ。学生の楽しみの一時である。
中庭にも学生が群がり、ベンチに腰掛けて会話をしていたり、キャッチボールをしている学生がいたりと、それぞれ違った形で気を抜いていた。
そうやってみんなが気を休めている間、2人の男子学生だけは気を張って歩いていた。やがて、校舎の裏の駐車場に辿り着くと、更に辺りを警戒し始めた。
そこは全く人気がなかった。駐車場は30台ほど停められるスペースがあったが、その8割は埋まっていた。車で来ている奴は結構いるもんだな、と土生田と永森は話していた。
そして、2人は駐車場の一番奥に停めてある目的の車の前までやってきた。ボディーが真っ黒のスポーツカーだ。
「ほら、この車だよ。生意気だろ?」
よくワックスが行き届いた車だ。塵1つない。毎日洗車しているように見える。黒のボディーが反射して、まるで鏡のようだった。
「きれいに掃除してやがるなぁ」
土生田は屋根を指で撫でた。指が黒くならない。
「新車か?」
「違うだろ。毎日洗ってんだよ。暇な奴だ。車って洗うの結構めんどうなのに」
やがて、2人は再度辺りを警戒した。
「永ちゃん。見張っててくれよ」
「わかってるよ。まったく、ほんとにワルだね、お前は」
永森は言われたとおりに周囲を見渡した。駐車場は校舎から離れている為か、人っ子一人いない。そこにいると、まるで誰も大学にいないようだ。
土生田は帽子のひさしを下げて顔を隠し、能勢の車のそばに屈み込むと、衣服の下に隠し持っていた折り畳みナイフを取り出した。そのナイフもまた、黒のスポーツカーに負けないくらい輝いていた。それこそ鏡のようだった。それもそのはずである。土生田はこの日の為に、このナイフを最近購入したのだ。
ざまぁみやがれ。自分だけ楽をしていた罰だ。目にものを見せてやる。こいつは今日はどうやって帰るんだろうな。電車か? タクシーか? いや、歩いて帰れ。
彼は左の前輪に一筋の傷をつけた。浅い直線の溝ができた。切れ味のいいナイフだ。タイヤの裂け目に何度もナイフを通した。次第に溝は深くなっていった。やがて、タイヤには深い爪痕ができて、中のチューブが露わになった。
「永ちゃん、大丈夫か?」
「ああ、誰もいない」
永森がそう答えたときだ。突然、携帯電話の呼び出し音が鳴った。2人はビクッとしたが、その呼び出し音は自分達の物からではないことがわかった。それは、能勢の携帯だった。車の中に置き去りにされた電話が空しく鳴っていたのである。
「携帯忘れてやんの。これじゃ、携帯電話の意味ねぇじゃん」
土生田はバカにしたように笑う。そして、目撃者がいないことを再度確認すると、ついに中のチューブにナイフを通した。
すると、押し込められていた空気が一気に飛び出してきた。土生田の前髪がなびく。車体の重心が移動する。
「あーあ、やっちゃったよ、この男」
永森はそんなことを言いながらも、一緒に土生田とにやけていた。
「よっしゃ。成功だ」
土生田は満足気に立ち上がった。
「おお、おお。恐い恐い。こいつを怒らせると大変だね」
そうして、2人は不格好に停まっている車を残し、そこから逃げるようにして立ち去った。
「お前も結構イヤな人間だね。能勢がかわいそうじゃんかよ。タイヤって高いんだぞ」
「知るかそんなこと。また取り替えりゃいいだろ。でも気分がスーッとした。ざまぁ見ろってんだ」
「ほんと、ヤな奴。こんなのとは友達にならねぇ方がいいな」
「そんなのと友達なのは誰だよ」
2人は笑いながら校舎の中へ入った。
*
映画鑑賞サークルの部屋にはメンバーの3分の2が集まっていた。サークル内は幾つかのグループに分かれている。仲のいい者同士、輪になってお喋りに花を咲かせていたり、昼食を摂っていたりした。
土生田は部屋に戻ると、隠し持っていたナイフをカバンの中に隠し、何事もなかったようにサークル仲間と話を始めた。
部屋に能勢が入ってくると、にやけてしまう土生田であった。にやけてしまう理由を知っている永森だけは、土生田と目を合わす。そして一緒ににやけるのだ。
