ほんの少し前の話
初春のアスファルトは陽気に照らされ温かいはずなのに、寅の身体は地面の上でどんどん冷たくなっていく。
今思えば、自分のこれまですべての行動が壮大な死亡フラグだったんじゃないかと寅は走馬灯でもみるかのように先の出来事を思い返す。
高校生という縛りからようやく抜け出した解放感からか、大学に通うため、もうすぐ別の街に引っ越すことへの寂しさからか、柄でもなく寅は最後に自分の生まれ育った町を見て回ろうといつもの通学路から離れて少し遠回りをすることを思い立った。
車通りの多いビル街に出ると、ビルに映った青空がより一層澄んで見える。車や人が行き交う喧騒も、道路脇にひしめく飲食チェーン店から立ち込めるジャンキーな匂いも、この街を彩る一部なんだと思うだけで清々しい。
街が俺との別れを惜しんでいるようだ。でもそんなに悲しむことはない。俺もこの街の事は忘れないからよぉ。
この景色を心に刻んで、新しい大学生活を迎えようじゃないか。今までの事なんて関係ない。今度こそは、新天地で友達を沢山作るんだ。
そうだ、俺にはもう輝かしい明日が待ってる。みんなもこんなに祝福してくれている。花も、鳥も、ほら、目の前を横切る黒猫だって。
頭の中お花畑で感傷に浸りながら歩いていると、ふと、道路の真ん中にひらひらと揺らめく何かが見えた。
この桜庭寅、自称、目付きは悪いが視力は良い男で通している。これが自称だなんて、悲観的も良いところだ。
目を狐のように限界まで細め、よくよく凝らして見ていると、それは間違いなく紙幣、それも日本円にして一万円であった。
なんたる幸運、なんたる好機。やはり日頃の行いが良かったからかな。神様も俺の高校卒業を祝福してくれているのだろう。
辺りを見回してみるが、この時間帯の人通りはまばらで、あの一万円に気づいている人がいる様子もなかった。
これは神様が自分に拾えと言っているようなものではないか。ならば神託に従うは人として当然のことだ。
誤解しないでほしいが、俺はこの一万円を拾ったからといって、自らの懐へ納めようという邪心な考えを起こしているのではない。
無論、その後は近くの交番に届けるつもりだったさ。決してお札なんていう名前もなにも書いてない、持ち主の特定できない落とし物については、正式な手続きの上、ほとんどの場合が拾った者に譲渡されるのが一般的で、それを狙っている訳ではないから。
そうと決まれば善は急げ。急がば回れ。
寅は颯爽と道路へ飛び出した。もちろん左右確認して。どこから車が来るか分からないからな。
右左右、ついでに上下も確認して、いざ、道路の中央へ走り込む。
「よし、ゲット!」
そうして風に飛ばされる一万円をすんでのところで捕まえた時、目の端で黒いものが動いた。
先ほどの黒猫。ヨロヨロと前方を注意するでもなく、地面に目を落としながら力なく歩いている。
それだけならまだ良かった。黒猫は歩道を抜け、車道へと飛び出して来ていたのだ。
「あいつ、ちょっとやばくないか」
いやでも、このまま渡りきれれば問題はない。そう思って視線を先に移すと、よりにもよって大型トラックがこちらに向かって来ていた。
しかもあのスピード、黒猫のこと見えてないぞ。
ここは広い一本道の割に車通りが少ないせいで、いつもより飛ばす車が多い。加えてあのトラックの運転手、運転中にスマホ見てやがる。
どうする、助けるか。この距離と時間で助けきれるのか。下手をすれば自分まで巻き添えになりかねないのに。
そうこうしている間に、トラックが黒猫のすぐ目の前に迫る。
危ない、避けろ。
その時、歩道から一人の少女が飛び出した。
艶やかな黒髪。白い肌。どこかの高校の制服を身に纏い、カバンを投げ捨て、黒猫に向かって駆ける。
「おい馬鹿っ、間に合わなーー」
次の瞬間、寅の視界は静止した。否、世界が静止した。
我に返った寅が目にしたのは、少女が黒猫を抱き抱えている姿だった。少女の手は黒猫に届いたのだ。
そして少女の身体を、大型トラックが直撃する瞬間だった。
1コマを切り取ったかのような映像が、確かに目の前にある。
超常現象か。それとも一種の走馬灯か。いずれにしても、次の瞬間に待つのが最悪の未来であることは容易に想像できる。
そして、その結末、確定された未来を、誰も変えることは出来ないのだと寅は悟った。
全く、こんな日に嫌なものを見させられた。わざわざその瞬間を見せてくれなくても良かったのに。
あの少女。黒猫を助けるために、自分の命を犠牲にするなんて、どうかしているとしか思えない。あの黒猫だって、助かる確証はないんだぞ。それこそ、命の無駄遣いと言っても大袈裟じゃない。
だが、今から起こる悲惨な光景を、こんなにも近くにいながらただの傍観者となった自分が、どうしようもない悪者のような気がした。掌の諭吉さまはひどく悲壮な表情だ。
寅は肩を落として、小さくため息をついた。
その時、
あれ、何かおかしくないか?
