十九話
第三章・愚かさの代償を虹色の炎で称える
死んだみたいだ。
いっそ本当の意味で死んでしまえればどれだけ楽だったことか。
耳にノイズが残り続けている。医師と科学者の話では精神的ショックによる一時的な聴覚誤認障害らしいが、俺にはこの音が一生染みついて離れないように感じられる。
三日三晩、意識は常に悪夢を見ている。起きている時も、寝ている時も。
光を見れば光球を、人を見ればゴミを、チャイム音を聞けばレベルダウンを、無機物材を見れば悪趣味なホールを、そして青を見れば、イフィルニを――
「腐った面をしているな、アポル君」
喫茶、『ラインハルト』。
一番奥の席で延々コーヒーを飲んで気を落ち着かせていた俺に、ゴミ……じゃなくて女が……見た事のある顔の女が話しかけてきた。
「おい、そのどこかで見たことあるような~って顔は何かね? 君の担当教師兼監視者の木下瑛華。またの名をシャットだ」
木下……シャット……木下先生か。
「あぁ。なんか用か?」
「ここのマスターから依頼を受けてな。沈んだ君が鬱陶しいそうだ」
……そうだよな。店側としては勿論、草葉の一族としても、守るべき者を守り切れなかった上に失ったモノを取り戻す努力もしない奴など、一般人よりも価値が劣る。
「そりゃ、悪かったな。ここのコーヒーはたまに夢見心地になるコーヒーが出るから、ちょっとな」
「それはヤバい薬か何かが入ってるんじゃないのかね!?」
大丈夫。ただ滅茶苦茶美味しい水とちょいとスパイスを混ぜた粉を使ってるだけだから。違法薬物どころか脱法も使ってない。ただ輸入が難しいだけで。
一応誤解を解いておくと、何故か木下先生は対面に座った。俺、もう行こうかと思ったんだが……
「聞いたよ、君の身に起きた事を。トーラと言ったかな。彼女から」
木下先生の感情は、よく分からない。情けない物を見るような、可哀想な物を見るような、なんの心も無いような。分からん。
「そうか」
――あの後、俺はトーラと多数の『使徒』に助け出された。
トーラは俺とイフィルニが消え去った理由を即座に把握し、知り合いの『使徒』へ連絡。集められるだけの『使徒』を集める傍ら、俺とイフィルニが消えた空間にサーバーの許容範囲外の魔法を何度も何度も使い、運営をガチで泣かせつつ仮想空間を強引にこじ開け、外接されていたらしいあの悪趣味な空間へ侵入。俺やその場にいた容疑者の生き残りを確保し、竜骨山へ帰還したそうだ。そうだ、というのは、俺の意識が現実を拒否していたせいでよく覚えていないからだ。
「トーラ……そういえば、まだ礼を言っていなかったな」
俺の精神は今の俺の想像よりヤバかったらしく、ガブリエルとかいう『使徒』の一人が使徒権限で強制ログアウトさせ、直ちに運営から救急へ連絡が行ったらしい。その際に望未の担当医が話を聞きつけ、一時的に隔離してVR治療を行った、らしい。
それが一週間前のことで、聞いたのはあの日から四日経った頃。
隔離病棟と自分の身体を破壊する勢いで暴れていた俺が、ようやくガス欠を起こした時に鎮静剤とセットで聞かされた、どうしようもないエピローグ。
「彼女だけではないぞ。君とイフィルニ君を特殊空間に引き摺り込んだ犯罪者共の逮捕に尽力したのは我々でな。クラッカーには逃げられたが、奴らが根城としていた空中都市の踏み込み許可を得る為に弓良君……いやルナナ君にも協力してもらった。ラガルト君やシャナ君も、君の不在に不安がるカレラクト君を始めとした君のドラゴン達を安心させ、留めてくれていた」
そうだったのか。近く、MDOか学校に行ってお礼の一つでも言わないとな。
木下先生は鞄から一枚の紙を取り出し、俺に渡してきた。その様式はどこかで見たような憶えがあり。
その、内容は……あぁ、またしても。