無論、能勢は土生田がいる輪の中には入ってこない。向こうもこっちが避けているのを勘付いているようだ。彼は向こうの輪に加わり、楽しそうにお喋りを始めた。
昼休みも残り10分となったときだ。不意に能勢はポケットをまさぐりながら立ち上がった。
「あれっ? 携帯が……」
「まさか、落としたの?」
誰かの言葉に能勢は少し動揺した。そのときの表情が土生田にとって大いに笑えた。自分が嫌いな人間が動揺していると、これほど笑えるものはない。
すると、能勢はまさぐる手を止め、何かを思い出したように部屋から出て行った。
そのとき、土生田と永森はまたしても、にやりと笑い合った。
能勢は校舎の外へ出ていた。多分、車の中だ。まだ今日は一度も電話を見ていない。
彼は早足で駐車場へ向かう。すると、1台だけ変わった停め方をしている車があった。車体が傾いている。どうやら自分と同じ車種らしい。いや、それが自分の車だと気付くまで、そんなに時間はかからなかった。
「ああ! 何だこれ!」
視界に飛び込んだのは、見事に、それも故意にパンクさせられたタイヤだった。目に突き刺すという例えは、こういう光景を見たときのことを言うのだろう。
「誰だよ!」
能勢はタイヤの前に屈み込んだ。そして、潰れたタイヤをそっと撫でる。
「ったく、どうすんだよ」
彼はしばらくその場で立ったり座ったりを繰り返した。どうすればいいのかわからず、ただ死に絶えたタイヤを見ているしかなかった。
しかし、彼はたまらず走り出すと、大学の学生課に向かった。だが、学生課までの道のりは遠かった。さすがに生徒7千人を抱えているだけのことはあって大学の敷地は広い。歩いて学生課に向かっていたら日が暮れてしまいそうだ。
ようやく能勢は、のどをヒューヒュー鳴らしながら本館へ滑り込んだ。そして、1階ロビー脇の学生課の窓口を叩いた。
「はぁ、はぁ、すいません。法学部2年の能勢ですが、課長の茅ヶ崎さんはいらっしゃいますか?」
「はい、いらっしゃいますが。ちょっと待って下さい」
窓口のそばにいた事務の女性が課長を呼びに行った。1分後、ブラウンのスーツをきっちりと着こなした茅ヶ崎がやって来た。とても50代半ばには見えないほど体格はガッチリしている。その渋い顔の眉間にはいくつもの皺を寄せ、深刻そうな顔つきで近付いて来た。
「おお、能勢君、どうした。そんなに息を切らして大丈夫か?」
茅ヶ崎は能勢の肩に手をやり、なおも深刻な表情で見守った。
息が落ち着くまで、まだかなりの時間がかかりそうだった。しかし、落ち着くのを待っていられず、咳を交えながら説明することにした。
「実は……僕の車、動けないんです。誰かが……パンク……タイヤを……」
「落ち着け、落ち着け。ゆっくり話すんだ。車がどうしたって?」
能勢は唾を飲み込んでゆっくり話すよう努力した。
「誰かが、僕の車のタイヤを、パンクさせたんです」
「パンクさせた? ほんとかね? 一体誰がそんなことを」
「わかりません」
「よし。ちょっと見に行こう。案内してくれ」
茅ヶ崎は一度窓口から引っ込むと、同じ学生課の男性事務員である今井を引き連れて出てきた。能勢は2人の先頭に立って駐車場へと向かった。
3時限目開始のチャイムが鳴った。能勢は次の授業はないので慌てることなく元来た道を戻った。
やがて、駐車場に入る。さっきよりも、また数台増えているように感じられた。
駐車場の中を少し歩く。すると、一番奥に停まっている能勢の車が見えてきた。車種やナンバーを教えなくても、遠目からでもすぐにパンクした車が停まっていることが確認できる。
「ああ、ほんとだ、ありゃひどい」
茅ヶ崎は思わず声を漏らした。
3人は車のそばまで来ると、まず茅ヶ崎が屈み込んだ。
「これは走れないな」
能勢は悲しそうに愛車を見つめた。
「ひどいいたずらですね」
一緒について来た今井が、腕を組んでそう意見したときだった。突然、彼らの後ろから、甘い美声を発する者がいた。
「これは、ただのイタズラじゃないと思うんですけど……」
