三話
第一章・眠り姫と入学初日と奇妙な縁
俺の朝は早い。
二時に寝たにもかかわらず、今日も六時の時計が俺を出迎えた。睡眠時間で言えばたったの四時間だが、まあいくつかの授業や昼休み、それと部活時間に寝ればトータルで七時間くらいは稼げるはず。分眠はあまり体に良くないだろうが、ここは医療大学の系列校宿舎だ。相応しく体に良い食事が約束されている。プラマイゼロという事で一つ手を打って欲しい。
ちゃっちゃと寝間着からフード付きのジャージに着替え、スポーツ&ゼリー飲料、それと分厚い本を一つ抱えて外に出る。四月とはいえまだ六時だからか、空気が青い色をしている。ドラゴンの青とはまた違った、沈着かつ安らぐこの色も俺は好きだ。人もほとんどいないしな。
ヒュゥヒュヒュルルル……――
少し捻じれた風が被ったフードを揺らす。気にせず駆け足で宿舎の境界を越え、デリネェト材の道路を踏みつけるように走る。もう四年も続く新日常の風景だが、まだまだ俺の眼を楽しませてくれる。走っている振動が左腕に持つ本を揺らし、良い感じに負荷をかけていく。俺考案のランニング中腕力増強訓練だ。疲れたら右腕で抱え直し、走り続ける。これが中々効率的らしく、この前の身体測定では握力90kgを叩きだしてしまった。まあ、常日頃家宝の木刀振り回したりハンドグリッパーで鍛えてるからってのもあるけど。
腕に劣らず日々鍛えている足が新たに歩道橋を見せる。ここの歩道橋は珍しく旧式で、きちんと階段がある。不便だとは思うが、俺としては磁力浮遊式の普通の奴より鍛えられるから気に入っている。しっかりと踏みしめている感触が足を伝ってきて、より足に負担がかかっている事を悟る。とはいえこれくらいでへこたれる俺じゃあない。あっさり上って……しかし、ふと立ち止まった。
この目に、巨大な島が見えたからだ。
長ったらしい正式名を抜かせば、それは空中都市……そういえば、今日が滞空日だったな。
科学技術の粋を集めて作られた、巨大かつ機能美溢れる鉄の都市。開発開始から四十余年、裏向きですらたったの一度しか事故を起こしていない、人類の新たな土地。
形状はと言えば、ウェディングケーキの真ん中を切り取ったような形。底面には無数のプロペラが蠢き、側面には各種センサーやレーダー、姿勢制御のブースター等が無精髭のように生えている。上底には遥か空へ伸びる無数のワイヤーが専用の宇宙ステーションへ繋がって、その巨大すぎる島を支えている。某映画のような神秘さは感じられなくとも、その壮大さだけで十分畏怖を感じさせる。
あ、いや……普通、科学の偉大さをしみじみと実感するんだったか。
「やっぱ憎ぃより凄さが強いよなぁ、あれは」
人類が開発した五大都市。海上都市、海中都市、地下都市、宇宙都市、そして空中都市。
開発当初は色々と問題があったらしいが、今では危険度ナンバーワンの空中都市ですらたったの一件死亡事故を起こしただけで、それも空中都市自体の落下ではなく一部の土砂と金属片が経年劣化で落下して家を一つと犬一匹、あと人間二人と人間一人の意識を潰しただけで、他の都市に至ってはその手の事故が一度も起こっていない。まあ、海上を除けばむしろその手の事故即全滅に繋がるような場所にあるから、当然と言えば当然か。
「……ま、いつまで見てても仕方ないな。走ろ走ろ」
遥か先に佇む空中都市から眼を外し、複雑に思いながら歩道橋を下りた。
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ランニングから帰ってきて、まずする事はペットボトルとゼリー飲料の容器をゴミ箱に捨てる事。大昔は分別という面倒くさい作業があったらしいが、素晴らしき科学様のおかげで特に気にせず捨てることができる。まったくありがたい事だ。
ジャージを水式洗浄機に入れ、シャワーを浴びる。何気にカラオケボックスより高性能な防音処置を施されているため、遠慮無くアニソンを歌わせてもらう。三、四曲歌ってから浴室を出て、充電中の諸々を回収して鞄に詰め、今時珍しい紙の本を何冊か入れる。まだまだ出版所があるとはいえ、俺が生きているうちに完全電子制に移るのも時間の問題だろう……まったく嘆かわしい。