「君を陥れた犯罪者共は全員火星送りにしておいた。その収益の一部を定期的に君の口座に振り込むよう根回しした契約書がこれだ。無くて困るような事はあるまい。取っておきたま……な、何をしようとするんだ君は!」
衝動のまま破り捨てようとした紙を木下先生がバッと取り返し、守るようにでかい胸の中へ埋めた。
「……そんなものは要らん。イフィルニを殺した奴の金なんて、いらねぇ」
「ほう、舐めた口を利くではないか。イフィルニ君を殺したのは君だろうに」
柔肌に突き立てる直前で、自分の右腕を取り押さえた。
殺意が沸いて湧いて仕方が無い。が、その言い分は正しいと俺の冷静な所が断ずる。
「聞けば、君は不用意にもウイルスが仕込まれていると思しき場所でイフィルニ君に求婚したそうじゃないか。その結果が、この様だろう?」
右頬に右の爪を食い込ませ、破壊衝動を抑える。あの日から、どうにも感情と身体が制御出来ない。自暴自棄なんて、愚かしい行為だというのに。
「……君には同情するよ。同じくらいに、君のような情けない男を守るために散ったイフィルニ君にも、心底同情する」
手は出なかった。
感情がごちゃごちゃになって表に出てこない。悲しくて、怒って、憎んで、辛くて、苛立って、情けなくて、冷静で、激昂して、絶望して。
代金を置いて躓きながら立ち上がる俺を、木下先生が言葉で止めた。
「逃げるのか。とんだ見込み違いだったよ、君はもう少し気骨のある男だと思っていたが、勘違いだったか」
勘違いだ。
そう言い捨てて帰ろうとしたが、ふと立ち止まった。
「……俺の生き甲斐は、これでもう妹の望未だけだ」
ただ吠えて逃げるのか。竜の咆哮は、ただの遠吠えにあらず。生物の心を揺さぶり、死の恐怖を与える音の武器であるぞ。
イフィルニと共に探索した、古の竜の都市の碑文に記された兵法の一つが、不意に胸の奥から湧いてきた。
「あんたの言う通り、俺は逃げるさ。逃げ帰るよ。ここの所、顔も見てやれなかったからな。兄ちゃんだし。もう情けねぇ俺じゃいられねぇよ」
どうも、予想以上に俺の中でイフィルニは大きな存在になっていたみたいだ。大事な妹の事を忘れる程の、とっても、大切な存在に。
この傷は、どうやったって治す事など出来ないだろう。
だったら、痛みに慣れるまで、他に残った心を大切にする。
「これで二度目だ。こうなった時の対処法なんて、あんた以上に知ってるよ」
父さんと母さんがいなくなって、望未が殆ど植物状態になった時。
あの時は、天涯孤独をロマンと捉えた草葉の援助が完全に無い状態で、ややこしい手続きやまだ空中都市の根回しが行き届いていなかったマスコミを追い返したり、望未を目覚めさせる方法を探したりで、悲しさを感じる暇も無かったから、表向きは泣かないようにしていた。けれど夜になれば、ずっと夢の中で独り泣いていたように思う。
今からはきっと、イフィルニを忘れる日なんて来ないだろう。
だけど、それで人生を怠るような真似をすれば、今度こそ潰れて、ドラゴニュートの誇りもまた、穢れる。
俺はもう子供じゃねぇんだ。
子供じゃなくなっちまった、大人でもない何かなんだ。
「一人葬式くらい、静かにやらせろ」
今度こそ本当に立ち去る。ここに来るのも今日が最後になるだろう。逃げたままの登場人物を草葉は許さない。今度来たら、実弾の入った猟銃がお出迎えするだろう。
迷惑かけた分も上乗せして金をテーブルに置き、喫茶店の扉を開けた。
その直前、背後からシャットに呼びかけられた。
「ルナナ君からの伝言だ。『こう言えば意地っ張りで頑固で一途なアポルに言葉を聞かせられるようになるよ』と」
…………憶えてろよあの野郎。今度クラスで会ったら張り倒してやる。
「そしてもう一つ。『商談の続きをしたいので、とりあえず拉致る』と」
……は?