3人が振り返った先には、黒のハイヒールに花柄の刺しゅうの入った黒のストッキングを履いた女性が立っていた。
「学生課の前の廊下を歩いていたら、タイヤをパンクさせられたって聞こえたから、ついてきちゃいました」
3人は呆気にとられて、長い髪を風に靡かせている彼女をしばらく見ていた。
2
「なんだなんだ? 君には関係のないことだ。もう3限目が始まっているんだ。自分の授業に戻りなさい」
茅ヶ崎は苛立ちをあらわにして目の前の女学生を追い払おうとした。だが、そんな学生課の課長に対して、その女学生は一向に動じる気配はなかった。
「わたし、この時間空きだから大丈夫です」
「いや、大丈夫とかじゃないんだ! 邪魔だからあっちへ行ってなさいってことだ!」
追い払う口実が意味をなさなかったため、茅ヶ崎は本音を吐き捨てるしかなかった。
「わたし、彼と同じサークル仲間で友達なんですよ」
彼女のその発言でその場が静まり返った。黒のサングラスを頭に乗せた彼女はただ1人笑顔だった。
茅ヶ崎の権威の振る舞いはそこで止まったかのように思えたが、その笑顔が納得できないのか、権威の振る舞い先を能勢に切り替えた。
「彼女の言っていることは本当か?」
2人のやり取りの傍観者に過ぎなかった能勢は、突然の矛先の変更に一瞬戸惑ったが、彼はその場の空気を瞬時に読み取って彼女に合わせた。
「はい。本当です」
「どこのサークルだ?」
「映画鑑賞サークルです」
茅ヶ崎の権威はそこまでだった。能勢の力強い言葉に彼はついに観念したのか、まだ不満気ではあるようだが、彼女を見据えると彼女を受け入れる質問を投げた。
「なぜ、ただのいたずらじゃないと思うんだ?」
「彼の車だけイタズラされているからです」
彼女は、その質問を待っていましたと言わんばかりに茅ヶ崎の質問に即答した。
「これだけある車の中で彼の車だけイタズラされているっていうのは、まるで彼の車に目的があってイタズラしたように見えるんです。単なる無差別なイタズラではないですよね?」
再びその場が静まり返った。それは、彼女の考えに皆異論がないことの証だった。
能勢はそのとき、誰よりも頭を回転させていた。誰かに恨まれている? いったい誰に? 僕が何をした?
そんな表情を読み取ったのか、同じサークル仲間の友達と偽った奇妙な女がこちらに近付いて来た。よく見るとかなりの美人だ。真っ赤な口紅を塗っていることがより妖艶に見えるのか、なぜこんな美人がこんなことに首を突っ込んできたのか不思議だ。
今時珍しい何も染めていない黒い髪を背中に垂らした彼女は馴れ馴れしく声をかけてきた。
「大変だったねぇ。今日どうやって帰るの? スペアタイヤある?」
「いや、あることはあるんですが……」
能勢がそう答えたとき、彼女は茅ヶ崎らに気付かれぬよう慌てて能勢の肩を叩いた。
「静かに! わたし達、友達なんだから敬語はだめ」
茅ヶ崎たちは再び屈みこんでパンクしたタイヤを眺めていた。どうやら気付かれていない。
彼女の囁きで能勢はすぐに自分の立場を取り戻した。友達の芝居はまだ続いているのだ。なんだかわらないが、見ず知らずのこの女性とまだしばらく芝居をしないといけないらしい。
「今日は1時限目から来てたっけ?」
彼女は質問すべきところをわざと知ったような口を利いてさりげなく質問しているのがよくわかった。その質問にどんな意味があるのか、まだこの時点では分からなかったが、1つだけ確かなことは1時限目に授業はなかったことだ。
「いや、10時半に来たよ。今日は2時限目からだから」
「あっ、そうだったね。忘れてた」
彼女は茅ヶ崎の様子をうかがいながら慌てて訂正した。
「じゃあ、それから今までここには来なかった?」
「うん、1時過ぎにこれを発見するまでは来てないね」
彼女が知りたかったのは犯行時刻だったのだ。つまり、10時半から13時が犯行時刻ということになる。
「能勢さんていったっけ? 能勢さんは、映画鑑賞サークル以外にサークルって入ってるの?」
彼女はさっきとは打って変わり、質問の内容を考慮してか小声になった。だが、それに反応してふいに茅ヶ崎が振り向いた。