「はぁ……」思わずため息を吐いてしまう程だ。
少し待つと洗浄機が動きを止めた。今さら思い出した靴下を履きながら(横着)洗面所に行ってジャージを取り出し、そのまま浴室の天井に吊るす。太古の時代では洗濯板片手に川でゴシゴシ洗っていたんだと思うと、本当に便利な時代だと思う。
再び部屋から出て、今度は食堂に向かう。
一応部屋にもキッチンは備え付けられているが、俺は料理しないからな。部屋にある飲食物はせいぜいジュースとお菓子、あとは孤児保護官の新村さんが来た時用のお茶と茶菓子。それからインスタントのコーヒーくらいだ。高校生の一人暮らしにしては、我ながら常識的な範囲だと思っている。
「おはよーございます」
雑菌滅殺フィルターをくぐると、途端に良い匂いが胸の中に染み渡る。今日はパンとコーヒーか。ここのコーヒーは豆を挽いて作ってるから、日によって味が変わるんだよな。あくまで『美味しい』範囲内なのが地味に嬉しい。
「おはよう、草葉ちゃん。今日も元気に走ってきたかい?」
まだ早い時間で誰もいない食堂の定位置に着くと、厨房の方から調理のおばちゃんが声をかけてきた。このやり取りも都合四年続く。コミュ障の俺でもMDOのプレイヤーを除き、ここのおばちゃんだけは例外的に話が出来る。おばちゃんの名前は知らないけど。
「ああ。途中で空中都市が見えてさ。やっぱすげぇよありゃ」
一旦席を立って、ウォーターサーバーから水を汲んで戻る。
「本当よねぇ。おばちゃんが若いころは、この辺も都市反対派がよくデモを起こしていてね。おばちゃんは関心は薄かったけど、初めて見た時は怖いと思ったよ」
「へぇ。そんな奴らがいたんだ」
反対意見が出ていた事は知っていたが、デモまで起きていたとは。わりと初めて知った。
「どんな事でも、規模が大きくなれば不思議とそれに反対する輩は生まれるもんだよ」
妙に実感の籠った言葉だ。そういえばこの前おばちゃんの亡くなった旦那さんはテロリストに殺されたとか聞いたな。ひょっとしてその絡みで……
「滅びればいいのにな、そんな奴ら」
別に同情をしたとかじゃ無いけど、そういう奴らが如何に無益かっていうのは五大都市の存在が証明している。空中都市はただ人が住んで特産品を作ってるくらいだけど、他の都市は食料、嗜好品、酒、娯楽、各都市ならではのスポーツからおなじみ特産品やその他雑貨等々、普通の大地に住んでいる俺達にわりと無くてはならない物を生産してくれている。でなければとっくに人類は辺境の村のように人の間引きをしなければ全滅するような状態に追い込まれていた筈だ……って教科書に書いてあったし、実際その通りだと確信を持っている。
その都市を建設させないようにした奴らは、人類の敵と言っても過言ではないだろう。
けれどおばちゃんは「若いねぇ! あっはっはっは!」と笑い飛ばした。
「時には反対する人も必要さ。その為の民主主義なんだからねぇ」
「……俺としてはグダグダに過ぎる今の国は嫌いなんだが」
一時期、日本は天皇を頂点にした帝政となっていた。五大都市建設計画なんていう国際的大事を主催したのも、日本が日本帝国だった頃だ。
結局、五大都市建設計画が成功する直前、というタイミングで民主革命とか名乗った反乱軍が当代皇帝を打倒し、再び民主主義に戻ってしまったのだが。
「そうねぇ。おばちゃんも今の政治が良い方向に動いてるとは思えないわ。でもね、王様とか皇帝とかは、いつか極悪人を生んじゃうのさ。だから多少まごついていたって、皆でどうにかしようっていう姿勢は、尊いものだと思うよ。さ、ご飯が出来たよ!」
「お、待ってました!」
おばちゃんの意見に『そういうものか』と理解し、直後に頭の片隅に追いやって受け取り口へ向かう。予想通り、パンとコーヒーをメインに、軽いベーコンと目玉焼き、生野菜のサラダとバランスの良い料理だ。ではでは、いただきます。