そう聞き返す間もなく、喫茶店の前に待機してたっぽい黒服グラサンの男共に滞空していた巨大ドローンにワイヤーで括り付けられ、あっという間に地上から引き剥がされた。
「ガ、ガラァァァァァァ!?」
久々に素でドラゴン語が出た。なんなんだこの超展開!? MDOの突発イベントと同等だぞ!? しかも速い速い速い!! 高速道路なんて目じゃねぇ!? コラ! 急上昇とか急旋回とかすんな! 胃の中のコーヒーが全部町内のご近所さんにぶちまけられるだろうが! 何してくれちゃってんのこのドローン!? 馬鹿なの!? ハーピーなの!? いつから俺はMDOにログインしていたんだよっ!!
「や、やめ、やめろぉぉぉぉぉぉぉぉぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁァァァァァァァァァァァ!!?」
あっぶねぇ!? 今! 顔! 顔のすぐ傍を鳥の嘴ガァ!? グオォォォォ! 下ろせぇ!
十五分くらい無駄な抵抗を続けていると、不意にドローンの速度が落ちた。
何事かと首をぶんぶん振り回すと、地面が見えた。あ、ありがたい! 今なら某種族が竜から降りた時に地面へ口付けした気持ちが分かる! でも俺は地面に着いたら真っ先にこのドローンぶっ壊してやる!
しかしドローンを木端微塵にする事は出来なかった。
ノイズが、広がる。
青空を背景に佇む一人の少年。今の日本でも珍しい薄い金髪を肩まで伸ばし、中性的な微笑で俺を迎えたルナナは、開口一番。一瞬ノイズが引ける声を発した。
「やあ、アポル。ようこそ空中都市へ。君にとって今日からここは、忌まわしいだけの地にはならない。我が家のようにゆるりと滞在してよ」
…………
弓良がどの面下げてッ! 忌まわしいだけの地にはならない? 我が家のようにって無理があるだろ……この強引な誘拐劇はなんなんだ!?
浮かび上がる疑問の全てを振り払い、ただ黙って弓良光を睨みつける。
未だ草葉一族の当主である以上、この場で取り乱す愚は犯せない。
人生とはビックリ宝箱の連続。驚く暇があれば、じっくりと宝を見極めるべきだ。
もし宝がスカだったのなら、その時は弓良の喉笛を噛み千切ってやればいい。
緩やかに、ゆっくりと地面に近づきながら、俺は耳元のノイズと眼前の金色の静寂にじっくりと苛烈な感情を、探るようにぶつけた。
Final Load
「――つまり、君はまんまと騙されたという訳さ」
目の前にいる存在が信じられない。
この眼がとうとうおかしくなったのかと何度も何度も擦ってみるも、見える者に変わりは無く、無意識のうちに溢れ出る冷たい何かが止まる気配も無い。
「元々君のVR機にはAIソフトが入っていたんだ。君が彼女に接触すれば、彼女のデータは自動でAIソフトに移植される仕組みになっていた、って訳」
身体の芯が全て溶けてしまったかのように、一歩一歩が覚束ない。手と足は今まで浴びてきた数多の魔法、火事、ブレスのどれにも当てはまらない不思議な熱を持ち、夢遊病者のような動きに拍車をかける。
「もっとも、彼女がここにいる理由はそれだけじゃない。君に渡したAIソフトは確かに高性能だけど、一、二時間程度で作業が完了するような代物でもない。AIの移植は人間で例えると脳の入れ替えみたいな物だからね。慎重に過ぎるくらいが丁度良いんだよ」
弓良光の、ルナナの言葉など意にも介さない。ただ理性に納得を促すだけで、心と感情はそこにいる者に釘付けだ。