「能勢さん? いま『さん』付けしなかったか?」
「してませんよ。空耳じゃないですか? ねぇ能勢くん」
彼女はとっさに笑顔を作り、能勢を巻き込んで切り返した。
「そ、そうですよ、空耳ですよ」
茅ヶ崎は空耳であることを若干認めていたのか、彼女の言葉を信用すると、再びタイヤの検分を始めた。
「かなりの地獄耳ね」
能勢は笑うのを抑えて安堵の息を漏らすと、茅ヶ崎の様子を伺いながら彼女の質問に小声で答えた。
「映画鑑賞サークルだけですけど、何か?」
「ふぅん、それだけか」
「犯人は能勢君に恨みを抱いている人間てことか」
検分が終了したのか、それとも屈んでいるのがつらくなったのか、茅ヶ崎は独り言を発すると膝を払いながら立ち上がった。
「能勢くん、一応聞くけど、誰かに恨まれているとか、心当たりある?」
今度は彼女は全員に聞こえるように質問した。
さっきからそれを考えていたが、特に思い当たる節はない。しかし、恨まれる理由など微塵もないとは言い過ぎかもしれない。いつどんなことで人を傷つけているかもしれないのだ。思っていることを言葉に表現することは難しいという。今までどれだけの思い違いをしながら過ごしているのだろうか。
「とりあえず、心当たりはないね」
「能勢くんの車のことを知っている人は?」
「車で大学に来ていることは誰にも言ってないからね、知らないと思うんだけど……」
「サークルで仲の悪い人はいる?」
仲の悪さも含めて心当たりがないかを考えていたのだが、仲が悪いというより、それほど話したことがないというだけで、これといって仲が悪いと断定できる人間がいない。
「思いつかないなぁ」
「で、結局どうなんだ? 何か分かったのか?」
光の見えてこない2人の会話にしびれを切らした茅ヶ崎が、ついに我慢できずに苛立ちを再開して割って入ってきた。
「わたしの考えでは、多分犯人は映画鑑賞サークルの誰かと思っています。それ以上のことはサークルのメンバーと話をしてみないと分かりませんけど」
彼女の発言に眉をひそめた茅ヶ崎は、再び荒々しく言葉を発した。
「サークルにいる? ほんとにいるのか? 捜してはみたが結局見つかりませんでした、ではシャレにならんからな。一番困るのは能勢君なんだ。パンクのことを聞き回って周囲にあらぬ疑いをかけて、能勢君のその後の生活に支障が出たりしたら、すまんでは済まされんのだぞ!」
初めてまともな意見をした茅ヶ崎に対して、誰も反論する者はいなかった。
茅ヶ崎は力強く言い放つと、腰に手をあてがって彼らに背を向け、被害にあった能勢の車を見下ろした。
能勢としては、これからサークルメンバーに話をして回ろうとしている彼女に対して、申し訳ないが十分に抵抗はあった。今出会ったばかりである。突然しゃしゃり出てきた初対面のこの女性が、なぜ自分のためにこうもしてくれるのかさっぱり意味が分からないのだ。
しかし、犯人はサークルの中にいるのではないかという推測を信じるとしたら、これほど不気味なことはない。このまますぐ近くにいる犯人を放っておいたら、またいつ同じいたずらをされるかわからない。彼女なら必ず犯人を見つけてくれるという確証はどこにもないが、単なるいたずらではないという一理ある説明をしてくれた彼女にちょっと賭けてみてもいいかな、と思った。
「見つけられなくてごめんなさい、なんて言いません」
彼女の引き締まった美声が響いた。茅ヶ崎は振り向いて次の彼女のその心を待った。
「必ず犯人を見つけますから」
彼女の髪が再び風で靡いた。
能勢はちょっとだけ期待してしまった。もしかして、本当に彼女は犯人を見つけてしまうのではないか、と。
「じゃあ、わたし、サークルに戻るね」
「ちょっと待ちなさい」
男3人を残して先に退散しようとした彼女を茅ヶ崎は呼び止めた。
「まだ聞いてなかったが、君、名前は?」
彼女は満面の笑顔で答えた。
「水咲といいます」
「ミズサキ?……覚えておこう」
第1話 たった一人の目撃者~事件編《前編》【完】