「召し上がれ! それと、高校おめでとう! 頑張りなよ、妹ちゃんの為にもね」
ご飯を食べ終え、軽く歯を磨いた後。今日もあそこへ、向かう。
ホーリスタル大学附属病院。
受付のお姉さんと普段通り面会の手続きを行い、一階の……特別病棟へ向かう。
「草葉打鉄です。草葉望未の面会に来ました」
「草葉君ですね。はい、お入りください」
他の部屋よりやや厳重なセキュリティーが施された部屋の横にある端末へ自分の名前と用向きを伝える。相手も四年の付き合いなので、あっさり許してくれる。ドアが音もなく開き、清浄な匂いがぶわりと降りかかる。
ここにも設置されている雑菌滅殺フィルターを越えると、十数台のゴツイ近代風棺桶がずらりと並んでいる。その中で一番奥の左手にある棺桶……試作治療用VR機の元へ向かい、備え付けの椅子に腰を掛ける。
横たわっているのは、病的に白い俺の妹。
あの忌々しい事故で意識を失い、以降一度も目を覚ますことなく……いわゆる、植物状態のまま、四年の月日を無為に過ごしてきた哀れで不憫な、愛する妹だ。
「のぞみ、おはよう。今日は良い夢を見れたか? って、毎日毎日物騒なもん見せてる俺が言えた事じゃないかもしれないけどな」
望未は何の反応も見せない。
ずらずらと並ぶモニターも、枯れ枝のように細い腕を貫く点滴も、望未の体を半分覆っているドデカイVR機も、昨日来た時とまったく変わっていない。
今日も、望未におはようと言ってもらえなかった。
「兄ちゃんは、今日も元気だよ」
寂しい。
天涯孤独に近い身の上、誰に格好つける必要もない。けれど妹に、それを押し付けるような真似がどうしてできよう。だから思いは心の奥底に縛り付けていれば良い。ポジティブな事を言い続ければ、花も長生きするんだ。たとえオカルトの類だと言われようと、俺は良い事しか望未に言わないし、聞かせない。
まあ、聞こえないんだけどな。それでも、聞こえていると思うしかないじゃないか。
「……今日も、持ってきたぞ」
そう言って懐から記録デバイスを取り出し、備え付けの端子に接続させる。
中身は、ドラゴンアポスルのMDO活動記録だ。
「昨日は久しぶりにルナナと出会ったんだ。それで、いつもの弟子二人と一緒にフォーグ廃砦でジェネラルスケルトンを討伐してきた。トカゲが二回も死にかけたけど、ルナナが上手くフォローしてさ。シャナに散々怒られてたよ。そう言うシャナも、俺が密かにシャドーボーンを始末してなかったら三回くらい死んでたんだけどな。二人ともまだまだだ。けど、それなりに才能はあってさ。でなきゃ一年であんな所を四人でクリアなんて出来ないからよ」
――望未は、VR接続空間限定で視覚が生きている。
他の感覚……いや、それ以外の全てが眠っていると言っても過言ではないから、一緒にゲームは出来ない。他の感覚に意思が反映されないのだ、とてもゲームなんて出来やしない。
医者からその話を聞かされた時は、あまりの悔しさに涙が出た。
俺は……草葉打鉄は、大した人間じゃない。
その俺に何が出来ると言うのか。現実はおろかVRすら視る事しか出来ない、たった一人の家族に。
愚かな俺は、VRMMOに頼るしかなかった。
この四年の月日を、退屈に過ごさせないために。
「……四年か。兄ちゃんはもう高校生だぞ。あと五年すれば酒も車も女も煙草も許される。代わりに仕事と責任が増えて、今みたいに気楽な独身生活が出来なくなるかも。それはそれで楽しみだけどな」
そろそろ時間だ。
昨日挿したデバイスを回収し、痩せこけたバンシーのように白い妹の頬へキスをする。立ち上がって、背を向けた。
「またな、のぞみ。明日から冒険要素はちょっと短くなるかもしれないけど、許してくれよ。あいつらも俺と同じ、高校一年生らしいからな」
その代わり、まだ飛んだ事の無い場所を、イフィルニと共に見せてやるからさ。
無音、微かな呼吸、意識のない人、VR機、それだけの部屋から、そっと退出した。
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