「じゃあなんで出来ない筈のことが出来たのか、というとね。ウチの電子技術者連中曰く「AIのデータを丸ごとAIソフトに打ち込まれた」かららしいよ。しかも妙なウイルスやバグも無く、確認の為に呼んだMDO運営の人も間違いないって太鼓判を押してくれたよ。ああ、ちなみに今回の事を引き起こした要因は、彼女に仕込まれていたウイルスだったらしいよ」
姿は違う。彼女の体はもっと大きく、逞しく、美しかった。色も、混ざりの無い真の青だった。サファイアを思わせる可憐な瞳に面影はなく、地上の生物を欺く空色の腹は無機質な青に変えられ、翼に至っては柔軟性の欠片も無い金属へすり替わっていた。
「彼女を事実上救ったのは、ネブラっていう裏の業界じゃ有名なハッピークラッカーだよ。興味の引かれた依頼は善悪の区別を付けず受け、必ず成功させる頭のおかしい白瞳黒女。どういう訳か今回はターゲットである筈の君と彼女を助けたみたいだけどね」
だが変わりはない。
決して頭を垂れず、佇む姿に変わりはない。翼第二の関節を地面と平行に足の付け根と同じ位置で構え、悠々と踏み出す姿に変わりはない。突き立て、踏みしめ、拙いながらも決して揺らぐことのない、絶対覇者が如き足運びに変わりはない。
「ま、狂人の気まぐれって奴だろうね。ところで君達、僕はこの場を去った方が良いのかな?感動のフィナーレに乱入する気は毛頭ないよ。どうする?」
「イフィィィルニィィ!!」
「アポスルッ!!」
駆けた。この醜い人生において、初めて何かを求める為に。
血潮を沸かす最も熱き理由。高鳴る胸を抑える薬。大きく空いた、心の穴に収まり溢れ出る冷たい青……失ったと思っていた、俺の逆鱗。
「……やれやれ。相変わらずドラゴンが関わると、これだ」
勝手に溢れた涙が両頬をつたう。
熱と狭まった意識が何度も足を引っ掛ける。あれほど体を鍛えた時間はなんだったのか。この無様は、一体。
青い彼女もまた、俺に歩み寄る。無様な俺と違い、イフィルニはゆっくりと、確実に彼我の距離を詰めてくる。それはまた、無謀な少年が強大なドラゴンに挑む演劇のように。
血が騒ぐ。ドキドキと蠢く体がもどかしい。偉大なる竜と下等な竜人。拙い一歩と愚かな一歩。いや、穏やかな歩みと激しい歩み。理性で操り、本能を燃料に、心で進む。
近づくにつれて蘇る後悔と歓喜をねじ伏せる。
あと五歩。いい加減に考えるのをやめろ。
あと四歩。俺の中に眠り着いたドラゴンの本能で動け。
あと三歩。もうノイズは聞こえない。
あと二歩。イフィルニが止まった。
あと一歩。お互い口を開ける。
鮫より太く鈍く短い牙が静止画のように視える。
向こうからは常と違う、人間の四角い歯と人間の丸い舌が見えている。
互いに開いた顎。
「イフィルニ!」
それを、俺は最も愛する者の名を叫ぶ為に使った。
イフィルニは、この身に牙を突き立てる為に使った。
「ええええええぇぇぇ!?」
「イィッ、フィィルニィィィィっ!」
浅く沈み込む鉄牙の痛みに耐えながら、それでも俺はイフィルニの、俺の最愛の名を叫ぶ。
痛みで上手く力が入らない右腕を無視し、左腕でイフィルニを抱き締める。けれど強くすれば、そのまま弾けて消えてしまうように思えて、ああ、でもこの体を突き上げる衝動の逆らい難い事っ。力いっぱい抱き締めて、二度と放したくない。
果たして、イフィルニは消えなかった。
それどころか肩は尚も痛みを訴え続けている。夢じゃない。幻でもない。死後の虚像でも生前の妄念でもない。この手に伝わる鉄の感触のみが偽り。イフィルニは、確かにここにいる。
ああ、今なら心底肯定できる。
イフィルニが生かした俺の命。それを捨てず、残していこうと決めて、良かった。
「ちょ、テスト開始30秒でいきなり不祥事!? 医療班! 医療班を呼んで―!」
生きていて、良かったっ……!
