依頼人 1
「どうぞ、おかけ下さい」
「はい」
私は、簡易テーブルのイスへお座りいただき、依頼人にインスタントコーヒーを用意した。依頼人の表情から察するに70前後のお年に思えた。あくまでそう見えただけで、今でも本当の年齢は知らない。依頼人の名前は伏せさせてもらいたい。
「それで、依頼の内容は、何でしょうか?」
「ええ、そのこと何ですが、お願いしたいと
思いまして。大丈夫ですかね?」
「大丈夫かどうかは、あくまでも依頼の内容で
判断させていただいております。どのような
依頼ですか?」
「大きな覇権戦争が局地で続いております。どう
思いますか?」
「覇権戦争ですか?そうですね・・・まあ、私は
自分が生きている間に、身近で戦争が起こると
思いませんでした。私は、戦争というものは、
とっくに終了した過去の話題で、民主主義の
時代に生まれましたから、そのまま普通に
世の中を生きて行くものだと思ってましたね」
「敵国が、優勢になって来ているんですよ」
依頼人は、私が聞こうとした依頼内容に、なかなか
言及してくれなかった。最近、始まった民主主義国連合と独裁国家群との局地における覇権戦争を話し出したのである。これは意外だった。私は、簡単な依頼を引き受けて、事案を解決し、日銭を稼ぐ必要に追われていた。
パンデミック、局地紛争、世界経済が不透明感を増していく中で、世界のシステムがこのまま民主主義国リーダーのもと、維持できるかの瀬戸際にいるのだ、との持論を、依頼人は私に説明し続けたのだった。私は、インスタントコーヒーの2杯目を用意しながら、この依頼人を追い払うことに決めた。この人の依頼はたとえ何であっても断ろうと。依頼内容を語らない依頼人などいるだろうか?
私は、政治に関心が全くない。覇権戦争にも関心はない。私は日々、どう食べて行くかのみ考えながら、そろそろ、このどうしようもなく利益率の低い探偵事務所をたたみ、新しい生活を始めようとさえ計画していた矢先だったのだ。依頼人の世間話について行く情熱は、すでに冷めきっていた。
「あ、あのう。そろそろ用事がありまして。もし
ご依頼に関して、話をすることに躊躇して
いらっしゃるなら、また次回、ご連絡下さい
ませんか?少し予定が、今日はありまして」
「ああ、そうですか、これは、すみません。また
改めて、お訪ねします。次は、他の者を代わりに
出向かせます」
「分かりました。では、お気をつけて」
その依頼人の男は、冷めきったインスタントコーヒーの2杯目を一気に飲み干した後、去って行った。