俺は今、ため息をついた。この止まっている時間の中で。
寅は恐る恐る、足を一歩踏み出す。すると、足は寅の思い通りに、確実に一歩前に出た。この世界の中で、寅は動いたのだ。
嘘だろ。俺はスーパーマンにでもなってしまったのか。
辺りを見回しても、相変わらず何もかもが止まったまま。目に映るのは大型トラックと、一人と一匹だけだ。
あの子達を助けろと、誰かがそう言っているような気がした。
本気か、いつまた時が動きだすか分からないんだぞ。最悪の場合巻き添えなんてこともあり得る。それにあの子達は俺とは全く関係ない、赤の他人。助ける義理などどこにある。
このまま、時が動き出すのを黙って待っていようか。何もせず、助けられる命を見過ごして。
そしたら俺は、立派な人殺しだな。いや、猫殺しでもあるのか。
結構なことじゃないか、特に今まで人から恩を受けたこともない俺が、白状なのは至極当然。それに今逃げ出せば、誰に見られる事もなく、咎められることもない。
そうだ、家に帰ろう。これは単なる白昼夢で、俺は嫌な夢を見ただけだ。真っ直ぐ家に帰って、風呂に入ってきちんと寝直そう。そうすれば、こんな悪夢も忘れるような良い夢が見られるはすだ。
きっとこの止まった時間も、神様が俺に逃げ出す時間を用意してくれたに違いない。
さよなら、名前も知らない猫と少女。願わくば、当たり所が良くてどちらとも助かることを。
寅はその光景に背中を向け、歩きだした。
風はない。音もない。あるのは静寂に響く、自分の足音だけ。
この時間は一体いつになったら動き出すのだろう。永遠に止まったままだったら面白そうだが、何かと不便なこともありそうだ。まあそんなことは、なった時に考えればいいこと。今はただ、足早に自宅を目指すだけだ。
そして3歩目を踏み出した瞬間、寅の体は大型トラックに向けて走り出していた。
一枚の紙幣が宙を舞う。
くそっ、あの子は馬鹿だ。見て見ぬふりをすれば罪悪感も感じずに済んだのに。お前も人間だろ。だったら自分の命が一番大事な事くらいわかるだろ。
そんで俺はそれ以上の馬鹿だ。
不覚にも、トラックに飛び込んだ少女を、カッコいいと思っちまった。
これは俺の意思じゃない。あの少女に感化されただけ。俺を動かしているのは、彼女の偽善だ。
だから不道徳な俺じゃなく、あの子を助けてやってくれ。そして、夢ならハッピーエンドであってくれ。
心臓の鼓動がうるさい。踏み出す足が小刻みに震える。
運転席に、顔を青白くして目を見開いたトラック運転手が見えた。
あぁ、生きてたら、あのトラック運転手に顔面パンチをくれてやりたい。
頼む、時間、動くな。
「届けぇえーーー!」
寅は必死に彼女に手を伸ばした。
あと数センチ。いける。助けられる。
そして寅の手が彼女に触れた瞬間、思いも虚しく、大型トラックは爆音のクラクションと共に、寅たちを宙に舞い上げたのだった。