「アポスルっ、よくも無茶を、したなっ! 全て、憶えているぞ!」
何処かにスピーカーが内蔵されているのか、噛み絞める力を少し強めながらイフィルニが叫んだ。あの状況の事、知覚していたのか。
「ドラゴンの掟を、知らない訳じゃ、無いだろう。殺し過ぎた竜は殺す。悪逆に過ぎた竜は殺す。狂った竜も、殺す。私は、あの時、殺される、べきだった!」
……知ってるさ、そんな事。
殺し過ぎた竜、悪逆に過ぎた竜、狂った竜。そいつらをドラゴンの代わりに殺し回ったのは俺だから、誰よりも掟の事は知っている。
分かっている。分かっているから、俺は無茶をしたんだ!
「知恵を持たぬ子竜、忘却に捕らわれた老竜、そして惑わされた竜は、救う。これも竜の掟に含まれているだろ。あの時のイフィルニは操られていた。だから、俺がイフィルニを助けたのは、『殺竜』の称号を持つ俺が、無茶をしてでも通さなきゃいけない道理だ!」
人間で言うところの犯罪者限定とはいえ、俺の手は血に塗れている。その俺が、楽な殺しの掟だけを遂行する訳にはいかないだろう。掟を使って殺したのなら、掟に縛られて助ける。
もっとも、イフィルニはそれじゃ納得しなかったようだけど。噛む力が一層増す。
「そんな、こじつけが! アポスルがしたかったのは、掟の遂行じゃない! 私を、助けたかった、だけだ!」
咎めるような、否定の前の確認のような。イフィルニは俺を攻めた。
「そうだよ! 他の理由なんざ正直どうだっていいね。俺は愛しちまったんだよ、お前を!」
俺も攻め返した。金属竜じゃあるまいし、守りの姿勢に入る事はねぇ。
助けられたのなら……俺がこの手で救えたのなら、それでもよかった、けどな。
「ふざける、な! 私とて、アポスルを、愛している! だからこそ! 死ぬなら、私の方がと、考える!」
「同じだ! 俺だって、イフィルニが死ぬくらいなら俺が滅される! イフィルニこそ、何故俺を庇った! 俺だったら半々の確率で、死なずに済んだかもしれないのに!」
現代のアンチウイルスソフトは、精神型ウイルスを駆除する。その際、精神型ウイルス、つまり人の心は、乱雑な精神の扱いに耐えきれず、植物状態になる。だが俺のように幼い頃より心を鍛えられた人間なら、死なずに意識を取り戻すことも可能だ。絶対、と言えないが。
「半分でも、死の道が、混じっているのなら! 私は、突き飛ばしてでも、アポスルを生の道へ、戻す! 死の、気配など、我が伴侶に、相応しくない!」
「絶対の滅びの道を進もうとしたイフィルニに言われたくない! 水に落ちるのか、マグマに落ちるかの違いと同じだ。水の中はカナヅチ以外の万物が泳げるが、青の飛竜であるイフィルニは、マグマの中を泳げないだろう!」
「マグマなど、この私が凍らせてくれる!」
「無茶言うんじゃねぇ! 翼も知恵も、封じられていたくせに!」
「ならば、全身を、蝕まれ、手足を、叩き折られ、クラーケンの巣くう、湖の中に、放り込まれたら、アポスルは、どうする! 私と同じく、何もできないだろう! 死とは、それ程に、恐ろしい物なのだぞ!」
「ぐっ……」
咄嗟の反論が思いつかなかった。イフィルニはここぞとばかり、迫撃をかけてきた。
「私を、守る為の、負傷が、原因なのだぞ。それでお前が、溺れたら、私は、自ら、逆鱗を壊す、思いに、駆られるだろう。我が翼を、もぎ取っても、償いには、ならないのだぞ」
竜にとって逆鱗は心臓と同じ。翼は両手両足より尊い物。だが、それなら俺だって……!
「だったらっ! 俺の考え無しで、雁字搦めにされ、逃れ得る事の難い、死の池に突き落とした俺は、どうなる! むかつけきもイフィルニを慕うドラゴニュートやドラゴンが、俺を許さない!」
「有象無象など、知った事では、無い! アポスルを、嬲るというなら、悪霊となって蘇り、蹴散らしてっ……」
「俺が許さない!!」
言葉に被せるよう声を荒げる。抱き締める力を強めて、イフィルニの首に頭を押し付ける。
「お、俺、は……俺はっ、もう、失いたくっ、無いんだ。あ、愛した者がっ! また俺の前からっ、いなく、なるなんて……受け入れられないっ」
涙がポロボロ零れ落ちる。
嗚咽に言葉はつかえ、指先が冬のかじかみのように震え、鼻の奥が痛く澄み通る。
こんな痴話喧嘩も甚だしい言い合いが出来るのも、イフィルニが無事だったからだ。
死ねば、いいや、死ななくとも、愛する者と会話が出来なくなる時は、毒蛇の如く訪れる。
「アポスル……そういえば、お前は、家族を」
イフィルニの顎が徐々に力を失い、やがて肩から引き抜かれた。途端に溢れ出る血飛沫。新たな痛みも俺の心を奪う事叶わず。
背に回された翼と青い頭の熱と冷たさが、ぬるく煮えた心を鷲掴みにした。
「……すまない」
「どうしてっ、イフィルニが……謝るのは、俺の、方だ。ごめん、イフィルニ」
「人間には、こんな言葉が、あったな。両成敗。私たちは、お互いの、邪竜だ」
殺し過ぎた竜、悪逆に過ぎた竜、狂った竜。またの呼び名を、邪竜。罪竜を意味する。
「……ああ、そうだな。俺たちは、互いに互いを死より深く掟より強く、いましめた邪竜だ」
その戒めの名は、愛情。なんと陳腐な言葉だろうか。仮に今を生きる冷めた人間……いや、一世紀以上冷めた心を保ち続ける社会の人間に聞かれれば、馬鹿馬鹿しいと笑い飛ばされるだろう……フッ、愚かな人間など、気に掛ける必要も無いか。
「愛している、イフィルニ」
少し体を離し、機械の瞳を見つめる。その材質は色ガラスか、サファイアか。無機質ながら俺は、彼女の瞳に寒く温かい色を見つけた。
「我が愛す、アポスル」
俺の瞳には何が浮かんでいるだろうか。知りたくもあるが、知りたくもない。
だが俺の表情は、いつかのように別たれることは無かった。彼女の青い瞳に映る俺は、笑んでいた。
「好きだ、イフィルニ。この命はイフィルニの為に使う。反論は聞かない」
イフィルニの頬に手を添える。冷たい感触は、鉄の物でなければMDOの時と変わらない。
「私のアポスル。我が存在の、全ては、お前の為に。反逆の、息吹は、凍てつくと、思え」
彼女は顎を開いた。先ほどのような猛々しさは無く、やや下を向け牙を見せぬように。
ドラゴンにとって、この行為が何を意味するか。
それを知らない俺じゃないし、期待に応えないヘタレでも、無い。
「イフィルニ……」
永遠に愛おしく、恋々と竜の名を呟く。
膝を曲げ、イフィルニの頬に手を当てたまま、顔を前に出す。自ら彼女の牙が見えるよう、下から覗き込み、俺もまた口を、開く。
「古の風に委ねる時は、共に翼を休めよう」
徐々に膝を戻し、眼を瞑ったまま、彼女の顎へ自らの口を押し込む。牙とはいえ刃は付いていなかったのか、頬が傷つく事は無く、彼女の舌に……舌に……あ、あれ? 舌が、無い?
「……どうやら、この身体は、まだ、未完成、のようだ。致し方、ないのか……むっ!?」
…………ええいっ、ならば!
恥ずかしさを誤魔化すようにさっと彼女の顎から顔を離し、残念そうに顎を閉じた彼女の口先に、キスした。キスして、ずっと離さない。
「アポ、スル?」
……癪だが、人間流のフェギ。キスだ。初めては随分無粋になってしまったが、けれども。
「アポスル……」
彼女の、イフィルニの幸せそうな声が聞けて、俺も久方ぶりの、幸せってやつを覚えて――
バンッ! バタドタバタ、ダン!
……あん?
突如聞こえた異音に何事だと首を左右に向けると、右側に何かがいた。
いや、正体は分かる。見た瞬間、つい数日前出会ったばかりの面々だと、気付いた。
問題は何故、彼らがここにいて……俺と、イフィルニの……き、キスシーン直後、に――
「あわわわわ、キスしたよ、キスしたよ! イフィルニちゃんとアポルが、キスした!」
「お、落ち着いてシャナ。痛い痛い、拳が痛い! そんな事より、僕はその前にアポルが自分の頭をイフィルニさんの口の中に突っ込んだ事の方が気になる! 食べられるかと思った!」
「君達は大切な仲間相手にもう少し他の感想を抱けないのかね!? 私としてはあの肩の傷や血こそ気になるんだがっ!」
「あ~あ、こっそり覗いていたのが台無しだね……とはいえ、医療班の仕事をこれ以上延期させる訳にもいかないしね。やっちゃて、皆さん」
「テェメェェェラァァァァァァァァァァァァァァァ!!」
覗きだと!? 除きだとぉ!? フィナーレがどうとか言ってた癖に、何を野次馬根性発揮させてやがるっ! こんっの、たわけ共がぁぁぁぁぁ!
「アポルも落ち着いてください。僕たちはアポルとイフィルニさんの復活を祝って集まっただけで……」
「わー! アポルが怒った! でも怖くなんかないもんね! MDOではアイアンクローを食らう状況だけど、ここは現実! いつもからかわれる分っ、存分にいたたたたたたたっ!!」
「この俺を舐めるなよ、ク、ソ、ガ、キ、ど、も、がぁ! 今回は許さん! 全員頭蓋粉砕の刑だ! おら! かかってこ、い……か、ぁぁぁ、ぁ……」
い、いかん。目の前が急に暗く……貧血!? この俺が、貧血だと!? ああ、そういえば思いっきり肩を噛まれていたんだった! くぉぉ、この馬鹿共に制裁を加える事無く、意識を沈めるなん、て……
「うわぁ、これは洒落になってないかも! 医療班は医務室へ急行! 皆はアポルを医務室に運ぶ……イフィルニちゃん!? 無茶しないで!?」
遠のき行く意識の中、冷たくなり始めた俺の身体が、何かに乗せられた、ような。
「す、すまない、アポスル。これは、私が、全部悪い。責任をもって、運ぶ」
「この際否定はしないけど! なるべく揺らしちゃダメだからね!? MDOと違ってこっちだと人間はすぐ死ぬから! お願いだよ!? テストで死人が出たら計画中止になるから!」
そう、か。俺はイフィルニに背負われた、のか。
薄れゆく意識。ドタバタとやかましいアレコレ。呆れつつも、浮かぶ笑顔を止められない。
は、はは……おっと、そういえば、きちんと言うのを、忘れていたな。
「ありがとう、な……イフィルニ。トカゲ、シャナ、ルナナ、シャットも。俺は、幸せだよ」
ご愛読、ありがとうございました。この作品が三年前の私の全力であり、唯一の完結小説でした。こういった形であっても世に出す事が出来て、とてもうれしく思います